雨、自転車、花火
雨が続いていた。紫陽花の咲いたオフィス前の道を渡る。遠くから黒いミニバンが近づいてくるのが見えた。男の歩みが緩んだ。
向こう側へと渡りきる前に、ミニバンが猛スピードで肉体の上を走り去るのを想像してみる。その想像には、なぜか痛みだけが欠けていた。
新しい季節。雨。遠くは霞み、見通しが悪い。
垂れ込める鈍色の雲の向こうに夏があるなんて信じられなかった。青い車と海と空が溶けてしまう、暑苦しい夏の汗のにおい、ひまわり、アイスクリーム。その高い空から、不意に鳥の澄んだ声が落ちる。
「来年は絶対に花火大会行こうね」
「ああ、うん」
来年が永遠に訪れないと、数年経って男はようやく理解した。
脳裏によぎるのはバラバラの断片ばかりだった。風や日差し、川の水のせせらぎ、そうしたもののなかにそれは混ざっている。意思とは無関係に顔を見せてはそのたびに男を困惑させる。
水の音、雨の音、重なる二つの音。そして、また別の記憶。
堤防の上は車が通れなかった。その道を、女が自転車を漕いでいた。
男は後輪の金具につま先をひっかけ、泥除けを支えるための細いアルミの支柱にかかとをのせた。支柱はすっかり歪んでいた。泥除けが後輪のタイヤに触れて、はじめてその歪みを知る。進みが悪くなるし、摩擦でゴムが痛む。負荷をかけすぎていた。歪みは簡単に直った。また、相変わらず二人乗りをする。
安定のために女の肩を掴む。風に髪のにおいが混ざり、夏が近づいていることを知るが、嫌な気はしない。静かな幸福を噛み締める暇もないくらいに、自転車は速度をあげて川辺を走る。スーパーは近い。
生活必需品や食料品を買いに行くことにいくらか胸の高鳴りを感じたこともあったが、そのうち当たり前に変わった。その日もいつも通りスーパーで必要なものを買って、帰って、平坦な日常が続くはずだった。
帰り道、男が自転車を漕ぐ番になる。自転車の前のかごに買ったばかりの牛乳や肉、野菜がたっぷり積まれて、さらに二人乗りとなれば、力の強い男の方が帰り道というのは理にかなっている。
スーパーから百メートルほど川へと続く道を自転車を押しながら歩き、堤防にあがってから男は自転車にまたがった。男の支える自転車に、女が無遠慮に体重をのせる。足先を金具にかけ、軽々とからだを浮かせた。後ろに乗る女の重み以上に、前のかごの重みにバランスを崩さないようにと気を遣った。女はあまりに軽い。転げ落ちることのないように慎重に漕ぎ始める。それなりの速度に達すればもう転ばない。一定の速度を保ちながら、綺麗な路面を選び、走った。
アスファルトで舗装された細い道の斜面には青々と名の知らない草が茂り、なんとなく懐かしい青いにおいを放っている。風を切って走るにはちょうど心地よい季節だった。風が汗で濡れた肌からゆっくりと熱を奪う。漕ぐうちに、気分が高揚してくるのがわかった。
遠くで電車の音が聞こえた。男がふと視線を少し落とした。路面に黒い斑点を見た。濡れている、と思うと同時に、額をしずくが打った。通り雨だ。
「やば、降ってきたね」
「ね、やばそう。ちょっと急ごうか」
男はペダルに体重をかける。ぐん、と速度が増すのがわかる。交互に、バランスが崩れないように注意をはらいながら漕いでいく。が、視界の先が暗くなるのがわかった。雨の壁だ。その一粒ひとつぶの感触が確かめられるくらいに輪郭のある雨だった。飛び込んだ瞬間、全身の細胞がきゅっと引き締まるような警戒を発するのがわかる。思いのほか、雨が冷たい。汗に濡れたTシャツは、あっというまに雨との区別がつかなくなった。
焦燥にせかされ、ペダルに力を込めた。うしろから、あっけらかんとした朗らかな声が聞こえた。
「ああ、めっちゃ濡れるー!」
刹那、肩を掴む女の体温が離れ、漕ぐ力が軽くなった。
女が駆け、すぐに男の漕ぐ自転車を追い抜いた。真っ白のスニーカーが水たまりごと蹴散らし、飛沫がはじけるのが見えた。女だけが雨に祝福されているように見えた。あるいは、女だけが雨を恵として享受したのかもしれない。男は自転車の速度を落とした。
不意に光が雲間から差し、振り返った女を照らした。
「雨、すっごい気持ちいいよ」
「ばか、なにしてんの」
雨に濡れながら堤防を走る。その女を、男は自転車で追いかけた。分厚い雨が壁のようになってなにもかもを閉ざした。二人以外、そこには誰もいない。確かに、気持ちいい。雨が好きだ、と男は思った。
ロビーはいつもより閑散としている。雨が続き、在宅勤務に切り替える人が増えた。在宅勤務日数に制約はあるものの、雨の季節や真冬は出社が減る傾向にあった。先日、梅雨入りが発表されたばかりなのだ。
エレベーターに並ばずに済んだせいか、いつもよりも十分ほど早く着く。時間に余裕があるため、ロッカールームに寄ることにした。
セキュリティカードを端末にかざし、開錠する。案の定、ロッカールームもまたロビーと似た静けさがあった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
同じ部署の後輩だ。濡れたスーツの袖をハンカチで拭っていた。髪や肩は濡れていないらしい。パンプスが水をはじき、表面に丸いしずくをのせ、震わせていた。
男はズボンのポケットからハンドタオルを取り出し、同じように拭った。真似ようと思ったわけではなかった。後輩がフッと微笑を浮かべると、男は思わず苦笑した。
「雨、嫌だね」
「雨、嫌ですね」
二人の声が重なった。同じ言葉を口にした気恥ずかしさが、沈黙となって間を埋めた。
ガチャ、とロッカールームの扉が開く。同じ部署の顔見知りが入ってきて、二人に軽く会釈をした。二人もそれに応じ、間がうやむやになる。
「この雨、しばらく続くんですかね」
「まあ梅雨入りしたらしいから」
後輩は袖を拭き終えると、ハンカチをバッグにしまった。駅で歩く人とは異なる緩慢とした動きだった。男も、ハンドタオルをふところにしまった。
「そうなんですか。嫌だなあ、梅雨」
「うん、嫌。陰鬱な気分になる」
「陰鬱って、ちょっと大袈裟ですね」
なにが面白かったのか、そういって後輩は無邪気に笑った。
雨に濡れる女の顔が脳裏によぎった。化粧もせず、濡れた黒い髪をひたいにはりつけたまま、しずくを散らして太陽のような明るい笑みを浮かべる女の顔だった。
「私、夏が好きなんですよ。海とかキャンプとか、お祭りとかプールとか。ああ、あと花火大会も。でも、雨は嫌い。だから、この雲を抜けたら夏なんだって思うようにしてるんですよ」
「ふーん、なるほどね」
コロナの影響で中止されていた花火大会が今年、数年ぶりに開催されるというニュースを思い出した。
毎年、対岸の少し遠い家から花火を見た。見ようと決めていたわけではなく、花火の音にどちらかが気づき、ビール片手にベランダに出た。空高くあがった花火が弾けてから音が届くまでの時間を二人で数えた。六秒。光と音とで速さが違うのは知っていたはずなのに、女と見たその時間差は花火への正確な距離を示していたような気がした。
男にとっては、それが夏だった。
「そういえば今年は花火大会やるみたいだよ。行ってみたらいいんじゃん」
「へえ、そうなんだ。うーん、でも、ひとりでってのもなんだか寂しいじゃないですか」
ガチャ、と再び誰かがロッカールームのドアに触れる。男は後輩から視線をそらし、入り口を見た。さっきの同僚が出ていったらしかった。
並ぶロッカーの向こう側には誰もいない。ロッカーに置かれた数冊の文庫本を見る。休憩時間に読もうと決めてここに置いたのがいつだっただろうか。そのうちの一冊は、もともと女のものだった。
女の荷物の大部分は女の両親が引き取った。なにか残したいものがあれば貰って欲しいと提案されたが、なにを貰えばいいのかわからなかった。最後に残ったのは一匹の猫だけ。頼りない小さなからだをふるわせていて、拾い上げると、あらがうように腕に噛み付いた。その傷が、今でもくっきりと腕に残っていた。
「じゃあ、またあとで」
「ああ、うん」
後輩が先にロッカールームを出た。
交差点でつかまった。雨足は激しくなる一方で、ズボンの裾はびしょ濡れだった。革靴の中にも水がしみている。傘越しに見上げた斜向かいにあるビルには、丸い窓があった。そこから誰かが街を見下ろしていた。
家に着いた。うす汚れた部屋の窓から雨を見る。街灯に照らされ、小さな半径にしずくが飛び散っているのがわかった。上から見下ろしたその街灯の光が、火花のなかを漕ぐ三日月型の船のようだと思った。女がいなくなってから、まだ一度もプラネタリウムに行っていない。
男は自分の財布から印の押されたプラネタリウムのチケットを出した。六枚で一回無料になるから、と二人で集めていたのに、まだ五枚しかない。男はそれを財布にしまった。
住んでいた家は一人と一匹には広すぎた。単身者向けの部屋に越した。スーパーもコンビニも駅も近くなり、ずっと便利になったはずなのに、なにかから遠ざかった気がした。
男は眠る猫を起こさないように慎重にクローゼットの扉を開け、シャワーを浴びる準備をした。タオル、パンツ、寝巻きを手に浴室に向かおうとすると、足元にふわふわとした感触があった。猫が目を覚まし、からだをくねらせ足に巻きついていた。
「ごめん、起こしちゃったな」
「なー」
男の言葉を優しく否定するかのように、猫は長い声で鳴いた。何周か足の間を八の字を描いて回ってから、満足したのか、また寝床に戻っていった。
熱いシャワーを浴びた。雨に濡れたからだをあたためたかっただけじゃない。雨に呼び起こされた記憶を流すためには、目の冴えるような熱いシャワーが良いと思った。四十四度。湯につからなくても十分にからだがほてるくらいのシャワーを頭から浴びる。頭頂部に痛みに近い感覚が一瞬だけ走り、皮膚と湯の境界が溶けるようにじんわりと熱が浸透していくのがわかった。男はロッカールームで見た後輩の顔を思い出した。異性が放つ独特の空気感を理解できないほど無垢ではいられない。大切な人を失ってなお異性を求める自らの肉体が憎らしかった。熱いシャワーが首筋から足先まで流れていく。行き場のない熱は下へ下へと落ちていき、男の内に宿る欲望を挑発する。男は、シャワーを止めた。
簡単にタオルで体を拭き、部屋に戻った。猫は眠っていて、一瞬だけ細くまぶたを上げたものの、琥珀のような瞳の輝きはすぐに隠れた。ドライヤーは諦め、首にかけた湿ったタオルで頭を拭いた。湿度が高い。いくら拭いても乾かないような気がしてくる。それでも、べつに構わない。と、男はベッドに横たわった。
どーん、と音が聞こえた。からだが重たい。春先にコロナウイルスに感染したときの気怠さを連想した。またしばらく仕事を休まなければならなくなるのかもしれない、などと、微睡の中でぼんやり思う。再び、どーん、と遠くから音が鳴るのを聞いた。さっきよりもずっと近い。また、どーん、と空が轟くような響きが部屋を揺らす。さらに近い。どんどん近づいている。音が近づくに伴って、男の意識も次第にはっきりしてくる。朝になるにはまだ早い。
男はカーテンを開けた。目と鼻の先で、ほとんど爆発ともいうべき巨大な花火が広がっていた。色彩豊かな流れる光が雨のようだった。室外機の置かれたせまいベランダに出る。頭上に花火が垂れてくる。幾条もの光がつらなり、また離れ、消えていく。そのうちのひとつが、男の広げた手のひらに落ちた。温もりがあった。その温もりを握りしめ、目を伏せると、女の声が聞こえた。
「ほら、花火大会に来たっていうのに、どうして地面なんて見てるのよ」
「だってなんだか、懐かしくってさ」
女の手を強く握りしめた。そこは川の堤防だった。川に沿って続くアスファルトの道の先で、何千、何万もの花火が打ち上げられている。一つひとつが鮮やかな色彩を放ちながらも、高さや風の影響なのか、色々な顔をみせた。現実に、こんな美しい花火があるはずもない。
「それにしても、大した花火だね」
「なにいってるんだか。それはあなたの仕業でしょうに」
「じゃあ、君も?」
「私は別かな。あなたの中にいて、あなたの中にいないから。ね、せっかくだから『花火』の歌詞みたいにさ、空から花火を見下ろしてみようよ?」
「そんなことできるの?」
「できないことなんて、この世界にはないから。私たち以外には、誰も触れられない世界なんだから」
握っていた手をふわりと空にかかげた。と同時に、二人のからだも宙に浮いた。風船がゆっくりと空に浮かぶのに似て、二人もふわふわと時間をかけて夜空に近づいていく。高くから街を見下ろしているのに、男は不思議と恐怖は感じなかった。街の小さな灯火が小さくなって、やがてぼんやりと大きな光のかたまりになると、隣で女が微笑むのがわかった。何度も見た顔だ。なのに、いつも靄がかかったように思い出せなかった。それがようやくはっきりと見えた。
「私、ずっとここで待ってたんだからね」
「ごめん。待たせて悪かったよ」
手をかたく握りしめる。柔らかい。あんまり強く握ると、そのまま夢が崩れてしまいそうだ。確かに感触がある。その感触に神経を集中させる。意識が感触をとらえている間だけは、女がいなくなることはない気がした。
星座と同じ高さまであがった。天球にLEDが埋め込まれている。等級に合わせて光の強さが異なり、赤や青の色調も一致している。その天球の一部からロープが垂れ、ブランコのように板が張られていた。並んで座った。
空から見下ろす花火。ぼんやりと光る街を背景にした花火は案外、地上で見るものよりも弱々しい光に見えた。花火が大きく開いて落ちていく様を見ていると、次第に街の光との境目がよくわからなくなる。夜空を背景にした花火ならば、藍色の空に最後に残るのは星だけで良かったのに。
「なんか、こんなもんなんだね」
「なにそれ。私はもう、こんなもんしか見れないんだよ?」
「あ、そっか。ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだよ」
女はいかにも不満げに眉を顰め、男を困らせる。
「ふふ、わかってるよ。わかってる」
空のブランコは揺れる。花火の終わりが近づいているのがわかる。頻度が少なくなるにつれ、それぞれの規模が大きく、鮮烈になる。散った光は地上に吸い取られて新しい街の光に混じり、どんどん区別がつかなくなる。光が街にあふれていく。街全体が煌々と輝き、その光を背景にした花火はほとんど見えなくなっていった。
「すごい光だね」
「うん。朝が来るんだよ。毎夜、こんな花火ばかり見てる」
「うらやましいね」
「馬鹿。冗談でもそんなこと言わないでよ」
「そうだね。ごめん」
「謝ってばかりじゃない」
「うん、ごめん」
男は、手の感触が離れるのを感じた。隣の女を見る。朗らかに笑っていた。太陽が東の空から顔を出した。朝がこんなに美しいことを知らなかった。にわかに胸の底から喜びがこみあげる。朝がこんなに美しいとは。朝がこんなに美しいとは。
「うん、ありがとう」
「……やっと言ってくれた。こっちこそ、ありがと」
女の手の感触が消えた。瞬間、世界が激烈な光に包まれ、がしゃん、となにかが割れる音が部屋に響いた。夢が壊れる瞬間の光は、超新星爆発のような生と死の錯誤なのだろう、また、新しい朝が始まる。
目を開けた。
ベッドの脇に砕けた鉢の破片が飛び散っていた。猫が弁解でもするように、男のこめかみを流れる涙を舐めていた。
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