三、先輩と後輩
「かんぱーい」
アルミのぶつかる音が、薄暗いワンルームに鈍く響いた。室内には、狭いちゃぶ台をはさんで向かい合っている二人の男の姿がある。
「いやいや。どうよ最近。なんかあった?」
部屋の主である
「なんもないすねえ。ジョーさんはなんかあったんすか」
無精髭をいじりながら、ないねえ、と『ジョーさん』——住間
「あ、でもあれ見ました、ジョーさんが言ってたやつ」
ああ、あれね。住間は古い映画のタイトルを言った。うなずきながら、棱野はまた缶をかしげる。
「けっこう前に借りて忘れてて、おとといくらいかな、に急いで見ました。おもしろかったすよ」
「あそ。あれ、延滞は? まだ大丈夫なの?」
「や、そろそろ返さないと期限切れそうなんすよね。今日返しに行こうかと思ったんすけど、昼まで雨だったじゃないすか」
そうなの? 寝てたから知らん。そう言って住間は棱野が持ってきた黄色のビニール袋をまさぐり、パックに入った焼き鳥を取り出した。
「まだ外水たまりありますよ、だいぶ降ってたんで」
棱野は立ち上がり、サッシのきしむ音に顔をしかめながら窓を開ける。住間は焼き鳥をくわえた間抜けな顔で棱野の横に立ち、彼の指さすほうを見やった。
「あ。ほんとだ」
ちょうど下校時刻らしい小学生の集団がはしゃぎ声をあげて通り過ぎていく。二人は並んだままそれを眺め、踏まれた水たまりの波紋が完全に静まるまでただそこに立っていた。
「まあでも明日には絶対行かないとって感じすね。返却」
棱野は窓を閉める。
「なんか、いたな、延滞料金めちゃくちゃ溜めてまだ返却してないやつ」
住間は元いた位置に座り直す。
「まだ? そんな昔からなんすか?」
「そ。こないだ
眉間にしわを寄せてしばらく記憶をたぐっていた棱野が、いましたね、と目を見開いた。
「なんか、おれが卒業したくらいのときにも野田が延滞料溜めてるって高杉に聞いたんだけどさあ。そのDVDまだ返してないんだって」
「やばいすねそれ。だって、え、ジョーさんが大学出たのって何年前でしたっけって話じゃないすか。いくらになるんすかね」
うわ考えたくねえ、と笑い、住間は二本目の缶を開ける。棱野はビニール袋の口を自分のほうへ向け、がさつかせながら徳用の柿の種を取り出した。
在学中には面識こそなかったものの、住間と棱野は同じ大学の出身であった。棱野は住間の二年後輩だったが、住間の留年により同学年となっていた期間もある。高杉と野田はそのときの住間の同級生だ。
「明日、晴れますかねえ」
「ああ……なんかでもほら、夕焼けがどうこうで明日の天気が、ってなかった?」
夕焼けが綺麗だと晴れるんだっけか。住間は一本だけ残した焼き鳥の串を棱野に差し出す。彼は軽く頭を下げて受け取り、タレが口のまわりにつくのも気にせずかじりついた。
「おっ、これうまいすね。また買お」
買え買え、とたきつけながら、住間はちゃぶ台の上に置いていた携帯を手に取る。
「東京は夕方から雨だけどそれまでは晴れ、みたいよ」
「あ、天気予報すか。あざす」
でもそれの天気予報あんま当たんないすよね、と言われ、住間は笑った。
「酢豚ある?」
「ありますよ」
棱野がビニール袋からパック入りの酢豚を取り出す。住間は流し台から二人分の箸を探し出し、すすいで持ってきた。ほい、と洗い古した割り箸を手渡され、棱野は礼を言う。この割り箸が棱野用としてこの部屋に置かれはじめたのはいつのころだっただろうか。すでに先端は黒ずみ、ところどころがささくれ立っているが、彼はなんとなくこれを使い続けている。
「今度駅前になんかできるらしいじゃん」
酢豚をひとくち食べ、間髪を入れずに缶を傾けて、住間は新しい会話の種をまいた。
「そうなんすか?」
「あれ、知らない?」
最近駅のほう行ってなくて。棱野は最後の一滴まで飲み干した缶を脇によけ、二本目を開ける。
「おれも何ができるかは知らないんだけどさ。なんかどっかでニューオープンのチラシ見た気がすんだよな」
「不確かすねえ。それほんとに現実の話すか? 夢とかじゃないすか」
そんなわけないと言いかけて、でもそうなのかもなあ、と住間は思った。毎日をおぼろげに過ごしている彼や棱野のような人間には、夢の記憶を現実のことと誤認する瞬間がままあるのだ。
「ま、どうでもいいよな。何ができるとしても関係ないし」
たしかに、と相槌を打ち、棱野は一気に缶の三分の二を空ける。窓の外で鳴くカラスの声が、鮮明に室内に響いた。そのまましばらく二人は無言で酢豚をつついていた。
「そういや大家さんに言われたんすけど」
酢豚の最後のひとかけを住間に譲り、酒で口腔内を湿らせた棱野が口を開く。
「僕のアパート、取り壊し決まったらしいんすよ」
住間は酢豚をほおばりながら「へえ」と返した。その話に興味がなかったというわけではない。相手の口調からして、深刻に聞くような話ではないと判断したのだ。棱野は心底どうでもよさそうな顔で三本目の缶を開けた。
「なんか、
だろうなあ、津野くん実家も遠いしやばいでしょ。住間は同情のにじんだ声で言い、手を伸ばして柿の種をつまむ。
津野は棱野と同じアパートに住む大学生だ。一年ほど前、泥酔した住間と棱野が深夜に彼の部屋へ闖入して以来、二人とはたまに酒を酌み交わす仲である。
「津野くんの話してたらフライドポテト食べたくなってきたわ、買ってない?」
ないっすよ。あるわけないじゃないすか。そっけなく言われ、住間は笑う。棱野も薄く笑いながら柿の種を口に放り込んだ。
「でもそうすね、食いたいっすね、フライドポテト」
「でしょ? 来ねえかな津野くん、ポテト持って」
「来ませんよ、忙しいんすから」
中身のなくなった缶の成分表示を見るともなく見つつ、棱野は大きく息を吐く。ふと、住間が「あっ」と声をあげ、壁際に積まれた本を見やった。
「そうだ、前借りた本。返すわ」
え、なんか貸してましたっけ。戸惑ったような顔になり、棱野もそちらへ目を向ける。ひっくり返すようにして本の山をあさり、住間は一冊の分厚い本を取り上げた。
「ああ……ああ! 貸してましたね」
手渡されたそれの表紙をなめるように見ることしばらく、ようやく棱野は思い出して膝を打つ。ぱらぱらと適当にページを繰りながら、おもしろかったすか、と訊いた。
「まあ、そうね。おもしろかった……かな?」
ずいぶんと歯切れの悪いその言葉で住間の思惑を察し、棱野は「いや、わかりますよ。読みづらいすよね」と笑う。
正直言うとね、最後まで読めてないんだわ。住間は少しばかり申し訳なさを込めた声色でそう言って、手の中でチューハイの缶を開けた。棱野はひくりと片眉を上げ、ちょっと言いづらいんすけど、と前置いて言う。
「僕もです」
一拍の間があって、二人は同時に吹き出した。意見が合致していたとなれば遠慮は消え、あの部分がどうしても理解できなかった、序盤のあれがすでに矛盾だった、などと口々に言い合う。それから話題はその本の文体についての言及に移り、論評の材料が尽きたのは互いに最後の缶の半分以上を空けたころだった。遠くの高層マンションの輪郭をなぞるように橙を残し、空の暗色は濃さを増す一方だ。
「帰んの? 実家。新潟だっけ」
棱野はちらりと住間の顔を見、ぼそりと「気乗りはしないすけどね」と言った。
「まあでも、たいしたとこもなさそうなんで、引っ越すにしても。そうなるんすかね」
そっか、と浅くうなずき、住間は左手で持った缶の口に視線を落とす。棱野はちかりと点滅する蛍光灯を見上げ、そのまま口を開いた。
「ジョーさん、これからここで誰かと住む予定あります?」
いきなりの質問だったが、住間はあまり不思議そうにはしなかった。なんで、と訊き返す声にも、疑問符は混ざっていなかった。棱野は覇気のないいつもの表情で部屋を見まわし、何気ないことのように言う。
「ないなら僕、ここに居候さしてもらおうかなって」
短い沈黙があった。けれどそれは拒否の前兆などではなく、どんな言葉で承諾しようかと考えている時間だということを棱野はわかっていた。
そして、住間は「おまえの本全部ここ置くのやだなあ」と冗談めかして言った。いや、言おうとした。口に出しかけたその瞬間、威勢よくドアを開閉する音がそれを遮ったのだ。隣人が帰宅したことを示すその音は、あと一度でも台風が来たら終わりと噂されるこのアパートにおいては日常を形成する要素のひとつでしかなかった。
床を踏み抜きそうなほどの足音がして、ベニヤ板一枚分ほどの厚さの壁を隔てた隣室から明瞭に騒がしい音楽が流れてくる。
二人は目を見合わせ、唇の端を曲げて笑った。
「でも、ここも『たいしたとこ』じゃないよ」
「そうすね」
住間はわずかに残っていた缶の中身を飲み干して、取り壊しっていつなの、と訊く。
「来月とか言ってましたかね。たぶんですけど」
それまでに古本屋行っていらん本売りたいんで、運ぶの手伝ってくださいよ。棱野も缶を空け、卓上に散らばった焼き鳥やら酢豚やらのパッケージを適当にビニール袋へ放りこみはじめた。
「うわ、めんどくせ。どうせここに荷物運ぶのも手伝わすんでしょ? やだなあ」
「いいじゃないすか、暇でしょ」
暇だけどさ。じゃあいいじゃないすか。やだなあ。なんなんすか。ぽんぽんと言葉を投げ合いながら、二人は呑んだ跡を片づけていく。
「のど渇きません?」
「渇く」
でも今飲むもんないよ、と住間は台所の床に倒れている空の二リットルペットボトルを指さした。はがれかけのラベルには『烏龍茶』の印字がされている。
少し考えたあと、「あそこ開いてますよね」と棱野が近所にあるチェーンのハンバーガー店の名前を言った。
「開いてる。行く?」
「行きましょう」
フライドポテト食うか。住間は立ち上がって伸びをする。いいすね、と賛同し、棱野も腰を上げた。
玄関で靴を履く。棱野が軽くふらつき、それを笑う住間もよろけて壁に手をついた。棱野は苦笑しながらドアを開ける。住間が電気のスイッチを切り、蛍光灯は不規則な点滅を止める。
スニーカーと地面がこすれる音を追い出して、ばたんとドアが閉まった。
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