頭痛

 地下道で犬を連れて歩く男が一瞬、ちらと自分へ視線を向けるのがわかった。薄着で汗まみれの女が土曜の朝に歩いているのが珍しいのだろう。シャツは透けないものを選んでいる。それでもぴったりと肌に張り付いたシャツは、胸のふくらみを浮き立たせるように強調している。面倒だ、と女は思った。

 途中で地下道は分岐する。と言っても、左に行くと長いスロープで、右に行くと階段になるというだけで、どちらも駅につながっている。距離には大差ないはずなのに、スロープを好む人が多かった。誰もがはやく地上へ出たいのだろうか。太陽の、激しく照りつける光を求めているのだろうか。夏の真昼の太陽なんて、どうせ目に眩しいだけだ、と女は思う。

 となれば無論、女は右の道を選んだ。地下駐輪場を使う人だけは、どうしてもこちらの道を選ばざるを得ないが、週末はそう多くない。誰にもすれ違わずに駐輪場を過ぎて、駅の脇の階段へたどり着いた。

 踏面を二つ飛ばしで駆け上った。日常のなかにいつだってトレーニングを探している。からだの感覚を確かめる意味合いものある。ふくらはぎがわずかに痙攣していた。二時間たっぷりテニスをした後で、単にからだだけではなく、頭がぼんやりと重い。軽い脱水症状と酸欠。いつものことだ。頭痛はこれから悪化していくだろうな、と考えているうちに、改札前まで来ていた。

 帰ってシャワーを浴び、仕事の準備をして家を出る。一時間半ほどかけてオフィスに着いたら、そこから九時間の拘束。頭痛薬はオフィスに常備している。

 初春から晩秋にかけて、毎週末のテニスの後には熱中症気味になる。水分をしっかり取るとか、からだをできるだけ冷やすとかいう問題ではなかった。いくら神経を尖らせて注意してみても、からだの限界に近づこうとする自らの習性そのものには抗えない。これは欲望の一種だ、と女は確信していた。

 部活で始めたテニスだったが、社会人になってまで続けるとは思っていなかった。強くはないし、熱心に強くなろうとしているわけでもないというのに、なぜか毎週末のテニスを気がつけば予約していた。そうして、どこに行くかもわからない練習を、今でも続けていた。


「それってなにを求めてるわけ? 結局さ、今からいくら頑張ったってしょうがなくない?」


 その通りだった。女は友人の言葉をすこしも否定しなかった。面倒だと思ったのもある。じゃあ、あなたの生活は意味のあることばかりであふれているのですか、などと問うてみたところで、どうせ角がたつだけだった。女はなにも言い返さずに、友人に向かってしずかに頷いた。あの日の言葉が、粘着質に耳の奥から離れてくれなかった。


 電車に乗った。同じように視線を集める。だが、たったの二駅のために着替える気にはならないというのが本音だ。ほんの数分間の我慢で済むと思えば、なんとかやりすごせる。

 帰宅してシャワーを浴び、手際よく仕事の準備をして家を出た。電車に乗ると、先ほど感じたような視線が消えているのがわかる。この差があるからこそ、テニス後に視線を強く感じるのかもしれない。いたって平凡な、いわゆるオフィスカジュアルと呼ばれる範囲内に収まるような服装だった。化粧もしているし、汗だくではなかった。汗。もしかしたら、汗が誰かの性的な興奮を刺激するのだろうか。女はいつしかそんな可能性を考えてみるのが癖になっていた。

 頭痛がひどい。水分は取っていたし、部屋では冷房を入れて十分にからだを冷やしたはずだった。頭だけが靄がかかったようにぼんやりしていて、うまく働きそうにない。

 一つ目の乗り換え駅を過ぎたあたりで車内は混み始める。ちょうど目の前に、杖をついた老人が立った。女は気がついていたが、眠ったふりをした。なにより全身の筋肉が運動後の炎症で痛みはじめていたし、頭痛もひどくなる一方だった。隣の人が立った。イヤホン越しの会話でも、席を譲っているのがわかる。もちろん、女を暗に非難しているわけではないが、どうにも居た堪れなくなる。

 頭が働かないだけだ、疲れているだけだ、と自分に言い聞かせる。目をつむって音楽に意識を向けるものの、どうにも感情がちくちくとささくれ立っていく。普段であれば自分だって譲ったはずだ、今日だけはからだがつらいから、頭がすごく痛いから、しんどいから、と誰かに対して必死に言い訳していた。頭の中でこだまする自分の言葉が、自分を慰めるはずが、苛む。結局、自分を真に傷つけられるのは自分だけなのかもしれない、などと思って、なにを考えていたのかを忘れてしまった。思考が上滑りしていく。


「女に奥ゆかしさを期待しないで」


 そういいながらも、男が期待する女を演じて生きてきた。テニスをしている間だけは、自分が自分と重なる気がした。攻撃的でも、守備的でも、技巧的でもずるくても楽しんでも、その空間ではすべてが許されているという。その感覚だけあれば、その後の頭痛など大した問題ではない。そうだ、自由だ。と女は思う。自由という言葉がテニスを表現するのに最もふさわしい。

 隣に座った杖の老人が座る。時々、その肌が触れるのがわかる。この老人はどんな人生を送ってきたのだろうと思う。そして、この先は長くはないだろう、とも思う。痩せ細った腕のしたには、淡い紫色の静脈が走っている。薄くなった白髪頭は寂しげでみすぼらしい。しみとしわだらけの顔は見るからに醜悪だ。人は年齢を重ねるにつれ、弱く、醜くなっていく。それなのに、なぜだらだらと生きるというのだろう。


「それってなにを求めてるわけ? 結局さ、今からいくら頑張ったってしょうがなくない?」


 ——知らない。知らないよ。でも、とにかく私はテニスをやるんだよ。


 老人がさらに次の乗り換え駅で立ち上がると、席を譲った女性に深く頭を下げ、丁寧に礼を言った。ささくれていたはずの心からは引っ掛かりがなくなり、ほんの束の間、気持ちが楽になる。世界が善意でできていると信じられなくなったのはいつからだろうか。などと考えても、次の瞬間には別の考えに移ってまとまりそうにない。ばらばらと散らばったままの思考を集めることもできないまま、電車はオフィスの最寄りに到着した。

 東京の中心地で観光客も多い。スーツケースを重たそうに引きずりながら歩く小太りの少年がいた。外国人だろうと思った。女は足早に彼を追い抜いた。東京タワーが見える。写真を撮る人を横目に、歩みが緩むことはない。股関節の可動域と、腸腰筋と呼ばれるインナーマッスルに意識を向ける。こうして歩いた先になにがあるのだろうか。からだを動かしている間だけは、どこかへ向かって前進していると思える。たとえそれが勘違いだとしたって、慰みであることには変わりない。


 オフィスに到着した。

 女の仕事はコンテンツモデレーションの業務だった。ソーシャルメディアは欲望の坩堝だ。欲が生み出される場所では同時に嫉妬心も生産され続ける。解消されないフラストレーションを覆そうと、多くはセンセーショナリズムへと走る。エロやグロ、暴力、リスクや迷惑が、より大きな力をもって再生産される。バズることだけが正義で自己承認でアイデンティティだった。そうしてさらなる欲と欲とが絡み合って擦れあって、触れるだけで不快な熱を発しては胡乱な煙が立つ。その中心で燃え上がる小さな炎を消すのが、それが女に課された役割だった。

 コンテンツとして価値があるとは思えない動画ばかり見せられた。可愛らしい動物や赤ん坊の動画なら癒されもするが、見知らぬ女がおしっこを我慢する姿を見せられたり、大きなカエルが生きたままのハムスターを食べる動画、低俗な官能小説の機械朗読、キスや耳を舐める音を流し続けるASMR、性的なタイトルで視聴者を引きつけようとする中身のない釣り動画、体操服姿の女が平凡な中年男性を踏みつける動画、動画、動画、動画。

 グロテスクな欲望の中心に腰を落ち着け、置いておいた頭痛薬を飲んだ。モデレーションの作業をするうち、頭痛が少しだけ和らぐ。いかにも下卑た動画ばかりで普通ならば気分を害すものだろうが、むしろその無意味さ、無価値さ加減に心地よさすら感じる。人間の内面的な欲望の方向性はあまりに多様で、一生をかけたとしたって理解し難い。その一つを取ってみても、どうしても遠い。

 許されているのだ、と女は感じた。小児性愛や獣姦が忌避されるのには、同じ根拠があるのだろう。他者に害を与えうるからだ。だが、提供するものと享受するものとの利害が一致するならばなにも問題ない。欲望のすれ違いを金銭や名誉が媒介して結びつけてくれる。そんな場所は、他にない。


「ソーシャルメディアは欲望のミスマッチを解消してくれる完璧なシステムなんだと思う」

「どういうこと?」


 休憩時間に同僚に話してみたが、今一つ伝わらないらしかった。向かいのソファに座る同僚は、ちらちらとスマホを見ている。


「ね、なに見てるの?」

「インスタで可愛いワンピース見つけてさ」

「へー、良いね。めっちゃ可愛いじゃん」

「でしょ」


 ——ほら、やっぱり


 女は同僚に笑みを見せる。私はあなたに共感していますよ、という態度をわかりやすく示す。そうして安心しているあけすけな同僚の欲望に、自分も心穏やかになる。

 パン、とラケットで弾き返す時の感触。狙った場所に、狙った質の球が飛ぶ喜び。張り詰める筋肉、軋む骨と靭帯、暑くて朦朧としてくる意識、自分ともうひとりいるだけ、打ち合ってくれる誰かがいるだけで感じられる至上の快楽……。


 ——私は間違っていない。私は間違っていない。


 頭痛は消え、ぶーんという休憩室の冷蔵庫の音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。

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