四、上司と部下

「パフェをさ」

 宮前ミヤマエが話しだしたので、長門ナガトは顔を上げた。彼らの目の前にはそれぞれ運ばれてきたばかりのパフェが鎮座している。

「パフェを食いたいときがあるわけじゃん」

 そうですね、と長門は向かい合う上司の何も考えていなさそうな顔を見ながら相槌を打つ。

「人間、誰しもさ」

「そうですね」

 その話に着地点は用意されていないようで、少し沈黙があったあと、宮前は「いただきます」とつぶやいてパフェを食べ始めた。長門もそれに続き、柄の長いスプーンでホイップクリームをすくう。

 東京郊外に居を構える小さな出版社、その書籍編集部の編集長と副編集長が彼らの肩書きだ。なかなか自由度の高い会社であることは、そんな二人がこうして就業時間中にパフェを食べようとしていることからもわかるだろう。

 駅近くのファミリーレストランには、平日の昼下がりでもそれなりに客の入りがある。宮前と長門は店内奥のボックス席に陣取っているが、他の客は明るい陽光が射し込む窓際の席を選んでいるようだ。和やかな談笑がときおり二人のテーブルにまで届く。

「あれの打ち合わせって結局誰行ったの?」

 宮前はチョコレートソースのしたたるバナナを口に運びながらそう訊いた。たしか高杉が行ったはずです、と部下の名前を答え、長門はコーヒーをすする。

「あ、そう。昨日ちょっともめてたっぽかったけど、大丈夫だったんだ」

「そうらしいっすね、俺もちょっとよくは知らないんですけど。ていうかそうだ、宮前さん観ました? 『ランタナの丘』」

「観た」

 パフェを前にして、極力仕事の話はしたくない。二人の持つ共通の思いが、話題をすぐに別のものへ飛ばした。バニラアイスと苺をまとめてほおばった長門が宮前に尋ねる。

「面白かったですか?」

「うん。……絶対評判ほどじゃないとは思ったけど」

 ですよね、と長門はうなずいた。あれは前評判なしで見るのが正解でしたね。

 『ランタナの丘』は、ひと月ほど前に公開された映画だ。公開前にはそこまで注目されているわけでもなかったのだが、封切りされてからその評判が口コミで広まり、現在進行形で大好評を博している。編集部内でも当然話題にのぼり、二人も期待して観に行った。

「いや、正直、期待しすぎた」

「そうなんすよね。展開も何種類か予想しちゃったし、どうせどんでん返しあるんだろとか身構えちゃったし」

「まあ絶対どんでん返されるんだろうなとは思ったよね」

 でもやっぱ掘り下げてくと深いって言われてるよ。宮前はかたわらに伏せて置いてあった携帯を取り、スプーンを持ったまま操作する。画面に表示されているのは、『ランタナの丘』の批評が長々と綴られたサイトページだ。

「ほら、主人公が皿洗いするシーン何回かあったでしょ」

「ああ、はい。ありましたね」

「洗い終わった食器をさ、水きりのかごに置いてくとこまででひとつのシーンだったじゃん」

 長門は少しの間視線を宙にさまよわせ、それから「そうでしたね」とジャムを含んだ声で言った。宮前はウエハースをくわえ、画面をスクロールする。

「あれね、えーっと、全部で五回あったらしいんだけど、その五回目ね。五回目だけ、家族三人の分の箸置き三つをばらばらに置いてたんだって。他の四回は全部まとめて置いてたのに。だからそれが一家離散の暗示って考察とかされてるっぽい」

「え、そんな細かいとこまで見る人いるんすか。すごいな」

「ね。しかも別に印象的に映されてるわけでもないからさ、まあ何回も観に行ってんだろうね。すごいけどさ、制作側もそこまで考えてないだろうなってとこまで深読みされてんの」

 これとか見てよ、と宮前に携帯を渡され、長門は持ち上げかけたコーヒーカップを置いた。受け取った画面に表示された文章を読むうち、彼は軽く笑いだしそうになる。

「これ、さすがにこじつけが過ぎません? これじゃSFじゃないすか」

「ほんとそう。『実はこの作品の舞台は地球ですらなかったのだ』じゃねえよ、地球ではあっただろうよ」

 声を立てて笑い、宮前は半分ほどに減ったパフェをスプーンで突き崩した。

「そういや俺、先週の金曜に早びけして観に行ったんすけど」

 長門が携帯を宮前へ返しながら話しだす。宮前はそれを受け取り、ズボンの尻ポケットにしまった。

「へえ。……あれ? 長門くんいなかったっけ? あ、いや、おれが休んでたのか」

「そうすね、宮前さん休みでしたね」

 記憶力やばいんじゃないすか。からかい半分の言葉だったが、宮前は深刻そうなしわを眉間に浮かべる。

「いやこれね、本当に最近かなりやばくなってきてるんだよね」

 こないだ子供の名前を完全に忘れた瞬間があった、と言われ、長門は思わず「うわっ」と声を漏らした。

「本当にやばいじゃないですか」

「本当にやばいのよ。いやまあいいわ、おれの話は。で、なに?」

「あ、そうそう、だから先週の金曜に行ったんすけど、あの、ヒガセンの駅前の映画館行ったんすよ」

 あそこね、と宮前はうなずく。隣駅・東泉如にある映画館は、ポップコーンがおいしいことで地元では有名だ。長門はコーヒーをひとくち飲んで続ける。

「チケット、当日でいいやって思ってたら最前列しか残ってなくて。しょうがないから最前列座って、まあ普通に観てたんすけど、途中でなんとなく隣の人見たらめちゃくちゃメモ取ってて。そのときはなんなんだとしか思わなかったんですけど、今考えるとああいう人が箸置きをどうこうってとこまで見てるんでしょうね」

「絶対そうじゃん。映画好きはすごいね、やっぱり」

 映画好きっていうか、ランタナ好きか。宮前はスプーンの上で液体へと変化しつつあるチョコレートアイスがこぼれないよう、顔のほうを器に寄せていく。映画好きは逆にあれ嫌いらしいすからね、と長門は言った。

「へえ、そうなの?」

「高杉が友達の映画好きにランタナどうだったか訊いたら『ない』って言われたって」

 そこまで言うか、と宮前は笑う。そいつが嫌いなだけじゃないの。つられて長門も笑った。スプーンに乗せたミルクゼリーが揺れる。

 会話が途切れ、宮前が器に口をつけてチョコレートアイスを飲み始めたとき、長門の携帯が着信を報せた。発信者の名前を見て、彼は顔をしかめる。

安達アダチから電話来たんすけど、出たほうがいいすかね」

「ほっとけば? おれ、さっきからずっと無視してるよ」

 ほら、と宮前は再び携帯を取り出し、不在着信の通知が何件も表示された画面を長門に見せた。長門は笑い、「かわいそうじゃないですか」と言いながらも携帯の電源を切る。からん、と音を立て、宮前は空になった器にスプーンを差し込んだ。

「いいんだよ、だいたい安達くんだって前サボって呑み行ってたんだから」

 文句言われる筋合いないでしょ、という宮前の言葉に、まったくその通り、と長門はうなずいた。

「むしろさあ、編集長が率先してサボることでちょうど過ごしやすい職場の空気をつくっているといえるよね」

「それは詭弁ですけど、まあそうなのかもしれないすね」

 スプーンの柄についたクリームが指先を汚し、長門は紙ナプキンに手を伸ばす。手もちぶさたになった宮前はその様子を見るともなく見ながら、ふと「食うの遅いね」と言った。

「宮前さんが早いんすよ。あと、こっちの席めっちゃ冷房当たってて寒くて、冷たいもんが食いづらいんです」

「え、そうだったの? じゃあおれそっちの席じゃなくてよかったわ」

 この歳になるとそろそろね、冷房強いだけで本当に体調を崩す。本当に、と繰り返し強調する宮前を、長門はいたわるような目で見た。

「老いてますねえ、宮前さん。編集長が老いてるって嫌ですね」

「嫌とか言うんじゃないよ」

 溶けたバニラアイスに浸り続けてふやけきったコーンフレークをすくい上げ、冗談ですよと言いながら咀嚼する。そんな長門にため息をつき、宮前は「そういえばさ」と新しく話をはじめた。

「昨日かな、会社の前で信号待ってたらさ、おしゃれな人が近くにいたのね」

 おしゃれな人ですか、と宮前の言葉を反復し、長門はバニラ味のコーンフレークをコーヒーで喉の奥に流す。

「そ、おしゃれな人。このへんってさ、南口のほうからちょっと歩いたら金持ちがいっぱい住んでんじゃん。たぶんそっちのほうの人っぽい感じだったんだけど、おしゃれだなあって見てたらね、リュックの横のポケットに折りたたみ傘がささってんのを見つけたわけ。臙脂色のリュックにビビッドな黄色の折りたたみ傘よ」

「おしゃれっすねえ」

 ちらりと視線を落とした宮前は、相槌を打った長門の持つカップの中にもうコーヒーが入っていないことを知り、「おかわり取ってきていいよ」と話を中断した。あざす、と頭を下げ、長門はドリンクバーへ向かう。宮前がしばし視線の向く先を机上のメニューに据えていると、彼は「お待たせしました」と湯気の立つコーヒーカップを手に戻ってきた。

「おかえり。でね、おれ、思ったんだけど」

「はい」

「折りたたみ傘を持ち歩くやつってアホじゃない?」

 あまりに急展開した話のせいで、長門は口に含んだばかりのコーヒーをのどにつっかえさせかける。しかしすんでのところでとどまり、いきなりどうしたんですか、と苦笑しながら尋ねた。

「いや、だからね。折りたたみ傘ってさ、ないじゃん。意義が」

「そんなに折りたたみ傘のすべてを否定しなくてもいいじゃないですか」

「だってそうでしょ、折りたたみ傘を持つことによるメリットなんてなにがあるの? だいいち折りたたみ傘が必要なときなんてさ、傘がないといけないくらい雨が降っててかつ普通の傘が手に入らないときくらいなもんでさ、そもそもそんなときにわざわざ外出する? 使ったあとだって乾かすのも面倒だしたたむのも面倒だし、雨降ってないとき持ち歩くだけでずっとなくてもいい重さが負荷としてかかってるわけだよ。そんなもんのなにがいいの? だからやっぱりさ、折りたたみ傘を持ち歩くやつはアホってことになるわけなんだよね。わかるだろ? なあ」

 宮前は拳を振り上げるほどの勢いで熱のこもった弁をふるう。その間にすっかりパフェを食べ終えていた長門は、すでにぬるくなっているコーヒーを片手にそれをいなした。

「はいはい、いいですよもう。わかりましたよ。全部宮前編集長の言うとおりでございます」

「上司を適当にあしらうなって。ちゃんと聞いてた? おれの話」

「宮前さんが折りたたみ傘に親を殺されたって話でしょ。聞いてましたよ」

 まあそういうことだわな。宮前はうなずく。長門は笑い、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。

「……じゃあまあ、戻りますか」

「うん、そうね。そろそろね」

 伸びをしつつ席を立った宮前が、伝票を掴んでレジへ向かう。長門も立ち上がり、ゴチになります、と言いながらその後を追った。

 安達キレてるでしょうねえ。そりゃそうよ。そう言い合って店の外へ一歩踏み出た瞬間、二人は唖然として立ち尽くした。豪雨が降り注いでいる。入店したときの青空と汗を誘う陽光は跡形もなく雨雲が埋め、打ちつける飛沫は勢いよく地面へはじけてアスファルトの上に水煙を立ち込ませている。

 宮前が何かつぶやいた。えっ、と聞き返してから、「それでも」と言ったのだということに長門は気づいた。宮前が、今度は大声で言う。

「それでもおれは、折りたたみ傘を持たない」

 自然と笑いがこみあげてきた。ついていきます、宮前さん。長門も叫ぶ。宮前は「よし」と静かに意を決し、走るぞ、と号令をかけた。

 篠突く雨に男が二人、雄叫びをあげて走りだす。許さんぞ天気予報、という声が鉛の空にこだました。社屋まではこのまま走れば二分ほどで着く。

 すれ違う人々を怪訝そうに振り向かせ、彼らは怒鳴るように笑っていた。


 もう、じきに夏は来る。

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