二、知人

「めちゃくちゃ濡れてんじゃん」

 公民館の大会議室に入ってきた館山タテヤマの姿を見た瞬間、有原アリハラは笑いながらそう言った。

「そうですか?」

「そうですか? って何、そんな濡れてて自分で気づかないことないでしょ」

 館山は濡れそぼったYシャツの肩をすくめながら有原の座る長テーブルに近づき、拭けよ、とまだ笑いの残った声音で言う彼の真向かいに着席する。有原は机上のペットボトルを取り上げ、中身をひとくち飲んでまた置いた。

 梅雨前線に支配された空は、夜明け前から延々と雨を降らせ続けている。今日は彼らの住むマンションの防災訓練を近所であるこの公民館でやる予定だが、開始時刻をだいぶ過ぎて二人しかいないのではおそらく行われないだろう。住人どうしのつながりが希薄なマンションにおいて、『参加は任意の防災訓練』など存在しないに等しい。かくいう彼らも自主的に来たわけではもちろんなく、「一応行っといて」という家族の声に屈しただけだ。

 何、傘ないの、と有原に訊かれ、館山はなかば怒ったように「そんなわけないでしょう」と言った。

「ちゃんと差してきましたよ。当たり前じゃないですか」

「だとしたら傘差すの下手くそすぎるだろ」

 そんなことないですよ。そうつぶやき、水滴のついた眼鏡のレンズをよれたYシャツの裾で拭く館山を、有原は呆れたような顔で見る。大学でちゃんとやってけてんのか、と訊きたくなる気持ちを抑え、再びペットボトルへ手を伸ばした。

 館山は眼鏡をかけ直し、なお不鮮明な視界に顔をしかめながら「それ、何飲んでるんですか?」と尋ねる。髪の先からしずくがぽつりと落ち、床に小さな染みをつくった。

「なんでしょうか」

 クイズね、と有原は一方的に宣言し、ラベルを手で隠して秒針の音を口で刻みはじめる。館山は真剣な顔で考えだした。しばらくの間、部屋には半端な静寂がただよう。

「……はい、時間切れ。正解はこれでした」

 しびれを切らしたように有原がラベルから手を離したが、彼は眉をひそめたままだ。

「なんです、それ?」

「え、うそ、見えない? アセロラってでっかく書いてあるんだけど」

 さすがに目悪すぎない、大丈夫なの? 有原の心配に、館山は首を横に振って応えた。

「年々悪くなってますね。もう板書も見えませんし」

「それまずくない? どうしてんの?」

「いや、どうもこうも、何もしてませんよ。留年の覚悟はしてますけど」

 覚悟決めんの早すぎるだろ、と有原は笑う。同じ講義受けてる人にノート見せてもらうくらいしろよ。「いやいや」と館山は片手をぎこちなく振ってみせた。

「そんなの無理ですよ、わかりきったことじゃないですか」

「堂々と言うな。大丈夫だって、俺とこんなに喋れてんだからさ」

 そりゃまあ有原さんにはどう思われてもいいですからね。館山は悪びれもせずに言う。

「大学の同級生に変なふうに思われるのは嫌じゃないですか」

「おまえさあ……そういうとこだからな。ていうか真面目な話さ、絶対直したほうがいいよ。その何、対人恐怖症みたいなやつ。コミュニケーション下手なのって就職にも不利だし」

「他のことはともかく、就職に関しては縁故採用の有原さんにとやかく言われる筋合いはないと思うんですが」

 それを言われては分が悪い。有原は黙ってアセロラジュースを飲み、話を変える。

「ヒガセンセン、リニューアルするらしいじゃん」

東泉如ひがしせんじょセンターのことですか? そんな略し方する人いるんですね」

 うそ、子供のときからヒガセンセンって言ってたんだけど、と驚く有原に、館山は首をかしげた。

 東泉如センター——有原曰く『ヒガセンセン』は、この公民館から歩いて十五分、東泉如駅の前に建つ大型商業施設だ。三十年ほど前に建設されて以来、地元の老舗を次々と閉店に追いやっていったとして、当時を知る人々からはいまだに忌み嫌われている。

「ちょっと前にもしてませんでした? リニューアル」

「常に新しくないといけないんでしょ。時代をだしぬけ! つって」

「あ、それ、なんかのCMの」

 知ってるんだ、と有原は嬉しげに言う。あれ先輩の仕事なんだよね。少し思案したのち、館山は「ああ、広告系なんでしたっけ。仕事」と返した。

「そ。あ、ねえ、自慢していい? 日向沢ひなさわ電気、知ってるでしょ?」

 まあ、はい、と応じる。全国にチェーン展開する電化製品店の名前である。それこそ『ヒガセンセン』にも店舗を出している。

「あそこの広告、俺が担当することになったの! 最年少がよくやった、ってもう先輩方に褒められるわ褒められるわで」

 喜色満面の有原に反して、館山の顔には疑問符が浮かんだ。あのう、と彼は尋ねる。

「有原さん、三年目ですよね? 最年少なんですか?」

「え? うん。そうよ。うち大企業じゃないから毎年新人入んなくて、まだ俺がいちばん後輩なの」

 なるほど。合点がいったというふうにうなずく館山に、有原は「こないださあ」と次の話題を切り出した。

「別の部署の先輩が昼休みにコンビニ行こうとしてて、俺もちょうど行きたかったから一緒に出ようとしたのね。そしたら後ろからその先輩の同僚の人が『あれ買ってきてくださいよ』って声かけてきてさ。先輩も『はい』つってそれ以上訊かないで出てったの」

 へえ、と館山は感心したように言う。

「『あれ』で通じる仲なんですね」

「そう、俺もそう思ってさ、すげえなって思って。そんでコンビニ行って、何買うのか見てたらカツサンド持ってきたのね。会社戻ったらその頼んできた人が待っててさ、先輩がカツサンド渡したらめちゃめちゃ笑いながら『これじゃないっすね』つって」

「え?」

 困惑と笑いの入り混じった表情で、館山は聞き返した。

「カツサンドじゃなかったんですか?」

「そうなのよ。全然違いますねとか言って、先輩もめちゃめちゃ笑ってて。なんだったんだろあれ」

 しかもけっこう自信ありそうな顔でカツサンド選んでたし。わけわからん、と笑う有原に、館山は「ていうかその人、本当は何が欲しかったんですかね」と言う。

「なんか、そのあと二人でコンビニ行ってポテチ買ってきてた」

「全然違うじゃないですか」

 ひとしきり笑ったのち、「ポテチで思い出したんですけど」と館山が話し始めた。

「ポテチの話じゃないんですけどね。大学で聞いた話で……」

「おまえ、大学に話し相手いるの?」

 館山は有原を睨んだが、不器用なその動作ではただ目を細めたようにしか見えなかった。有原はペットボトルをもてあそびつつ、さらに「いるのか?」と訊く。

「いませんが? 近くに座ってた人たちの話が聞こえただけですが?」

「その怒り方おかしいだろ」

「怒ってませんよ。それで話してた内容っていうのが、僕の学部にいる八年生の先輩のことで」

 八年? 有原は驚き、「それって留年でってこと?」と尋ねた。

「まあ留年とか、あと休学もしてたらしいですね。詳しくは知りませんけど」

「へえ……でも八年ってすごいな。どういう人なの?」

 良くも悪くも自由人ですね。館山は鼻の腹にずれた眼鏡を指で直しつつ語る。

「その人、大学の近くのボロいアパートに住んでるんですけど、去年の夏くらいに酔っ払いに侵入されて、追い払うでもなく一緒に酒盛りして仲良くなったとか、いろいろ伝説に事欠かなくて。聞こえた話もなんか、呑み会でフライドポテトが出なくてありえないくらいキレたっていう」

「ポテトでキレたの? やばいでしょ、それ」

「いや、普段は温厚なんですよ。なんですけど、フライドポテトに一家言あるらしくて、フライドポテトが関わると人が変わったようになるとか」

 そんなの余計やばいじゃん。有原が手を叩いて笑う。館山も笑い、恐れられてますよ、とつけ加えた。

「そりゃ恐れるわ。でもいいね、俺ちょっと留年って憧れなんだよな」

 もうできないしさ、と軽く伸びをしながら言う有原に、館山の口調はとげとげしくなる。

「安全地帯からならなんとでも言えますよね」

「いきなりどうした」

「憧れだとかそんな悠長なこと言ってられんのは有原さんがストレートで卒業できた勝ち組だからでしょ。僕の家、留年したら勘当ですよ」

「知らねえよ。おまえの問題だろ」

 まず同級生と話せるようになれって。有原はため息をついて椅子の背にもたれ、館山の背後の壁を見やる。それに気づいた彼は訝しげに振り向き、視線の先に時計があることを確認して納得したようにうなずいた。

 時計の針は、館山がここに入ってきた時刻からちょうど三十分が過ぎたことを示している。有原はペットボトルの蓋を回しかけてやめた。閉じたブラインドの向こうを見て、館山がつぶやく。

「雨、やみましたかね」

「直接見りゃいいじゃん。ブラインド上げてさ」

「そうですね」

 素直に席を立ち、館山は窓へ近寄った。紐を引いて開けようとするが、どうもうまくいかない。何度か挑戦したところであきらめ、壊れかけて光の射し込んでくる箇所から外を覗く。

「……いや、わかりませんね。降ってるようにも、降ってないようにも見えます」

「そんなとこから見てるからだろ」

 まったくよ、と頭を掻きながら有原も立ち上がり、いとも簡単にブラインドを開けてみせた。

「うわ、すごいですね」

「普通だよ。おまえがいろいろ下手すぎるだけ」

 ほら、もう降ってないでしょ、と親指で示すが、館山は首をひねる。

「よく見えないですけど」

「館山さ、眼鏡変えなよ。もうだめなんだよ、おまえ」

「これ以上の度のレンズにすると頭が痛くなるんですよ」

 じゃあ八方ふさがりだな。有原はついに投げやりになり、そろそろ帰ろう、と長テーブルのほうに向きなおった。

「あれ、それ全然飲んでないじゃないですか」

 半分も中身の減っていないペットボトルを指さし、まずいんですか、と尋ねる。有原はためらうそぶりを見せつつも、「うん」とはっきり答えた。

「まずいわ、これ。家帰ったら弟にあげよ」

「弟さん、アセロラ好きなんですか?」

 知らない。有原はボトルを宙に投げ上げて受けとめる動作を繰り返しながらドアに向かって歩いていく。館山もそれに続いた。

 空は晴れだしていた。公民館の入り口で、骨を折りかけたビニール傘と暗色のこうもり傘の二本だけを差し込まれた傘立てが所在なさげにたたずんでいる。

「おまえ、傘忘れんなよ」

 あっ忘れるとこでした、ありがとうございます、とわずかに頭を下げ、館山はこうもり傘を傘立てから引き抜いた。有原が、サンダルを履いた脚をけだるそうに運んで道路に立つ。

 雲は薄まり、その奥に青い空が淡く透けていた。

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