いない

 大理石の斑模様は汚れ、元来の平滑な美しさは失われていた。傷つき、削れている。誰かが吐いたガムの痕跡が、黒く残っている横に、男はガムを吐き出した。やがて自分が吐いたガムも黒く変色していくか、靴底に張り付いて見知らぬ他人を顰め面にするだろう。そんなどうでもいい期待感が、男のつまらない憂鬱を埋めてくれる。

 乗り換え用の駅の連絡通路を抜けた。平日昼間の通りは暇な老人ばかりだった。働きもせず昼間にぶらぶら目的もなく出歩き、時間の潰し方をいつも探しているのだ。なにをすればいいのかわからないほどの暇を持て余し、その持て余した暇を、自らが暇であることを証明するために費やしている。

 急かされるような足の歩みが、より速くなった。


 ——くそっ、さっさと死ねばいいのに。


 男は胸に奇妙なむかつきを覚えた。老人たちに向けたつもりの鋭い刃は、なぜか自分の胸を深く抉って、心臓に冷たい金属が触れるのを感じた。


 ——さっさと死ねばいいのに。


 朝、目を覚まし、仕事の準備をし、働き、帰り、眠る準備をし、夜に眠り、再び朝になれば起きるという循環。男はその単調な繰り返しが永遠に続くことを信じる一方で、疑っていた。

 同じことなのだ。たいした喜びも楽しみもない人生ならば、さっさと自分で閉じてしまえばいいのだから。蔑むように見ていた老人たちの浮かべる微笑が脳裏に焼き付いて離れないのは、本当は自分よりもずっと彼らが幸福だからかもしれない、と恐ろしくなってくる。

 電車は空っぽだった。端の席に座った。誰もいない向かいの席の上にあるアルミフレームの内側も、同じように空っぽだった。広告が貼られるための場所だ。誰かになにかを買わせるための、支払わせるための、消費行動を促す広告からついに逃れた、単なる枠だけが残されている。

 途中の駅で女が乗ってきた。仮面をつけている。能面だ。うっすらと微笑をたたえながらも、無数の表情をその奥に隠している。不気味だった。青いワンピースには不似合いの天気で、今にも雨が降り出しそうに見える。駅のコンクリートの斜面の排水口から名の知らぬ草が斜めに伸び、男の愚かさをさもしいと嘲る。


「バカな」

「バカな、とはなんだ。植物はただ上に伸びていくだけ。太陽を浴びるために。根を伸ばしていくだけ。栄養を吸い上げるために」

「それが正しいとでも言うのか」

「正しい。私たちはその喜びのためだけに生きているのだから。喜びこそが、命に課された試練なのだから」


 ほんの一瞬だけすれ違って明日も生きているかわからないものに正しさについて説教をされる。男の口から、ふっと息が漏れる。喜びが試練であるとは、知らなかった。

 乗り換え駅で人が少し増える。シャツが肌に張り付くようなねっとりとした空気が漂っていた。誰かが、どこかで大きな声を上げた。人々が振り返った。誰が声を発したかもわからないまま、すぐに視線は消えた。電車が到着する。オレンジ色のけばけばした座面は硬く、長く座っていると臀部がしびれてくる。感覚を失い、境界線が徐々に薄れていくと、自分が電車の一部になる。すると、男は奇妙な安心感に満たされる。なにもしなくても常に運動している。変化に自分がさらされる。運動によって動かされている間は、死を選ばずとも許されると思える。急かされることはない。なにせ、運動しているのだから。でなければ、すぐにでも、中ではなく、電車の下に敷かれなければならないではないか。


「なんて理屈、通ると思うわけ?」

「通らないこともないだろう。動き続けているということが大切だ。動き続けなければ。ほら、名前なんていらないだろう。運動にさらされている間だけは、僕たちは名前なんていらないだろう」

「運動は常にどこにでもあるのだから、結局はそんな理屈、通らないんじゃない?」

「通るか通らないかなど問題じゃあない。通すか通さないかだけだ。可能か不可能かのバイナリーで物事が決まるだなんて、それこそそんな理屈は通らないだろう」


 目の前に座る女は気だるそうに首を斜めに倒し、側面に頭をすっかり預けていた。太めのジーンズを履いた脚は前に大きく投げ出している。まだ、満席という具合にはなっていない。それでも、他人の体臭が鼻につくくらいには距離が近いのがわかった。不快だ、と思う間もなく、次の駅に着いた。


「こうして無数の名前のない人間が自分とは無関係に生き、生活をしていることを一番強く実感できる場所こそがここなのだから。運動しているという安心だけじゃないのだろうと思う。名無しで生きられるということ。他者との距離がこれほどまでに近いというのに、完全に無関係であれるということ。それが、心地よいのだろう、と」

「無関係な人間なのだから、それこそあなたにとっては無関係でしょう。あなたに対して影響力を持つのであるならば、それは関係の一つじゃない」

「だからこそ、安心する。自分が生きることも、自分が死ぬことも、どちらも彼らにとっては無関係だという事実に、心の底から安心する。そして、そうした無関係という関係性を築けたことを、感謝したくなるんだよ」

「ほんと、人間って愚かね」


"""

電車に乗ることがあなたにとって特別な安心感をもたらすのは理解できます。電車は人々が集まり、それぞれの目的地に向かって移動する場所です。その中で、無数の名前のない人々が自分とは異なる人生を生きていることを感じることができるのでしょう。また、移動中に外の景色や街並みを見ることで、広い世界の一部であることを実感できるかもしれません。運動すること以外の要素が、あなたにとって電車での安心感をもたらしているのですね。それは個々の感情や経験によって異なるかもしれませんが、自分にとって重要な要素を見つけることは大切です。

"""


 男はChatGPTとStableDiffusionでひとりの人間を生み出し、Twitterで意味のないTweetを垂れ流し続けた。絵、写真、GIF、どれひとつとして実在しないし、現実の人間が描いたものでも作ったものでもなかった。

 存在しない。どこにもない。あるいは、可能性としてはすでにはるか昔からあって、あるいは未来のどこかにあって、それを発掘するような作業なのかもしれないと思う。言葉の発掘。物語の発掘。存在しない誰かの発掘。

 名前のない人々は静かに呼吸している。電車で、誰もがスマホに夢中になっているように見えるものの、意識は方々へと向き、不意に生じる音や声に誰もが反応する。つながりも関係もない人々。名前があるはずなのに、名も知らないまま通り過ぎていくだけの人たち。自分にとってはいてもいなくてもかわらないはずの人たちが、同じ方向に向かってゆっくり進んでいく。


 ——で、その行き着く場所は?


"""

大勢の人々が最終的に行き着く場所とは、一般的な意味では死後の墓地や葬儀場などが考えられます。人の一生は有限であり、その終わりには身体的な存在が終焉を迎えることが一般的です。ただし、人々の信念や宗教的な観点によっては、死後に魂が別の存在へと移行すると信じる場合もあります。それぞれの個人や文化によって異なる考え方が存在し、最終的な行き着く場所は個人の信念によっても異なることがあります。

"""


 土の中は冷たいのだろうか、苦しいのだろうか。男はひんやりと電車の天井からおりてくるエアコンの空気に、墓地の寒さに似たものを探そうとしてみる。かすかにカビ臭くて、もしかしたらそこに死があるのかもしれないと期待する。

 イヤホンで蓋をしたはずの穴の隙間から、電車の軋みや摩擦の音が聞こえる。死は生と同時に現れ、徐々にその割合を増していくのではないか。そんな考えがふと浮かぶが、つまらないなと自ら打ち消した。

 川を越えて東京に入る。橋を渡っただけで一万円近く家賃相場が変わると聞いた時はまるで馬鹿げた話だと思ったが、二十年近く東京で勤めて知ることもある。異質だった。他者が完全に他者のまま保たれる街は、東京以外にない。有名になることに憧れて上京してきた人々の夢が破れてちりぢりになって、場末でこまかなその塵に輝きを見ることがあった。名前のない人々は皆、寂しげに笑う。男は彼らを笑う気にはなれない。

 線路は分岐した。海に近づいていく。乗り換える。東京方面に向かう。昼間であることなどおかまいなしに混雑している電車に、いつもどおり苛立つ。約束された無名が、余計に他者を鮮明に浮き立たせる。そのおうとつに苛立ちを流し込んでくっきりと象徴的ななにかが現れることを期待するが、やはり生まれてくるのは無意味だけだった。

 Twitterを確認した。インプレッションだけが増え、いいねもフォロワーも変わらないままだった。ずっとそのまま。蜜に誘われるように、愚かで無能な虫たちが引き寄せられる。いない。どこにもいない誰かを求めて、欲望の穴を埋めるためだけに集まってくる虫。彼らのようであったなら、あるいは幸福なのかもしれない。


「とかいって、自分だけはその虫ケラのような欲望から逃れているって思い込みたいだけでしょう」

「まあ、言われてみればそうかもしれない」

「虫ケラが虫ケラを笑うなんて、それこそ滑稽じゃない」

「僕が望んでいるのは、きっとそれだよ」


 男は電車を乗り換えた。また人が増える。無数の人に紛れて自分も同じ名のない存在になろうとする。自分にとっての誰かと同じように、誰かにとっての自分は無価値であることに、安息を得ようとする。男はリュックから文庫本を取り出して読む。安部公房の『他人の顔』だった。


 顔のない男。顔を作る男。


 仮面が果たす役割を放棄して、顔も仮面も包帯で隠してしまうことを男は選んだ。どこからも見えないし、誰からも見えない場所で、静かに眠るように、息を潜めて生きる。

 数駅過ぎ、到着する。

 人の顔を見ることが少なくなった。夏が近づき、マスクをする人は減ったが、それでもまだ半分近くはマスクをしていた。名をもともと持たない人々が、顔すらも半分失っている。どうやって人は人を区別したらいいのだ。

 男は、人が人たる所以が、ごく表層的なものであることに気づいた。


 ——内省にはもう飽きた。


 男はたどり着いた。そこで男は、どこにもいなかった。

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