第5話 なずな
「なずなに会わせてよ」
突然どこかから聞こえてきた知らない声に、まりな先生は顔をあげた。
「先生? どうかした? 」
先生の見上げた先を、なずなも見ようと首をのばす。
「ううん。雨、ふらないといいなってね。わたしたちの雪だるまさん、こわれてほしくないもの」
緑の手ぶくろ同士が、しとりと重なる。
冷たいはずなのに、先生が相手なら、この上なくあたたかい雪だ。
この熱にだったら、溶かされたっていい。
でも、この雪だるまは――。
「私たちの子」
そう口にした瞬間、先生の笑顔が揺らいだことを、なずなが見逃すはずがなかった。
“そうだった。”
「…――エイサ。
あぁ、エイサ! まだ部屋の中だ! 」
「なずな!待って!」
どうしよう。エイサのこと、なんで忘れてしまってたの!
エイサ!
「なずな。ここだよ」
エイ――サ
振り向いたその瞬間、触れ合う何か。
「ぅむ…っ! 」
暴れるなずなの体を、爪をたてられても、皮膚がめくれても離さないまりな先生。
“その子”はね、いないの。
あなたの描く夢でしかないの。
でもそんなこと、
言えるわけがないから。”
「……せんせい、失格ね。…わたし」
いたい。くちびるが。
こころが。
すごくいたい。
あなたとだけ。
「なずな。今のはね、先生の…好きな女の子との、さいしょでさいごのキスよ。
もらって」
「なんで」
「先生結婚するの」
時間が、うごかない。
エイサ。どこにいるの。
たすけて。
こんなの。こんなの知らない。
誰か描いたの? 今すぐ破らせてよ。
「……エイサは、どこ?」
“みえないの?
エイサならあなたの足元に、今、散らばってるじゃない”
だれ。
“あなたがボロボロにしたんじゃない”
違う!!
「……エイサは、どこなのって聞いてんの! 」
「なずな。ここよ。
あの子は、先生がここに、しまった」
自分の胸に両手をあてる、まりな先生。
エイサを包みこむように。そして誰からも、隠してしまうように。
「エイサはね、わたしたちの子は、先生の中にいる。
もうぜったいになくさない。こわれさせないから。
だから、あなたは、わたしを。
“こっち”を向いて 」
なにを、いってんの。
結婚する先生を?
向き合わなきゃ、みえない? 会うことも、抱き合うこともできないっていうの?
いいじゃん。だって、どちみちできないんでしょ。
「勝手すぎるよ先生。自分はみてくれないのに、私にはみろっていうんだ。そのくせエイサまで私からとるなんて」
先生も、もう。だいっきらい。
「返してよ」
誰も、いなくなる。
ほんとうの、ひとりぼっち。
なみだも、でない。
“なずな”
ふと、聞こえてくる声。
“なずな。あたしは大丈夫。”
「エイサ!」
“あのね? まりな先生だから、頼れたの。
なずながいるから、大丈夫なの。
ひとりじゃない。
あたしたちはつながってるよ”
「……わかった」
さいしょでさいごの女の子。
せめてそれだけは、白紙になんて、したくない。
先生にとっての私は。
私にとっての、“彼女”は。
わたしは――。
「まりな先生」
なずなは、先生にとって、さいしょでさいごの、二度目のキスをした。
誰が教えたのかも、教えるのかも分からない、
“みえた”
「なず、な……」
「先生にじゃない。エイサにしたの」
息をきらす先生を、彼女の瞳と。
確と向き合いながら、なずなは答えた。
「これは……」
信じられない。
6歳の女の子から、だなんて。
「これは……先生、ちょっと…つかまっちゃう」
「とっくにつかまってるでしょ」
好きな女の子とは生きられない、とてもかわいそうで、かわいい先生。
なら、私だけは、描き続けてあげたい。先生の描けなかった絵を。形にできなかった願いを。
「ただいま」
「おかえり。今日はエイサは一緒じゃないの? 」
「いいの」
スケッチブックのかけらを、にぎりしめるなずな。
「ママ。明後日が、なんの日か分かる?」
「? えっと。ごめん、なんだっけ」
「誕生日だよ。私の。
新しいスケッチブックくらい、買ってね」
そう。
だから冬ってさびしくなる。春、夏、秋よりも、心がどんよりする。
ぬくもりが恋しくなる。
フツーじゃないこともやっちゃったりする。
青空。快晴。およそ2ヶ月前とはまるで違う、あたたかな春日和。
桜はまだまだで、季節の気まぐれな衣替えに、いきものは、いつもてんやわんや。
ちょっとうっとうしいくらいの、ぬくもりの中、なずなたちの卒園式がはじまった。
なずなの視線の先にいるのは、いつだってただひとり。
まりな先生の薬指には、キラリと光る結婚指輪。スカートのポッケからは、緑色の手ぶくろが少しだけはみ出ていた。
式がおわれば、まりな先生は多くの卒園生と親に囲まれる。
でも、なずなは先生のそばに、あえて行かなかった。
「まりな先生になでてもらわなくていいの?」
「うん」
地面のタイルにはさまっていた氷砂糖のようなグリーンビーズを拾って、光にかざす。そして思い出す。ついさっきの、式での出来事を。
“なずな”
先生が、エイサと同じ形の美しい目と、柔らかな声で呼んでくれた自分の名前。
そうだよ。それが私の名前。
あの瞬間、泣きそうでもあり、笑いそうにもなった。
その理由はひとつじゃない。
なずなは、この時ようやく、あることに気づいたのだ。
少女の成長は特にめまぐるしい。たった一年の関係の中で、まりな先生が彼女に与えた気づきも、計り知れない。
言葉を交わさずとも、二人のあいさつは、すでに交わされていた。
“私にとっての先生がひとりじゃないように、先生にとっての私も、ひとりじゃなかった。
これだけ先生をみてきて、今日まで気づけずにいられた自分を、ほめてあげたい。”
お母さんと手をつなぎ、真正面は向かず、けれど下も向かずに、なずなは出口へと歩きはじめた。
出口は入口でもある。
指輪なんかじゃない。今は、あの瞳、あの髪が、もっとも輝いている時間。それでも。
振り返りはしない。
「「大好き。離さない。
でも、さようなら。 “先生” 」」
卒園式でのことも、あの冬の日のことも、なずなは永久に忘れないだろう。
「忘れないでよ。“エイサ”は私たちの子だから」
「ええ」
あれから8年の月日が流れた。
中学生となったなずなは美術部に所属し、今なお、エイサの絵を描き続けていた。
でもエイサに色はない。常に白黒。これも彼女に誓った、あの冬の日に決めたこと。
白黒は、“エイサは隣にいるけどいない”という世界を、区別、認識するための色であり、また、そんな世界に彩りなんかいらないという、彼女の思いを示した色でもあった。
冬休みのはじめ、なずならが所属する美術部は部活動の一環として、学校の近くの庭園を訪れ、写生会を開いていた。
雪の積もる、モノクロ絵と大差ない景色の中、一人の女の子が、なずなに声をかけた。
「お姉ちゃんひとり? 」
「一応、そうですけど」
ふいに顔をあげたなずなは、驚愕する。
なぜならそこには、“彼女”がいたから。
狂おしいほど焦がれ続ける、あの愛らしい笑顔で、なずなの顔をのぞきこむ彼女。
溢れてやまない気持ちをおさえて、
彼女との間にスケッチブックの壁を作るなずな。
「ちょっと、近いから」
“だめ。違う。
あの子はここにはいない子。
先生と私だけの、せかいの子──。”
「あ!あたしだ! あたしがいる!」
スケッチブックの中で、雪と花々に囲まれて笑う、“彼女”を指さす女の子。
「なんで分かったのー?
ずっと見えてないって思ってたのに!」
「それって」
自分にしか見えていないってことなの?
まさかこの子は本当に――。
「いたいた!
はい、みーつけた!」
女の子の先生らしき女性が、女の子の元に駆け寄って来る。
なんだ。ただかくれんぼをしてただけか。
他の人にもちゃんと見えていたんだ。
は? 当然でしょ馬鹿が。
「あのねぇ、勝手にはぐれちゃダメでしょ!」
「んぅ~!だってぇ~~」
「ほら! お姉ちゃんにあやまって。
ジャマしちゃってごめんなさい、って」
「“なずな”だよ! ほら! 」
女の子はなずなの胸元の名札を指さす。
「こら! なずな“さん”でしょ!
作業中にこの子がごめんなさいね……!
はい!エイサちゃん! 行くよ! 」
「はぁ~い……。
なずな! またあたしの絵描いてね!ぜったいだよ~!!」
なずなの頭を小さな白い手でヨシヨシと撫でて、“その子”は去っていった。
終始冷静さに徹して、見送ったなずな。
それでも、時間差であがってくる口角は隠せない。
私の前だけにいた、
私達だけの──。
「こっちに来てくれた」
あなたが確かに生きている。この世界でも。
しかもこんなに近くで。 それだけで私はもう。
“最後の恋は、叶った”。
そう思ってあげる。
「あの、絵の具貸してくれませんか」
少し離れていた所にいた女性の先輩に、なずなはそうお願いした。
さっき描いたエイサの絵に、色をつけていくために。
「今日もおそいね」
保育園の部屋の中。先生をしてる母親の帰りを待つエイサ。
「でもさみしくないよ。今日はなずなに会えたし!」
「なんだ。あのお姉ちゃんお知り合いだったのねぇ」
そう言った担任の先生に、エイサは笑った。
「そうだよ。大好きな人。
あたしだけの──ね」
エイサ かさのゆゆ @asa4i2eR0-o2
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