他人々々

クニシマ

一、同僚

「いやあ、疲れましたねえ」

 櫛木クシキは目の前に座る男のその言葉にわずかに眉をひそめ、しかし「そうですね」と応えた。

「なんですか。疲れたでしょ、櫛木さんも」

「ま、俺は疲れましたけどね」

 何が言いたいんすか、と男——加藤カトウは櫛木を睨むふうに見る。

「だってあんた、今日たいして仕事してなかったでしょうよ」

「そんなことないですよ。会議なら今日のはぼくが出なくても大丈夫なやつだったし、月曜のプレゼンの準備だってもうできてるんですよ? 今日来なくてよかったくらいでしょ」

 妄言ですね、とだけ返され、加藤は軽く笑った。

 櫛木と加藤は都内の広告代理店に勤めている同僚どうしである。今日は互いに残業もないということで、会社のそばのラーメン屋にでも寄って帰るか、と連れ立ってここへ来た。

 店内は夕飯どきらしく賑わっている。二人と同じようなサラリーマンや家族連れ、広めのテーブルには大学生らしき男女の集団の姿もある。威勢のいい店員の声と食器の鳴る音、どこかのテーブルで盛りあがっている客の笑い声、BGMとしてうっすらかかっている流行りの曲。入り口の自動ドアが開くたび、そこに外の雑踏の音も混ざる。

 少し前に店員が置いていった二人分の水の片方に手を伸ばしつつ、「そういえば」と櫛木は口を開いた。

「加藤さん昼も中華食いに行ってませんでした? 山口ヤマグチさんとかと」

「行きましたよ、餃子食いたくて」

「一日二回も中華系のもん食うんですか?」

 別にだめってことないでしょう、とこともなげに言う加藤に、櫛木はええっと大げさに驚いてみせる。

「バランス悪いじゃないですか」

「そんなのいちいち気にします? 成長期の子供の献立考えてるんじゃないんだから」

 いやでも、と言いかけたところで加藤が注文した醤油ラーメンの並盛りと半チャーハンのセットが届き、二人の討論は終わった。唐揚げのほう少々お時間いただきます、と頭を下げて店員が去る。

「お先どうぞ」

「あ、食べていいすか。いただきます」

 テーブルに据えつけられている箸立てから一膳分の箸を取り、加藤は丁寧に手を合わせた。

「加藤さんって食いもんの好みガキっぽいですよね」

「ええ?」

 そうですかあ? と気のない声で聞き返す加藤に、そうですよ、と櫛木は言う。

「それに追加して唐揚げ食うんでしょ」

 それ、と加藤の食べている品を指さす。唐揚げうまいでしょ、みんな食うじゃないですか。加藤は麺をすする。でもなあ、と櫛木は首をかしげた。

「子供用セットの中身を大人の量にしただけじゃないすか」

 背後の壁を振り向き『こどもラーメンセット』の貼り紙に目をやる。加藤は「そうですかねえ」とチャーハンをつつきながらつぶやいた。

「聞いてます?」

「聞いてますよ」

 ほんとかよ、とぼやいているところに、櫛木の注文した塩ラーメンと餃子が来た。間を置かずに加藤の唐揚げも届く。

「あ、すいません、割り箸いただけます?」

 加藤は箸立てに伸ばしかけていた手を引っ込めながら「そういや櫛木さん潔癖でしたっけ」と言った。

「そうですそうです、なんかそういう箸立てにそのまま刺さってるやつ使うのって汚い気しちゃって」

「ぼくが汚いってことですか」

 いやいや、と手を振る櫛木に、どういうことなんですか! と加藤は冗談まじりに声を荒らげる。そののちしばし笑い合っていると「お待たせいたしました」と割り箸が来て、櫛木はああどうもと会釈した。店員は伝票を置き、早足で厨房へ戻っていく。

「いただきます」

 わずかな間、二人は無言で自分の前の夕飯を食べ進めた。ふと、チャーシューをかじりつつ櫛木のどんぶりを見ていた加藤が口を開く。

「塩ラーメンってラーメンですか?」

「……どういうことですか?」

「塩ラーメンってあんまりラーメンっぽくなくないですか?」

「何言ってんですか?」

 だから、と加藤はどんぶりに箸を渡して身を乗り出した。

「塩ラーメン食べてもラーメン食べてる感じしなくないですか?」

「いや、どういうこと? するでしょ」

 全然何言ってんのかわからん。櫛木は呆れた目で加藤の顔を見た。

「ぼく塩ラーメンをうまいと思ったためしないです。ためしが、ないです」

 ためしが、と何度も強調する彼に、「ていうか」と櫛木は自分のどんぶりに視線を落として言う。

「それ、加藤さんがうまい塩ラーメン食ったことないだけじゃないです? ここの塩ラーメン結構うまいですよ」

 そんなことありますかねえ。加藤は箸を取り直して唐揚げをつまんだ。塩ラーメンはうまいんですからね、と念を押し、櫛木は玉子を口に運ぶ。

 また少しの沈黙のあと、今度は櫛木が喋りだした。

「その唐揚げうまそうですねえ」

 一個くれません? これと交換で。そう言いながら付け合わせのザーサイを示す。

「いや、それはいらないです。餃子ならいいですよ、ください餃子」

「え、昼食ったんでしょ?」

 バランスがなあ、バランスがどうもいけないなあ、と櫛木は苦言を呈する。

「母親かよ。もらいますね」

 加藤はさっさと櫛木の皿から餃子を取り、かわりに唐揚げをひとつそこへ置いた。互いにひと口で食べ、うまいすね、と言い合う。それ以上の加藤の食事バランスへの言及は、奥のテーブルのほうから聞こえたおどけた調子の大声によって断たれ、その後蒸し返されることはなかった。

「中華そばとラーメンって何が違うんですかね」

 櫛木が唐突にそんなことを言ったのは、偶然視界に入ったメニュー表に『職人の中華そば』と『極辛ラーメン』とが並んで書かれていたからだった。れんげに浮かべた背脂を見つめていた加藤は「え?」と櫛木のほうに視線をずらす。

「いや、ないでしょ、違いは」

「えっ、じゃあなんであれわざわざ中華そばって書いてるんです?」

「具とか違うんじゃないすか、それか豚骨ベースじゃないとか?」

 値段違うみたいですしねえ、と言いながら加藤はちびちびとスープを飲む。

「つまりどういうことですか? ただの醤油ラーメンが、なんか雰囲気出すために中華そばって名乗ってるってことですか?」

「まあそうなんじゃないすか。和名ですよ、和名」

「醤油ラーメンも和名ですけどねえ。ていうか和名って言葉の使い方絶対間違ってますしね」

 櫛木はスープに沈んだ短い麺を箸でつまみあげた。やっぱ塩ラーメンうめえなあ、と聞こえよがしに言われ、加藤はうっとうしそうな顔になる。一瞬の間のあと、二人は顔を見合わせて笑った。

「ビール頼もっかな。櫛木さんも飲みます?」

 あらかた食べ終えた加藤がメニュー表を見ながらそう言うと、櫛木はあからさまに顔をしかめた。

「俺ビール嫌いなの知ってるでしょ。てか、今呑みます? 普通逆でしょ、酒飲んでシメにラーメンでしょ」

「いつ呑んだってよくないですか? ラーメン食ってシメにビール、そいつがぼくのやり方です」

「あ、そうですか」

 勝手にしてくれ、とつぶやき、櫛木は手つかずで残している小鉢の中のザーサイにちらりと視線を送った。別に食べたくないなと思ったのだ。ビールを注文している最中の加藤をうかがい、店員が去ったタイミングで「加藤さんこれいりません?」と訊く。

「いや、いりません。ってさっきも言いませんでした? 櫛木さんザーサイ嫌いなんですか?」

「や、嫌いではないんですけどね。ちょっと今日は食べる気しないんですよね、なんとなく」

「じゃあ知りませんよ。ちゃんと自分で食ってください」

 いやだなあ、などとぶつくさ言いながらしぶしぶ小鉢に箸をつける櫛木へ、加藤は「そういや今日山口さんに聞いたんですけど」と雑談を切り出した。

的場マトバさんとこの新人がまたなんかすごいらしいすね」

「え、そうなんすか?」

 のろのろとザーサイを咀嚼しつつ、櫛木は加藤の話に相槌を打つ。

「こないだのヒナデンさんの案件、取ってきたのそいつだったでしょう」

「そうでしたねえ」

「次のプロジェクトもなんか、いや、ザーサイいらないです」

 加藤が話す途中、櫛木が無言で差し出した食べかけのザーサイは、しかし拒否された。お願いだから食べてくださいよお、と櫛木は泣きつく。

「なんか全然食べらんないんすよ、今日。ザーサイってこんな味でしたっけ?」

「知らないですって。あ、ビール、ぼくです」

 卓上に大きめのジョッキでビールが置かれ、櫛木はげんなりした顔になった。加藤は頰を軽く搔き、どうでもよさそうに言う。

「てか、残しゃいいじゃないですか。無理して食わんでも」

「いや残すのはちょっとね、抵抗あるんで」

「そんなの櫛木さん個人の抵抗でしょ、ぼく巻き込まないでくださいよ」

 ひどいなあ、そんなこと言わないで巻き込まれてくださいよ。櫛木は情けない表情をつくる。しかし加藤はおかまいなしでジョッキに口をつけた。

「だいたいビール頼みます? ここ日本酒あるでしょ? 日本酒なら俺も飲めるんだからさあ」

 櫛木の話を遮るように、加藤はごくごくとビールを飲み干して大きく息をつく。

「いや、聞けよ。話してんだから飲まないでくださいよ」

「聞いてますよ、聞いてますけど早く飲まないと泡消えちゃうから」

 櫛木はため息をつき、なんで日本酒頼まないんですか、と訊く。

「いやあ、ラーメンにはビールでしょ。ていうか、そんなら櫛木さんは日本酒頼めばいいでしょ」

「俺は呑みのシメにラーメン派なんで」

「そうすか」

 それからまたしばらく二人は黙った。櫛木はもそもそとザーサイを消化し、加藤は箸立ての横の爪楊枝入れに手を伸ばす。

 ふと、店内に流れている曲に数秒耳をこらしていた櫛木が口を開いた。

「これ、この曲、なんかのドラマのやつですよねえ、今やってる。ほら、なんか誰ですっけあの人が主演の」

 まったく要領を得ないその言葉に、加藤は眉根を寄せる。

「え? なんですか? なんにもわかんないですけど、それ」

「いやなんかあるじゃないですか、ちょっと名前とか忘れちゃいましたけど。そんであのこの曲のほら、歌ってる人、めちゃめちゃ加藤さんに似てるんですよ」

 何かと思えばそんなことか、と加藤は呆れ笑った。「ほんとに似てるんですって」と言いながら櫛木は携帯を出し、そこではたと動きを止める。

「ま、今ちょっと名前わからないんで検索できないんですけど」

「なんなんすか」

 気の抜けた笑いを交わし、その笑い声が終わらないうちに「じゃ、そろそろ帰りますか」と加藤が言った。

「そうですねえ、明日も仕事ですし」

 二人はのろい動作で身支度をはじめる。常温になっている水を飲み干し、結局空にすることができた小鉢をテーブルの真ん中に押しやって、櫛木は立ち上がった。

 会計を済ませ、店の外へ出る。並んで駅の方向へと歩いていると、進む先にある居酒屋に今まさに入店しようとしている数人の影が見えた。そのうちの一人の顔を見たらしい加藤が、あれ、という表情になる。そのまま大声で「的場さん?」と呼びかけた。

「えっ、加藤さん? あ、櫛木さんも! 偶然ですね、お疲れ様です」

 そこにいたのは、部署は違うが加藤と同期である的場だった。彼のまわりにも何人か社員の姿がある。

「的場さんたち今から呑むんです?」

 お猪口を傾けるジェスチャーをしながら加藤が訊く。そうなんですよ、と的場は笑顔で答え、続けて「加藤さんたちもどうですか?」と誘ってきた。

「いいですね、あ、いや、ぼくはいいですけど、櫛木さんどうします?」

「ああ……じゃあ俺も、はい」

 正直なところそこまで気乗りはしなかったが、まあいいか、と櫛木は思った。たまには付き合ってみよう。深さを増していく夜の街を尻目に、彼らはぞろぞろと店内へ入っていく。

 その背後を、少しぬるい風が通っていった。

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