深呼吸

 水路に長靴をひたし、近くにはえる雑草を引っこ抜いてこすりつけると、簡単に泥は落ちた。

 男は額から流れる汗をぬぐい、振り返って畑を見る。収穫が終わったばかりだというのに、かぼちゃの葉は傍若無人に伸び、土が見えないくらいに全体を覆っている。

 かぼちゃの葉と茎には申し訳程度に小さな棘があって、半袖で作業した日には夜に風呂場で悲鳴を上げることになる。男も、一度それで失敗した。触れても特に痛みがないからと甘く見ていた。仕事を終え、肌は一見するとなんでもないのに、熱いシャワーが突き刺さるかのような痛みを感じた。その時、二度とごめんだと思って以来、きっちり長袖で作業している。

 空はどこまでも青かった。東京で働いていた頃のことを思い出す。『東京には空がない』などとぼやきたくなるような空ばかり見ていた。では、どこに本当の空があるのだろうか、と空を探し、たどり着いたのがこの畑だった。


「じゃ、うちの実家で働く?」


 部長からそんなことをいわれるとは思わなかった。仕事の癖で、つい二つ返事で働きますと答えていた。しがらみから逃れたはずが、しがらみによって新しい居場所を見つけたのは皮肉に自嘲的に笑った。

 東京から遠く離れた田舎町には大きなスーパーにコンビニ、ドラッグストアなどがあり、案外不便を感じなかった。

 そして、山が近い。空が近い。鳥や獣の気配をあちこちに感じる。静けさの中に、こんなにも色や気配があるものかと感心したのを、男は今でもよく覚えている。

 軽トラの荷台に座り、水筒の麦茶を飲む。ごくん、ごくん、と自分の喉を流れる液体の音がよく聞こえる。パーン、とどこかで空砲が鳴り響く。鹿による農作物の被害がある。かぼちゃの若芽やまだ熟れていない実が食べられることがあった。鹿にとってのおいしいと、人間にとってのおいしいは随分と違うものだ。被害にあったときに男が呑気にそんなことをいっていると、アホか、と老人に怒鳴られた。老人は部長の祖父だという。八十を過ぎているのに畑に立ち、かぼちゃが儲かると聞いて去年から始めたのだとか。死が近いというのに、金儲けなどしてどうするのだろう。そんなことを思っていたのが知られたのか、老人はまた、馬鹿野郎、と怒鳴った。会社で同じことがあればすぐにパワハラだと問題になるのに、不快ではなかっただけでなく、少し嬉しく感じられた。鹿のおかげだ、と思った。

 老人の怒鳴り声がない畑は、どことなく元気がないように見えた。月に二度の病院での検診がある。ひとりで作業するのに苦労はない。それどころかいつも以上にはかどる。なのに、男はなにか足りない気がする。

 風に土のにおいが混ざっている。徐々に日が暮れていく。遠くの山の稜線に太陽が隠れると、あっというまに気温がさがる。決めてあった範囲の収穫は終わった。男は帰ることにした。

 家に戻り、かぼちゃをコンテナで運ぶ。山積みになったかぼちゃは追熟のため、家の横のビニールハウスに並べる。そうしてずらりと並んだかぼちゃに、一日の作業の満足を得る。東京で働いていたころに数字に達成感を得ていたのと同じことだ。違う点は、自分の手で、足で、土に触れ、水に触れ、植物に触れて作り出された成果だということだった。


 収穫後のハウスでの作業を終え、男にようやく休息が訪れた。

 古民家というのは名前ばかりの、あばら屋とでもいうべき鄙びた家だった。風呂はガスでも電気でもなく、灯油で沸かす。台所には、どこから入ったのか、ナメクジやアマガエルを見かけることがある。ゴキブリはごく小さいのしかいない。冬の最低気温はマイナス十度を下回るほどで、越冬ができない。建材がしっかりしているせいか、古くてボロいのに、床が抜けたり、雨漏りがあったりということはなかった。東京で借りていたマンションとは比べ物にならないくらいに悪い住環境であるはずなのに、男は不思議と満足していた。

 広い玄関で長靴を脱ぐと、中から草やつちくれが落ちる。玄関はすぐに汚くなるため、あまり掃除をしない。

 あらかじめ風呂に着替えを用意していた。帰ってすぐに湯に浸かるためだった。男は服を脱ぎ、モルタル打ちの無骨な造りの浴室に足を踏み入れた。湯も沸いていた。ハウスの作業の前に準備を済ませていた。プラスチックの風呂桶で半分ほど湯をすくい、頭からかけた。一日酷使したからだに湯の熱がしみわたるように、心地よさが足先まで抜ける。男は肺いっぱいにたまった空気を、ふーっと長い息で吐き出した。また湯をかけ、からだをすみずみまで綺麗に磨き、流した。あとは浸かるだけ。この瞬間のためだけに、男の肉体の疲労は用意されている。

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