"他者の感情を理解する"行為の本質と関係流動性についての考察

本作で核心たるテーマに据えられるのは、「国家だんらん」。18歳以上の成年日本国民が映画賞の受賞者であったり災害の被災者の、特異的な感情を「同調」することで体験する、いかにもディストピアといったSF的アイデアである。
しかし、本作の魅力は単なる抑圧的な社会を描くことにない。その先、人が他者と感情を共有するという行為そのものに関して大きな提示をしている点に意義がある。
他者の感情を理解する、という風潮はSF特有のアイデアではない。義務教育の道徳教科では「思いやり」が強調され、「他者の痛み」を理解するように、また「他者の喜び」を祝福するように教育が行われる。マスメディアも同様である。オリンピック選手の歓喜、あるいは犯罪遺族の憤激をまるで視聴者全体のものであるかのように扱う。
では、感情の共有とは何であろうか。そこに意味はあるのだろうか。
本作の主人公、18歳の若者はこう結論づける。「気持ち悪い」と。
「気持ち悪い」とは、心象と現実が齟齬を起こすときに想起する感情である。共有される他者の感情は自分のものではない。生い立ちや置かれた環境、趣味嗜好、思想学問、そして何よりーー少々荒っぽくはあるがーー個体が違う。すなわち、クオリアが違う。であれば、自己と感情のギャップに気持ち悪さを感じるのは至極当然の反応である。そう、感情の共有は可能である。しかし、その感情に対して人は否定的な反応を示すのである。
しかし、しかしである。ここで終わらないところに本作の凄みがある。
主人公は言う。「気持ち悪い」と。それ関わる大人たちへの嫌悪を含めて。しかし、それでも若者はSNSにログインする。まさに個々人の勝手な感情の発露の場であるSNSに、ログインするのである。
これは何を意味するのであろうか。ともすれば、結局「気持ち悪い」とは「嫌いなモノ」に対する無意味な反射に過ぎないというニヒリズム的結論に陥ってしまうのであるが、ここで一旦ある概念を提示したい。
関係流動性という概念が社会心理学にある(日本では故・山岸先生や東洋大の北村先生に詳しい)。ある地域社会が、どの程度他のコミュニティと交流しているか。また個人にとって見知らぬ誰かとの出会いがどれだけあるか、という程度を表す尺度である。これが高い社会として代表的なのは中東や西ヨーロッパである。人は皆常に新しいコミュニケーションに直面し、それを上手く切り抜け、信頼関係を構築する能力が求められる。一方低い社会の代表格が日本である。常に同じ関係の中で、定量化したコミュニケーションをルーティンする。
この概念によれば、日本はコミュニケーション能力が低い社会である。根本的な他者理解を避け、うわべの閉じた全体主義的な関係を構築し、相互に監視し合うことで社会を営む。なぜかと言えば、同じ人間とだけコミュニケーションする場合、他者と信頼関係を築く必要がないからである。他者が自分に危害を加えないという安心さえあればいい。だから同じことをする。同じことをすれば利益もリスクも共有され、裏切りが発生しないからである。
どちらがいい、というのではない。学問において優劣、善悪は全く判断されない。
しかし本作は日本が舞台である。いや、日本が舞台でなくてはならなかった。

”集団の中に「個」を埋没させることも大好きなのだ。日本人は。”

集団の中に埋もれる”個”たちは感情を共有して埋もれているわけではない。
むしろ他者との信頼と関係を拒否してそこにいる。いざるを得ない。実はバラバラで、まとまっているように見えるだけである。
「国家だんらん」はその極致であった。感情すら共有して、安心するための社会の延命措置。だんらんを歓迎したのが社会から疎外された老人たちと言うのも、まさにこの点を示唆している。

実は、関係流動性と言う概念を SNSコミュニティに適用できるかは現在研究中であるという。もしかしたら日本人はそこで信頼関係を構築する術を見出しているのかもしれない。
ただ、こう解釈するのが自然ではなかろうか。
「気持ちわるさ」を感じつつもSNSに「安心」を求めてしまう主人公は、どうしようもなく日本人であった、と。