第4話 先生の過去




【出会い】




 まりなは歌うことが何よりも好きだった。

小学校の頃から合唱部に所属し、清らかな、癒しをもたらすその歌声は、多くの者から称賛された。

歌も、習い事のピアノも、たくさん褒められて、愛されながら育ち、純粋な自信に満ちていた彼女は、小学校卒業後も、得意の歌を続けるつもりだった。

しかし、中学の部活動オリエンテーションの日に、美術部の顧問、みどり先生に一目惚れしたことから、中学では、呼ばれていた合唱部ではなく、行き当たりばったりの美術部を選んだ。

ただ、当の本人は絵がすこぶる苦手だったため、入部後は自称“マリナ・グリーン画伯”として、独特な画風を誇り、よく周囲を笑わせることになる。

それでも意中のみどり先生は、まりながどんな絵をみせても、「いいじゃない」と冷静に褒めるだけで、決して笑ってはくれなかった。


 みどり先生はよく「自分の居場所は絵の世界にある」と言っていて、いつだって人より絵。現実の人間にはあまり興味がないようだった。

だからまりなにとって、絵は、“自分から先生をとってしまうライバル”にもなった。





 中学1年生の夏休み、まりなら美術部は

毎年の恒例行事として、町の市営庭園で写生会を行うことが決まっていた。



「みどりせんせーって緑茶好き?」


 写生会に向けて、まりなはある計画を立てていた。

名づけて“こっそりデート”。わざと庭園を逃げ出して、追いかけてきたみどり先生を短時間でも独占し、ちょっとしたデートを楽しむというものだ。

よってこれ(先生の飲み物の好み)も大事な下調べ。



「飲めるものならなんでも」


「じゃあ、あたしはー? 」


「はいはい」


「えへへ~♪ あたしもミドリのものならなんでも好き~ !

そうだ! 今日の水筒には何いれてんの? 」


 いつも先生は絵に夢中。目だって合わせてくれない。けれどまりなにとって、そんな放課後タイムも、好きな人と過ごせる特別なもの。



「お茶」


「みどり? 」


「茶色…」


「えっ」


「の緑茶」


 何度ため息をつかれても、まりなは席を外さなかった。

先生が返事をしてもしなくても、先生から離れるつもりなど毛頭なかった。



「みどりせんせー、暑くない? 」


 夏でも長袖長ズボン、首にスカーフを巻いているみどり先生。彼女は寒がりなのかもしれない。


「あたしいっかい水飲んでくるけどすぐ戻ってくるからね~♪ 」


 水筒の中身は緑茶にきまりだと、

来週に控えた写生会に胸踊らせながら、まりなは廊下をスキップした。


 既婚者であることだって、親子ぐらい年の差があることだって、なんのその。

まりなは自身の初恋を一切ネガティヴには捉えていなかった。







【先生との約束】



 写生会当日、隙をついて、まりなは指定場所から逃げ出した。予定通りに。

だが、その後の展開は全く思い通りにはならなかった。


 まりなは指定場所からそう遠くない音楽広場の遊具の中に隠れていたが、みどり先生は彼女を見つけることに苦戦を強いられた。

自分が歌うことが好きと知っているはずなのに、音楽広場にすら現れない先生に、“好きなのは自分だけだ”という気持ちを痛感し、まりなは隠れることをやめた。


 少し歩くと、みどり先生がふらふらしながら駆け寄ってきた。実は音楽広場はふたつあり、まりながいたのは園児向けのエリアだったのだ。

まりなを見つけるために厚着で捜し回った先生は、まりなの肩を掴んだ瞬間、夏バテからよろめいてしまう。

 訪れた思わぬ形での抱擁。


 決して、こんなハグを望んでたわけじゃない。


 近くのベンチまで先生を連れていき、横にし、涼ませようと腕をまくった時、まりなは言葉を失った。

そこには濃いあざや傷が広がっており、スカーフを外せば首元にも。いやに生々しく、禍々しく、その痕跡そんざいを主張してきて……。



「内緒にして」


 混乱の視線を前に、先生はそう言うと、なかば強引に、押しつけるような形で、まりなへ水筒を手渡した。


「……飲みなさい。お茶よ。緑の」



 傷跡に滴っていく水滴。

汗で剥がれかけたガーゼからも伝わる痛々しいにおい。

女の勘はよく当たるという。ましてや想い人に対してなど。

先生を傷つけてるのは先生の夫だ。



「それはせんせーでしょ……。あたしのお茶も全部のんで……!

ごめんなさいせんせー…、ほんとにごめんなさい…… 」


 それでも、この時間に先生を傷つけたのは、紛れもなく自分でもある。

滞りない自責の念から、何度も謝るまりな。

すると先生は自分の水筒ではなく、まりなが持っていた水筒を一気に飲み干した。


「これでおあいこさま。あとはまりなが口をわらないことね。さ、戻りましょう」


 着衣の乱れを直し、無理矢理起き上がる先生。


「横になってなきゃ!」と慌てるまりなに「こんな外で? 絵にならないわ」と返すと、彼女はまりなの肩を借り、ふらつきながらも、部員らの元に戻った。


 しばらくして、冷風のある屋根下に腰をおろした先生は、クーラーボックスに残っていたアイスを手に取ると、「あと1時間!アイス食べ終わっといてよ! まりなも」と皆に伝え、その後も、会が終わり解散するまで、しかと『先生』を務めきった。



「こっちのことはいいから、もう帰りなさい。旦那が迎えに来るから」


「でも……」


「いいから 」



 知ってしまったのに何もしてあげられない。

まりなはその日、自分自身と、初恋に、はじめて影を落とした。





 みどり先生を守りたい。

その一心から、まりなは警察官になりたいと思うようになる。

しかしまりなの母は、娘の夢に全くもっていい顔をしなかった。彼女は過保護なうえ、「男性はこうあるべき、女性はこうあるべき」といった、昔ながらの性差別的な考えも持ち合わせている人だった。


「女の子が警察官だなんて……。

もっと女性らしい仕事についてちょうだい。

一人娘が警察官になってしまうお母さんの気持ちも考えてくれる?

お母さんはね、まりなにはいつも守られていてほしいのよ。

おうちを離れても、大事に守ってもらって、そんな殿方と幸せになる道も歩んでもらいたいの。

危険な警察官に身を投じるのではなくて、女性らしく献身的に、大事にしてもらえそうな対象に身を捧げて。

女性としての幸せもその先にあるのだから」



 それでも、まりなはあきらめなかった。

自分は母親とも違う。飛び跳ねることさえ諦めたカエルにもなりたくない。たとえ何かに敷かれようとも。






「みどりせんせー? もしあたしがみどり先生と年が近かったら、あたしってアリ?

あたしが刑事になってて「ずっとみどりを守るから」って言ってきたら引く? 」


 愛の逃避行、なんて。

いつかも今も、そうできればと願わずにはいられない。

相変わらず先生は絵の世界に没頭していて、いまだ目だって合わないけれど。



「いいんじゃない」


「きてくれるの!? 」


「さぁ。でも絵になりそう 」


「うわ~んせんせ~。……すきっ」



 でもそれは夢のまた夢の話。

まりなは13歳。好きな人を暴力から守ることもできない無力な中学生。

それこそ変えられようのない現実だった。










 まりなが中三になった年の夏、みどり先生は妊娠した。

内心複雑な気持ちだったが、待望の子供に喜ぶ先生の手前、まりなも心から祝福するふりをした。

先生のおなかの前で好きな歌を披露する機会も増え、彼女はそうすることで、子供への言葉にし難い感情を、“みどりがあるなら好き”という恋心と丸めていくようにもなった。

次第にまりなの夢は、警察官になって、みどり先生と子供、二人を守ることへと変わっていった。


“ふたりとも、どうか無事でいてね。

あたしが確実に守れるようになるまで、どうか。”






 だが事件は起きた。おなかもだいぶ大きくなってきていた頃、夫の暴力によって、みどり先生は流産してしまったのだ。



 先生は精神的に病んでしまい、入院することになった。



 病室でもノートに絵を描き続ける先生。

 生まれてくるはずだった子供の絵。


「かわいいでしょ? ほらまた握ってきた」


 まるで子供が実在しているかのように自身の描いた絵と話す先生に、まりなは震えた声で「うん…!」と笑い、先生を抱きしめた。



「この子のことも抱いてあげて。エイサよ」



 まりながだっこをするふりをすると、子供は笑ってくれたようだった。

先生が嬉しそうにそう伝えてきたため、まりなもそれに応えようと、子供をあやしながら歌を歌った。



「まりなが先生だったらよかったな」


 母となった先生が、はじめて聞くような穏やかな口調でそう言った。

子供を抱くまりなの姿を、しっかりと瞳に写して。


「“まりな先生”、すごく絵になるでしょうね」



 まりなはしばらく黙りこんだが、

そうしたことで子供がぐずりだしてしまったようだった。


「ごめんごめん…!よ~しよし! エイサ~待っててよ~! まりな先生会いにいくからっ! 」





 こうしてまりなは、“まりな先生”になることを選んだ。



 そして、みどり先生の元旦那は、一度捕まるがすぐ釈放され、まりなの5つ上の女と再婚した。

授かり婚だった。













 みどり先生はもういない。

わたしももう、あきらめたカエルの子。


でも、なずな。 あなたをはじめてみたとき、先生の生まれ変わりなんじゃないかって思ったの。


あなたのエイサは自分によく似ていて、まるで先生との子供のようで。

あなたを先生あたしは……。












 ――ごめんね。


先生はまた、あなたたちを守れないのね。








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