路面電車と回る時計

夏冬春日

路面電車と回る時計

 ――シュゥウゥ。

 エアブレーキに残ったエアを最後に一抜き。僕の運転している路面電車が、高知駅へと到着する。


 よし、きれいに止めた! あらためてエアを込める。


 心の中でガッツポーズを1つ。

 衝動もなく壁面ギリギリに電車を止めることは難しい。下手をして前に行きすぎたら、壁にぶつからないよう急ブレーキをかけなきゃいけないからなぁ。こんな状態じゃないと練習も出来ない。

 それに、この仕事の楽しみなんて、それくらいしかない。


 車内をみる……。無人だ。

 途中の停留所で最後のお客様を降ろして、それから誰も乗ってきてないのだから当然だ。


 今日は平日、しかも朝と昼の間の中途な時間。夏の高知を彩る諸々のイベントが中止になっているのだから、観光客もほとんどいない。


 シャワシャワシャワシャワ――――。

 蝉の鳴き声が、窓を通して聞こえてくる。こんな中でも彼らはその生を謳歌しているようだ。

 窓の向こうには書き割りのような濃い青が広がっていて、白い絵の具が雲を描いていた。


 それを見て、少し気分が落ち込む。だがまあ、このままじっといしていてもしょうが無い。僕は電車の扉を開けた。

 途端、蝉の鳴き声が一層響はじめる。同時にむわっとした空気が、冷えた車内へと入り込んできた。


 まとわりつく空気を感じながら僕は車外に降りる。

 懐から古びた鉄道時計を取り出して確認。発車時刻まで10分。

 その間、夏を感じ続けなければいけないことに、僕は少し憂鬱になった。


 僕は夏が嫌いだ。そもそも暑いのが嫌いだし、それに夏は嫌なことばかり起きる。

 おじいさんとおばあさんが亡くなったのも夏だった。


 うちのおばあさんはパワフルな人だった。恋人は出来たか? ひ孫を早く見せろとしきりに催促してきた。

 最後は病気がちになって、寝込むことも多かったのだけれど、恋人を連れて行ったときには我が事のように喜んでくれたな。

 まあ、おばあさんが亡くなった後、恋人とは別れちゃったんだけれども……。それでも、いい夢は見てくれただろうか。


 対しておじいさんは逆だった。寡黙だった。自分のことは何一つ話さなかった。いつもむっつりとした顔をしていた。

 ただ黙々と、心臓麻痺で倒れたその日まで仕事を続けていた。

 ああ、でもあの時は珍しく笑っていた。俺が今の会社に就職したときのことだ。

 就職難の中、なんとか転がり込むように入った会社。路面電車の運転士になる、そう言った僕に「そうか……」と笑って一言……。

 そして、押し入れの中から鉄道時計を取り出して僕に押しつけた。それは少し古びていて、裏面には傷が入っていた。

 なんでそんなものを持っていたのかはわからないが、ある意味形見になってしまったそれを、今も大事に使っている。


 ま、こんなにブラックな会社とは思ってなかったんだけどな……。


 むせる暑さの中、停留所に立ち物思いにふけっていると、「すみませーん」と声をかけられた。

 見ると、観光で来たのだろうか、若いカップルが話しかけてきていた。

 いかんいかん、ぼーっとしていた。そんな思いを閉じ込めながら、僕は応えた。


「あ、はい。大丈夫ですよ。何かお困りですか?」

「えっと、高知城に行きたいんですけど、これに乗ればいいんですか?」

「あ、はい。大丈夫ですよ。最寄りの停留所に着いたらご案内しますので、どうぞお乗り下さい」


 そう言って、二人を車内へと案内する。

 車内には、いつの間に老夫婦が座っていた。軽く会釈をする。

 しまったな。ぼーっとしている間に乗車されていたようだ。

 時計を取り出し確認すると、発車時刻の直前。慌てて電停の発車ベルを鳴らす。


 ジリリリリ――


 固い音が響く中、車内に戻って一礼。


「お待たせいたしました。枡形行き、発車します」


 そうして運転席へと乗り込む。

「前方オーライ」「ポイントオーライ」「信号オーライ」

 小さくつぶやきながら指さし確認。最後に……


「発車オーライ」

 右手でブレーキエアを抜き、左手でノッチを1つ入れた。


 ゴトン。ゆっくりと音を立て、電車は走り始めた。





 乗降客もいなかったため、途中の停留所を通過してはりまや橋へとさしかかる。


「へー、これがはりまや橋か……。本当に小さいんだな」


 運転席のそばの席に陣取ったカップルの男性が、話しかけてくる。


「もう、運転の邪魔になるからやめなって」


 そう言って女性の方がたしなめるも、おかまいなしだ。


「ちょうど信号待ちですし、大丈夫ですよ」

 そう言って話を合わせる。

「はりまや橋は日本のがっかり名所ですからね。小さいのは勘弁して下さい。元々は江戸時代に播磨屋はりまや櫃屋ひつやだったかな? 川を挟んだ商家が往来するために架けた私設の橋ですし」


「へぇ。運転手さん、詳しいんだね」


 男性が感心したような声音で頷いた。


「ええ。ちょっとした観光案内も仕事のうちですから……」


 そう答えながら。ちらりとミラー越しに他のお客様――老夫婦の方を見やる。二人もにこにこと談笑しながら、街路の方を見ていた。

 そうだな……。一応聞いておくか。僕は運転席から身を乗り出して、老夫婦に話しかけた。


「すみません、お客様。この電車はここの交差点で右折して高知城・県庁前方面へと向かいます。もしまっすぐ行かれるのであれば、次の停留所で乗り換えていただく形になるのですが、大丈夫ですか?」

「ああ。いや、私たちも観光で来ていてね。高知城の方に向かおうと思ってたんだ。ちょうどいい、大丈夫ですよ」


 老紳士の答えに、「そうですか」と一礼する。


「それでしたらまた近くになりましたら、ご案内しますね」

「うん。よろしくお願いしますよ」


 そう言って、夫人との歓談に戻った。



「なあ、運転手さん。この電車、ここの交差点で曲がるの? どうやって曲がるんだ?」


 興味津々といった顔でカップルの男性が聞いてきた。

 なんだか新鮮な反応だ。鉄ちゃんなら下調べをしてきてるのか、無言でかじりつくように見るか、黙々と写真を撮るだけだ。

 こういう風に関心を持って聞かれるのはあまりなく、なんだか面映ゆい。

 だからだろうか。ちょっと格好をつけたくなった。


「あそこにポイントがあるでしょう。あれを切り替えることで、電車を直進じゃなくて右折させるようにできるんです。見ててください」


「選別オーライ」選別信号を確認し、それにあわせてエアを抜き、電車を少し前進させる。


 パコンと音を立ててポイントが右折へと切り替わる。


「こんな感じでポイントを切り替えます。後は車の右折信号が出るタイミングで、電車の信号も出るので、それにあわせて進む感じですね」


 折良く信号も変わる。


「信号オーライ」、軽く警笛を鳴らしノッチをとる。

 電車はゆっくりと、軌道に沿って右へと曲がっていく。

 タイミングよく対向の電車も曲がってきたようだ。相手の運転士が右手をおどけてくるりと回しながら、挨拶をしてくる。

 それにあわせて、僕も軽く会釈をしながら対向した。


 あの人はどうにも苦手だ。お調子者というか……。

 昔ながらの人間なのだろう。会社から対向の挨拶を禁じられた後も、相も変わらずそれをやめない。

 あれでいて事故もせず、本人もいたって気のいい人なんだけど……。



 気を取り直して電車を走らせる。

 相も変わらず乗車客は増えない。まあ、この電車は中途半端なところで折り返すから当然ではあるのだけれど……。

 ただまあ、徐々に高知城が近づいてきた。そろそろ運賃の案内でもするか。


「次の次が高知城前の停留所になります。運賃が200円になります。おつりは出ませんので、両替等必要であれば、こちらでどうぞ」


 信号待ちの間に後ろを向き、カップルの二人、そして老夫婦の二人に案内する。

 皆、大丈夫なのか、頷きを返してくれた。


「あ、そうだ」

 カップルの男性が思い出したように告げた。

「運転手さん、観光案内もできるんだろ? どっかいいご飯どころ知らない? 実はまだ朝飯くってなくてさ」


 隣に座る女性が、男性の袖を引っ張って、申し訳なさそうに目を伏せる。

 僕はそれに苦笑した。

 この女性も苦労してるんだろうなと思った。ただまあ、個人的には男性の直裁的な物言いは好ましい。これには彼の持つ性格的な明るさもあるのだろう。

 正直うらやましいとさえ思う。

 っと、いかんいかん。軽く頭を振って男性に答える。


「そうですね。でしたら次の大橋通の停留所で降りられて、ひろめ市場に行くのをおすすめします。そこからであればお城も目と鼻の先ですし」

「ひろめ市場かぁ」


 男性は乗り気でないようだ。


「いや、そこは雑誌で見てたから、行ってみようとは思ってるけど……。どうせなら観光して回って、お昼から行こうと思ってたんだ。どっか他にいい場所ない?」


 なるほど、そういう訳か。それだったら……。


「同じく大橋通で降りられて、喫茶店に行かれるというのはどうでしょうか」

「喫茶店かぁ」


 おっと、これも乗り気じゃないようだ。高知だと喫茶店=ご飯やだけど、他の県だとそうじゃないものな……。


「実は高知って、人口当たりの喫茶店の数がすごく多いんですよ。だからそこのご飯も、店ごとに色々特色があって、結構おすすめですよ」

 大橋通だと……、あの店がコスパ的にも無難かな。

「降りられてすぐの、メフィストフェレスってお店がおすすめです。内装も落ち着いてますし、ご飯も色々ありますから」


「へぇ。そうなんですね」

 女性の方が興味を引かれたのか、相づちをうつ。


「後はそうですね。観光に行く前にひろめ市場によって、席の予約をした方がいいですよ」

「へぇ、そんなことができるんだ。でも今日って平日だろ? 夜ならまだしも、お昼に予約って必要?」


 不思議そうな顔をして男性が聞いてきた。


「お昼は、部活の昼休みの学生もひろめ市場に来るので、それなりに混みますから……」

「へぇ、飲み屋街みたいなイメージだったけど、学生も来るのか」

「まあ、あそこは……。パチンコ帰りのおじさんがお酒を飲んでる横で、観光客がカツヲのたたきを食べ、その横で女子高生がスイーツを食べる。そんな変な空間なので……」

「はは。おもしろいな。そんなの雑誌なんかに書いてなかったよ。ありがとう」


 そう言っている間に、大橋通の停留所に到着した。

 扉を開けてカップルの二人を案内する。


「あのアーケードには行ってすぐの――――――」

「うん、色々面白い話が聞けて楽しかった。ありがとう」


 男性は白い歯を見せて笑い、警戒にタラップを降りていく。続く女性も会釈をして降りていった。


「運転手さん。私たちも降りようかと思うよ」


 気づくと後ろの席に座っていた老夫婦が降車口に立っていた。

 老夫婦は、確か高知城に行かれるんじゃなかっただろうか。そう思い尋ねてみた。


「高知城に行かれるなら次の停留所の方が最寄りですけど、ここでいいですか?」

「あ、いや。私も喫茶店に寄ろうかと思ってね」


 老紳士の言葉に、婦人が言葉をつなげる。


「私たち、名古屋から来ててね。さっきの喫茶店の話を聞いて、おじいさんったら確かめるって言って聞かないの」

「少し気になるだけだ」


 老紳士は肩をすくめる。


「そうですか……。でしたらぜひ、高知の味もお楽しみください」

「そうするよ」


 軽く帽子をあげて老紳士は電車を降りていった。


 そうか。そう言えば名古屋って喫茶店文化だったな。

 実は父は名古屋出身なんだが、僕は行ったことがないからすっかり埒外だった。

 とはいえ、そんなに対抗することか……? いや、逆の立場だったら自分も気になるか……。

 そんなことを考えながら電車を発進させる。お客様はもう誰もいない。

 それでもまだまだ仕事は続く。蝉時雨の中、電車は走り続ける。





 夕刻。時計の針は五時を少し回ったところだ。

 朝からの抜けるような青空は身を潜め、にわかに灰色の雲が空を覆い尽くしていた。

 

 うるさいほどに響いていた蝉の声も、今は鳴りをひそめ、代わりに生ぬるい風が吹いている。

 走らせる電車の窓から、雨のカーテンが迫ってきているのが見えた。

 カーテンをくぐった瞬間、ダン、と音を立てて電車が震える。

 夕立だ。


 叩きつける雨の中、電車を走らせる。

 お昼にはそれなりにあった乗降客も、夕立以降はぴたりと止んでしまった。

 この夕立は半刻もすれば止む。地元の人間はそれをわかってるのだろう。積極的に外へは出てこない。

 まあ、空の電車を走らせるのはある意味楽だからいい。少し空しくはあるけれども……。


 いくつかの停留所を通過する。次の停留所は……。

 雨のカーテンに紛れ、お客様がいるのが見える。乗車口をお客様のいる場所に合わせて停車する。

 開けたドアから入ってきたのは見知った人だった。



「あぁ、くっそ。電停のひさしの下にいたのに、足はもうびっちょびっちょだ」

「高知の雨は下から降るって言いますから」


 振り向いて声を掛ける。


「お、朝の運転手さんじゃん」


 声を上げて入ってきたのは、朝に案内をした若いカップル。その後ろに老夫妻も続いている。もしかしたら一緒に観光でもしたのだろうか。


「運転手さん、まだ仕事してたんだ。大変だねぇ」


 男性は、朝と同じように運転席のそばの席にどっかりと腰を掛ける。


「ええ、まあ……。今日は七時までですから、もう少しですよ」

 僕は曖昧に笑う。

「お客様の方は、観光は楽しめましたか?」


 男性はにかっと笑った。


「ああ、楽しめたよ。運転手さんに教えてもらった喫茶店の飯もうまかったし。結局あの爺さん達と一緒に観光することにしたんだけどよ。途中色々おごってもらって安くついたしな」


 ああ、やっぱり一緒に行動してたのか。しっかし、おごってもらって安くついたとか、声を出して言うことじゃないだろう。

 そう思っていたら、案の定男性は相方の女性に腿をはたかれていた。


「失礼なこと言うんじゃないの。おじいさん、おばあさん。すみません」


 老夫婦に向かって頭を下げる女性に、いやいやと老紳士は手を横に振る。


「私たちも久々に若い者と行動できて、若返った気がするよ。むしろ私たち老人の足に付き合わせてしまって申し訳ない」

「あ~、確かにお城に登るのはキツかったっすね。でもいいんすよ。どうせコイツも運動不足で、大して速く動けないんすから……。むしろちょうどよかったっつうか――」

「――うるさい、バカ」


 男性が、今度は女性に頭をはたかれていた。


「だから痛えって」


 男性は、大仰に頭をかばう。それを見て老夫妻は笑った。


「君たちは本当に仲がいいね」

「いえ……。はは……」


 女性は、男性の腿をつねりながら、困ったように笑っていた。


「ずいぶんと仲良くなられたんですね」

「まぁ、一日中一緒にいたからなぁ。明日からは俺たち西の方に行くから別行動だけどね」


 県西部の観光というと、有名なのは四万十川だけど……。

 そう聞くと、男性は首を横に振った。


「いや、ダチがそっちの方でダイビングを始めててな。誘われたんだよ。えっと……、どこだったかな……」

「……沖ノ島」

「ああ。そうだった、そうだった」


 隣に座った女性の補足に、男性はうんうんと頷く。


「ちなみに運転手さん、ダイビングとかしたことある?」


「いえ」

 僕は首を振る。

「誘われたこともありますし、高知の海はきれいだから来いって、昔なじみに誘われはするんですが、なかなか時間が取れなくて……」


「そう言わずに、なんなら明日、一緒に行こうぜ」

「バカ言わないの。運転手さんだって忙しいでしょ」


 軽いのりで僕を誘おうとする男性が、またはたかれた。

 朝から比べると女性の方が、ずいぶんと活発になっている。これも四人で観光をしてたからだろうか。

 はたかれた頭をさすりながら男性がしゃべり続ける。


「いてて……。まあ、そんなわけで実は俺たちのメインの観光は、明日からのダイビングなんだよ。ただ、せっかく遠くまで行くんだし、前乗りしてちょっと観光でもって一日早く来たんだよ」

 男性は歯を見せて、ふはと笑い、

「おかげでじいさん達と一緒に観光で来たし、運転手さんにも会えたしでいいことずくめだ。俺の判断、間違ってなかっただろ?」

 女性の肩を小突く。


「はいはい……」

 女性は呆れたように笑いながらも、

「今回ばっかりは正解ね。仕方ないから褒めてあげるわよ」

 そう言って笑った。


 仲が良さそうで何よりだ……。

 僕は4人のお客様を気にしながら電車を走らせる。

 電車の外は、相変わらず雨が吹きぶっていて、ワイパーもバタバタと必死になって玉水たまみずをかいていた。

 相変わらず乗降客はいない。


「これ……、明日は大丈夫かねぇ」


 ぽつりと、男性が先程までとはうって変わった声音でつぶやく。

 ああ、この雨だものな。ダイビングは心配になるか。でも……、


「たぶん、大丈夫ですよ」

 僕は、前を見ながらそう話しかける。

「この雨、もうすぐ止みますから。明日は今日と同じ真っ青な空ですよ」


「え? こんなに降ってるのに?」


 驚いたように女性が言う。


「ええ、まあ。ほら、もう小降りになってきたでしょう」


 僕は前面の窓を指さす。

 先程まで吹き付けていた玉水が、今は細い滴となっていた。


「たぶんもうすぐ止みますね。えっと、どこまで行かれるんでしたか?」


 女性が口にしたホテルの最寄りは、もう少し先の停留所だ。 


「うん。でしたらホテルに着くまでには止んでるかもしれませんね」


 僕の言葉に、男性が「よっしゃ」と小さくガッツポーズをする。


「いや、よかった。急に台風みたいな雨が降ってきたから心配だったんだよ。もしかしてこんな感じの雨、普通なの?」

「そうですね。こんな感じの夕立はよくありますね」

「ほー」


 男性は感心したように頷き、そうしてぽんと膝を打った。


「あ、そうだ、運転手さん。朝と同じようにおいしい飯屋を教えてよ」

「え? ああ。いいですけど……」


 勢いに押されて僕は頷いた。まあ、今は信号待ちだ。少しくらいはいいだろう。


「そいつはよかった。雨が降ってるんだったら、適当なコンビニ飯でも買ってホテルで食べようと思ってたけどさ。雨止むんでしょ? どうせならうまい飯でも食いに行こうと思って。じいさん達のおかげでお金も浮いたし」

「――こら」


 あけすけな物言いに、隣の女性が腿をたたき、老夫妻に頭を下げる。

 老夫妻は笑みを浮かべて首を横に振った。


 なんというか……。この男性は得な性分をしているな。そんなことを考えながら、二三お店を紹介する。


「後はまあ。居酒屋にはなるんですが、ご飯のおいしい店が……。知り合いのやってる店なのであれですけどね」

「ほーーん」


 ついでに友人のやっている居酒屋も紹介する。ご飯のおいしさは間違いないから別にいいだろう。

 男性はそれをスマホにメモしている。


 そうこうしているうちに目的の停留所にたどり着いた。

 よしと膝を打ち男性は立ち上がる。


「それじゃあ、運転手さんのおすすめの居酒屋に行ってみるわ。今日はありがとうな、おかげで楽しかった。お礼にダイビングに付き合うから一緒に潜ろうな」


 降り際にそう言って、運賃箱越しに肩をたたいてくる。


「はは、ありがとうございます」


 僕は困り顔で答えるしかない。


「ほら、運転手さんも困ってるでしょ。早く行くよ」


 そんな僕を助けるように、女性が男性を引っ張って降りていった。


 さて、と。カップルがいなくなった車内に僕は向き直る。


「騒がしくなってすみません」

「いや、いいよいいよ。私たちも聞いてて楽しい気分になったし」


 老紳士は、夫人と一緒に小さく笑う。


「えっと、ちなみにお客様はどちらまで」

「多分、次かな? 泊まってる旅館はあそこだし」


 指さす先は高知の老舗旅館。なるほど、結構いいところにお泊まりのようだ。


「それでは、縁があったらまた」


 朝と同様に軽く帽子をあげて、老紳士は電車を降りていった。





 やっと仕事が終わった。取り出した時計を見ると七時過ぎ。

 いつもよりずっと早い時間ではあるが、疲れたことには変わりない。

 いや、むしろ休日前の早番予定が、この時間までの仕事に変わったのだ。むしろいつも以上に疲れていると言えるだろう。

 ぐっと伸びをすると、パキパキと固い音が響く。


 ただまあ……。

 今日一日を思い出す。

 いつもの変わらない仕事。ただ、朝と夕のあの観光客の、あけすけな声と柔らかい笑みだけは色付いて見えた。


「そうだな……。明日は休みだし、せっかくだから飲みに行くか」


 お客を紹介したんだし、ビールの一杯でもおごってもらえるかもしれない。

 そんな打算的なことを考えながら、友人の居酒屋へと足を向けた。



 ガラと戸を開けると、奥から大将の「いらっしゃい」という声が聞こえてくる。

 勝手知ったるとばかりにカウンターへと座り込む。


「おう、久々やにゃあ」


 大将に軽く手を上げて応える。


「とりあえず――」


 ビールでもと言おうとした俺の機先を制して、目の前にドンと中ジョッキが置かれる。


「うちの店紹介してくれたろう。さっき若い手が二人来て、結構飲み食いしてったき、こればあ、おごっちゃらあよ」


 ……驚いた。本当にあのカップルは来ていたらしい。しかもこの大将の上機嫌ぷりから、結構飲み食いしていったんだろう。


「あと、これも預かっちゅう」


 それはダイビングショップの名刺。「サービスするから是非旅行に来て」とおそらくカップル二人の名前、そして僕の名前も一緒に力強く書いてある。

 まあ、車内の名札で名前はわかるか……。

 それに、ダイビングの方も意外と本気で誘ってたのかもしれないな。


 そう、物思いにふけって名刺を見ていると、ゴチンと大将が拳を落としてきた。


「おまえ、地元のダイバーの誘いを断っちょいて、よそのダイバーと約束するとはのぉ」


 そうだった。大将からも誘われてたけど、仕事を理由に断ってたんだった……。


「いやまあ……、誘われただけだよ」


 そう弁解しながら、ビールに口をつける。

 そんな僕に、またも声がかかる。


「おや、運転手さんじゃないかい。君もこっちに来て、どうだ?」


 振り返ると、個室から顔を出した老紳士が、軽く手酌で僕を誘っていた。

 断るのもアレだな……。そう思って大将を見ると、カウンターの陰で小さく手を振っている。

 僕はご相伴にあずかることにした。



 ビールを片手に個室に向かうと、昼間の老夫妻が待っていた。

 刺身をつまみに、日本酒をやったのだろう。老紳士は割とできあがっているようで、赤い顔をしていた。


「お仕事終わりに、ごめんなさいねぇ」


 頭を下げる婦人に、「いえ」と答える。

 正直、こういった状況は苦手であるが、自分が紹介した店で出会ったのだ。ある意味、因果応報である。


「実はちょっと、あなたに聞きたいことがあってお呼びしたの。ほら、おじいさん」


 そう言って婦人は老紳士を促す。


「あー、うん」

 老紳士は居住まいを正す。

「時に君は、高富という名前に心当たりはないか?」


 ドキリとした。なぜこの名前が出てくるんだと思った。


「君の名字、大分珍しいだろう。私たちは昔、高富さんにお世話になってな。もしかして君のご親族にその名前の方がおられないかと思ったんだ。大分ご高齢とは思うんだが……」


「祖父です……。もう大分前になくなりましたけど」


「そうか……。まあ私たちより40も年上だからな」

 老紳士は少し寂しそうにつぶやくと、

「しかしまあ……。後を継ぐというわけじゃないだろうが、君も電車の運転手になってるんだ。おじいさんも喜んだだろう」

 そんなことを、突然口にした。


「……え?」


 思わず驚きが口に出る。


「高富さんは昔名鉄で運転手をしていたんだが、もしかして知らなかったのかい?」


 老紳士も、僕の反応に驚いていた。


「祖父は自分のことはほとんど話さなかったですから……。もしよければ、祖父の話を聞かせてもらえませんか?」


「ああ、いいとも」


 老紳士は快諾して、僕の知らない祖父の話をする。



「高富さんはね、面白い人だったよ」


 一言目で想像がつかなかった。僕の知っている祖父は、いつもしかめ面をしていた。


「割とね、昔の運転手は偉そうな人が多かったんだ。でも高富さんは手を振る私たちに手を振り返してくれてね。憧れの運転手の一人だったよ」


 愛想のいい祖父はあまり想像できない。


「実は私とおじいさんのなれそめも、高富さんなんですよ」


 婦人の知っている祖父は、もはや別人とも思えた。でも話に出てくる父の名前も一緒だった。


「高富さんは電車が好きだったからなぁ。君が運転手をしていることを嬉しく思ってると思うんだよ」


 ポケットの中の鉄道時計が、ちゃりと音を立てた気がした。


「たしかに、そうかもしれません」

 僕は懐の鉄道時計を取り出す。

「いつもはむっつりしていた祖父が、運転手になるって行ったときは少し笑って、これをくれましたから」


「それは……、ちょっと見てもいいかね」

「あ、はい」


 老紳士は時計を手に取ると裏返し、そこにあった傷に優しく触れた。


「ああ……大事にしてくれてたのか……」

「えっと……」


 不思議に思う僕に老紳士は答える。


「いや、これは私たちが結婚したときに、お礼に高富さんに送ったものでね。……まあ、渡そうとして手を滑らせて、使う前から傷物にしてしまったんだが……。そうか、持っていてくれたのか」


 そう言うと、老紳士は鉄道時計をゆっくりと僕に返してくれた。


「それが見られただけでもここに来た甲斐があったよ」

「おじいさん、そろそろ」


 婦人が、感慨深くつぶやく老紳士の袖を引く。


「ああ、そうだな。すまないが先に失礼するよ。今日は本当にありがとう」

「ありがとう、それじゃあね」


 二人はそう言って個室から出て行った。

 なんだか狐につままれたような気分で、だけどはじめて祖父に触れた気がした。

 無くなってから白黒だった祖父の写真が、急に色付いたように感じた。


 そうだな……。今度父と酒でも飲みながら祖父の話をしようか……。

 そんなことを考えながら、少し酒を飲んだ。




 さて、帰ろうか。

 お勘定を大将に頼むと、首を横に振られた。


「さっきのじいさん達が払っていったき、もういいよ。お前が飲む分なら、あと一回ぐらいなら余裕やき。また来いや」


 はは、そうか……。

 もしかしたら、あの老夫妻は最初からそのつもりだったのかもしれないな。

 考えてみれば旅館で夕食を食べてから、わざわざ居酒屋に来る理由がない。

 だったら、祖父の話をするためにここに来たんだろう。まさに去り際の「縁があったら」の言葉通りに……。


 ガラリと扉を開ける。

 夏特有のむわっとした空気がまとわりついてくる。

 いつもは嫌いなそれが、なんだか少し好きになれた気がした。


 手元の名刺を小さく弾く。ピンと軽い音が響いた。

 そうだな……。夏だし、休みにダイビングもいいかもな。


 ふぁん。小さな警笛の音。

 顔を上げると前の道を路面電車が走っていく。

 運転士がめざとく俺に気づいて手を振ってきた。


 だからそれ、やっちゃだめだって……。


 そう思いながらも、俺もおどけて手を振り返してしまう。

 運転士は俺の様子に驚きながらも、ニヤリと笑って電車を走らせていった。


 なんだか少し軽くなった。

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