蛙女が恋をした

古博かん

蛙女が恋をした

 蛙女が恋をした。

 相手はスッと背も高く顔も小さく手足も長い。さらりとした髪の毛をアッシュブラウンに染め上げて、無造作にクシャリと靡かせる社交的で明るくて誰もが認める爽やかな正真正銘イケメンだ。

 蛙女とは真反対。彼女は小柄でずんぐりむっくりボテボテ歩くふくよかさん。内向的な性格で、いつも背中を丸めてはビクビクしながら伸びた前髪のこちらから、周囲をぎょろりと観察しつつ町を行く。


 真反対の二人が町中で、ひょんなことから鉢合わせ。

 日用品を買いに出た蛙女のすぐ横をクロスバイクがひゅっと駆け抜け走り去る。びくりと竦めたずんぐりとした肩から買い物袋が転がり落ちて、中身が溢れて慌てて屈んだ蛙女を周囲の通行人は皆、怪訝そうに眺めるだけで誰一人として手を貸さない。

 いつものことだ。

 蛙女は周囲の視線に慣れた様子でいそいそ落とした荷物を袋に詰める。


 さっと伸ばした手の先で、路上に散った荷物をひょいと拾い上げたのは筋張った大きな手。驚いた蛙女は恐る恐る伸びた前髪のこちらから視線を上げて確かめる。そこには爽やかな笑みを浮かべるイケメンが、「どうぞ」と蛙女に手を差し伸べていた。

「あ、あ、ありがとう……」

 上ずる声で何とか礼を述べる蛙女に、爽やかなイケメンは爽やかな笑顔で荷物を手渡し、そのまま蛙女に手を貸してさっと立ち上がらせた。

「大丈夫?」

「は、はい」

 ずんぐりとした肩を竦めて頷く蛙女に、「気を付けてね」と声をかけイケメンは颯爽と去っていった。雑踏の中、去りゆく背中はどこまでもどこまで光り輝いて見えた。蛙女には。


 蛙女が恋をした。

 町中で手を貸してもらった名前も知らないイケメンにたった一度の親切で蛙女は恋をした。それから彼女は何かあると、名前も知らないキラキラしたイケメンのことを考えるようになった。

 あの人は一体誰だろう。

 あんな素敵な人が世の中に他にいるだろうか。

 また会えるだろうか。


 内向的で俯いてばかりの蛙女が買い物以外で町に出た。

 ボテボテ歩く蛙女の横を凶器のようなクロスバイクが、今日もサッと駆け抜ける。その度にビクビクと肩を竦めながら、それでも蛙女は町中を彷徨さまよい歩いた。

 歩き疲れて公園の噴水のそばで、蛙女はベンチに座って一息ついた。

 そうそう簡単に会えるわけがないのだ。血豆が滲む足先がジンジンと痺れて鈍い痛みが伝い上がる。ふくらはぎもパンパンだ。


 はーっと長く細い溜息を吐いた蛙女が、ふと斜め上を見上げた時だった。公園の入り口から伸びるスロープの先、立体歩道橋を颯爽と歩くイケメンの姿があった。

(会えた、会えた……!)

 偶然が特別に感じられた蛙女は、大きな両目をギョロリと動かしときめいた。イケメンは相変わらず軽やかに風に靡くサラリとしたアッシュブラウンの髪を無造作にふわりとさせ、蛙女のいる公園に向かってスロープを降りてくる。

(あの、あの……)

 咄嗟に声をかけようとしたが、喉の奥が張り付いたみたいに音にはならず、伸びた前髪のこちら側でただ、あわあわと口を開閉させるだけの蛙女の前を、イケメンは気付かずにそのまま通り過ぎて、去っていった。

 呆然と見送る背中も、やっぱり蛙女にはキラキラと光り輝いて見えていた。


 蛙女は恋をした。ほんのり淡い恋をした。

 ただ一度の親切のお礼も言えないイケメンを見るためだけに、蛙女は今日もまた町中をフラフラ彷徨い歩く。歩き疲れて公園に辿り着くと、ベンチに座ってジンジン痺れる足先を休めて息を吐く。

 いつもの時間、いつもの場所で、蛙女はただただ目の前を通り過ぎるイケメン見たさに彷徨い歩く。だけどその日、とうとうイケメンは現れなかった。

 どんよりとした曇り空の下、延々と待ち続けたが、とうとうイケメンは現れなかった。いつの間にか日も暮れていたが、蛙女は呆然と公園のスロープを見つめ続けていた。

 いったい、どうしたというのだろう。

 何かあったのだろうか。

 会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。


 思い詰めた蛙女は、ひっくりと喉を鳴らしてシクシク鳴いた。それからしばらくイケメンは、一人待ち続ける蛙女の前には現れなかった。


 それでも蛙女はポツンと一人で待ち続けた。

 それから更に数日が過ぎた。

 イケメンはこの道を通るのをやめてしまったのだろうか。ふうと漏らした溜息と共に顔を上げると、公園の入り口に伸びるスロープにいつぞやのイケメンの姿があった。

 相変わらずスッと背も高く顔も小さく手足も長い。だが、足取りはどこか力なく、しょんぼりと項垂れているように見えた。いつもキラキラしていた姿は、何だか妙に元気がない。

「あの、あの……!」

 蛙女は咄嗟に声をかけていた自分にとても驚いた。次に何を言えばいいのか分からないまま、あわあわしているといつも素通りしていたイケメンがふと足を止め蛙女を振り向いた。

 不思議そうに、あわあわしている蛙女を凝視して、小さな頭を傾げて見せるが逃げ出す素振りは見られない。蛙女は思い切って声を出した。

「あの、あの、いつぞや町中で助けていただいた、か、蛙女です……!」

 するとイケメンは更に小首を傾げて見せたが、それから何かを思い出したように「ああ」と言った。


「こんにちは。僕になにか用ですか?」

 イケメンは最初に会った時と同じようにキラキラとした笑顔を見せた。蛙女にはそう見えた。

 イケメンの悪くない反応に勇気を得た蛙女は、緊張でしゃがれそうになる声を振り絞ってお礼を述べた。するとイケメンは驚いた様子で「そんなこといいのに」と照れたように笑う。

「あなたはとても律儀で丁寧な人ですね」


 蛙女は恋をした。

 初めて会話らしい会話をしたこの日、蛙女は本当の意味でイケメンと知り合った。イケメンは蛙女の隣に座り、他愛もない会話を楽しんだ。

 イケメンは付き合っている彼女と酷い喧嘩をして、しばらく距離を置いているそうだ。それで元気がないのだという。蛙女はチクリと胸が痛んだが、イケメンの言葉に黙って耳を傾け続けた。

「ありがとう。あなたのおかげで何だか少し元気になった」

 そう言って、イケメンは相変わらずキラキラとした笑みを蛙女に向けた。

「あなたの大きな両目はとても可愛い。大きな口も、にっこり笑えばきっともっと可愛い」

 これは社交辞令だ。蛙女は咄嗟に思った。それでもやっぱりイケメンに褒められて嬉しかった。前髪のこちらに隠れた大きな目を細めて、肩を竦めて「うふふ」と小さく微笑んだ。

「ほら、やっぱり可愛い」

 イケメンは褒め上手だ。でも褒められて、蛙女は悪い気はしなかった。それからたびたび、蛙女とイケメンは待ち合わせては他愛もないおしゃべりを楽しみ、時には一緒に並んで町中を歩き、ランチをする機会が増えた。


 目立つイケメンはいつでもどこでも注目の的で、衆目は隣を歩く蛙女にも集った。怪訝な様子で、時にはあからさまに侮蔑の視線を投げつけてくるが、イケメンも蛙女も気にする様子はなかった。

 蛙女は嬉しかった。親切なイケメンとこうして知り合えて、会話ができて、食事を楽しむ機会に恵まれ、ただそれだけで十分に幸せだった。


 しかし、幸せは長くは続かなかった。

 イケメンはまた、パッタリと姿を見せなくなった。いつも待ち合わせていた公園にも現れなくなった。連絡もない。

 いったい、何があったのだろう。

 どうしているのだろう、無事なんだろうか。

 また彼女に酷い目に遭わされているのだろうか。


 蛙女は悶々としながら一人悩み続け、イケメンの身を案じ続けた。そして再び、ふらふらと町中を一人彷徨い歩く日々に戻った。

 初めて会った場所、二人で初めて訪れた店、散歩した町中。ふらふらと彷徨い歩いていつしか日が暮れていた。

(いない、いない。どこにもいない……)

 イケメンの身が心配で心配で仕方がない蛙女は、いつの間にやら歓楽街にまで足を伸ばしていた。あの爽やかなイケメンがこんなことろを彷徨うろつくはずがない。

 蛙女は自分に呆れてふっと溜息を漏らした。そして、ふらりと踵を返した時、目の前の賑やかな通りを派手な女と腕を組んで歩くイケメンの軽薄な姿があった。

「……」

 賑やかな原色ネオンに照らされた横顔は、やっぱりイケメンで間違いなかった。

 蛙女は愕然としながら、あわあわと二人連れの後を追った。

「あの、あの……!」

 何とか絞り出した声は掠れていた。イケメンは怪訝そうに振り返り、傍でしなだれかかっている派手な女が「だあれ?」とイケメンに声を掛ける。


 蛙女は咄嗟に声をかけたものの、後の言葉が続かない。ただ、あわあわと佇んでいるばかりの姿を一瞥したイケメンは素っ気なく冷たい言葉を吐いた。

「ああ、あんたか」

 付き纏うなよ、気持ち悪いやつだなと吐き捨てて、わざとらしくシナを作る派手な女の肩を抱いて、イケメンは夜の町に消えていった。

(そんな、そんな……酷い)


 蛙女は恋をした。ほんのいっとき恋をした。

 夢のような幸せは、いっときを過ぎるとあっという間に色褪せて、蛙女をボロボロにした。

 蛙女はショックのあまり食事もロクに喉を通らず、見る間に痩せこけて衰えていった。もともと内向的な彼女は益々家に閉じこもり、来る日も来る日も過ぎた日々を偲んで泣いた。おいおい泣いた。

 泣いて泣き続けて声が潰れて、本物の蛙みたいな声になってもまだ泣いた。

 蛙女はどんどん痩せこけ、とうとう骨と皮だけになった。ずんぐりとした見た目はどこかに消えて、薄皮越しにドクドクと音を立てる心臓が丸分かりになるほど。

 泣いて泣き続けて声が枯れ、蛙女はげっそりとした顔を上げた。そしてフラフラと気力を振り絞って立ち上がり、真っ黒のトレンチコートを身に纏った。そしてふらりと家を出た。


 何日泣き続けたのか、風はすっかり涼しくなり、コロコロと秋虫が鳴いている。すっかり日も落ち、外灯がポツポツと暗闇の合間合間を照らしている。

 その下を、蛙女はフラフラと風に舞うように溶けていく。そうして本当に影のようになって、蛙女はじっと雑居ビルと雑居ビルの狭間に身を置いた。

 じっと、じーっと身を顰め続ける蛙女は完全に暗闇に溶け込んでいて、明るい通りを行き交う人は誰一人として気付かない。そんな中、蛙女はただただ、じっと潜み続けた。


 どれだけ潜み続けたか、突然、蛙女は動き始めた。ふらりと影から這い出して、フラフラと薄暗い横道を付かず離れず舞い歩く。

 ギョロリと大きな両目が見つめるその先に、スッと背の高い手足も長い爽やかなイケメンの後ろ姿が、そろりそろりと歩きゆく。

「だ、誰だ!」

 背後の気配を察していたのか、イケメンは突如声を荒げて振り返る。蛙女は相変わらずフラフラとした足取りで薄暗い横道からヌッと現れ、驚くイケメンに一歩一歩近付いていった。

「忘れたわけじゃないでしょう?」

 蛙女のしゃがれた声に、イケメンはギョッとし咄嗟に一歩後退る。闇から現れ出た蛙女には、かつての蛙女の面影はどこにもなく、ただギョロリとした大きな両目だけは爛々と底光りしていた。

「あなたの、蛙女ですよ……?」

「は? 何だそれ、気色悪い!」

 青ざめ、恐怖に引きつるイケメンは、どんな表情をしていてもやっぱりイケメンなのだなと蛙女は一歩一歩近付きながら、にいっと大きな口を引いて笑みを浮かべる。


「く、来るな! それ以上、近寄るな!」

 警察を呼ぶぞと掠れる声音で牽制するイケメンは、やっぱりイケメンだ。ピタリと歩みを止めた蛙女は、もう一度にいっと口の端に弧を引いた。

 そして、大きな口をぱかっと開くと鞭のようにしなる長い舌をひゅっと伸ばしてイケメンを絡めとり、そのままばっくりと飲み込んだ。

 口の中でイケメンが手足をバタつかせて暴れるが、蛙女は、にいっと笑みを浮かべたまま、恍惚とした表情で佇んでいた。笑みを浮かべた口元はピタリと閉ざされ寸分も開く気配はない。


 やがて蛙女はもう一度、大きく咽頭を動かしてゴクリと大きな音を立てた。

「うふふ」

 思わず声が漏れ、蛙女は恍惚とした表情のままぱっくりと口を開けた。そこには、もはやイケメンのイの字も見当たらず、ただただ蛙女の満面の笑みだけがあった。


「うふふ」

 家を出たときは、まるで影のように頼りなかった蛙女の足取りは軽い。ボテボテとした歩みは変わらないが、時折飛び跳ねて夜道を去っていく後ろ姿には充足した空気が満ちていた。


「うふふ」

 蛙女が恋をした。蛙女は恋の味を知った。

 初恋は実らないものだと身をもって経験したものの、やっぱり恋は良いものだと満足そうに頷いて、笑みを零しながら元の日常に戻っていった。

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