玉匣

石濱ウミ

Rip Van Winkle





 肌に触れる、その音もなく優しく降り注ぐ花弁は僕の目の前の景色を薄く色付かせる。


 いつの頃だったか、植物にとって花が咲くのは生命の始まりなどではなく、終わりだと聞いたことがあった。

 ならば僕は今、その死を目の当たりにしているのだろう。


 なんて儚くも美しい世界。


 この世界を僕の孤独と引き換えに、受け取って貰えるだろうか。


 滲む涙が世界を歪める前に、僕はゆっくりと目蓋を閉じる――。

 





『――オハヨウゴザイマス。

 気分はいかがですか?

 お預かりしているメッセージがあります。

 呼び出しますか?』




 


 はっと短い息を吐いた。


 まるで水中から顔を出した時のように、大きく息を吸う前の息継ぎのようだと思った次の瞬間、自分が目覚めたことを知る。

 何の特徴もないアラーム音、それから無表情な声の挨拶に続き、寝ている間に受け取ったメッセージがあることを教えてくれた。

 

 ……寒い。

 目が覚めて最初に感じたのは、凍えるような寒さだった。

 春だとはいえ、眠ってしまったせいで冷えきってしまった身体が、ようやく起き上がれるようになるまでかなりの時間が掛かるとは思いもよらなかった。


 長いながい夢を見ていたような気がする。


 ベッドの上に上半身を起こした姿勢で、まだ靄の残ったようなすっきりと晴れない頭を振りながら、寝ている間に受信したメッセージを呼び出す。

 それが再生されるまでの僅かな時間。

 春は別れの季節だけでなく、出会いの季節でもあるということを思い出した。 

 窓のないこの真っ白な部屋で、雲ひとつない透きとおるような青空をふと思い起こす。

 

 それは昨日。

 病院から一時帰宅を許された、あの一日。

 久しぶりの外の世界の美しさに息を呑んだ、あの日。


 雪のように舞う薄紅色の花弁の中で、空を見上げるあの人の頬に柔らかく触れ落ちるその一片を見ながら、掌で受け取ることが出来たら願いが叶うのだと闇雲に手を伸ばす私の姿を見て微笑んでいたあの人は、あの時何を思っていたのだろうか。


 貴方と、ずっと一緒に居たい。


 それなのに、私の掌は花弁を受け取ることは、出来なかった。


 目が覚めている時には、いつだって傍にいたあの人の姿は、未だ見えない。

 珍しく席を外しているのだろうか。

 もしかしてメッセージは、あの人からなのかもしれない。


 何か、あったのかしら。 


 不安が込み上げてきた頃、メッセージの再生を告げるアナウンスに続き、あの人の声が空から降る花弁のように私の耳を優しくくすぐったのだった。





 ――人体冷凍保存クライオニクスによって死とのあわいに眠りについた君に、僕が贈る最初で最後のメッセージは、ちゃんと届いているだろうか。


 驚かせてごめん。


 出来ることならその瞬間を、一緒に迎えたいと思って長い間待っていたのだけど、どうやら無理のようだからメッセージを残すことにしたんだ。

 目醒めた君の前に、僕が現れることの出来ない理由が、これで分かったろう?


 目が覚めたら健康を取り戻していたら良いのに、なんて冗談で誤魔化すようなフリをして、実際には僕たちが必死に願っていた奇跡が現実になったんだよ。


 君の本当の願いは違うって?

 そうかな。

 そうかもしれない。


 こんなこと言って、思い上がりだって笑わないでくれたら良いけど……。

 その願いは、もしかしたら……僕とずっと一緒に居たい、とか? 

 本当のことを言えば、僕の願いは君とずっと一緒に居ることだったから、君も同じ気持ちだったら嬉しい。


 でもそれが叶わないと知った時、僕が君にしてあげられることは一つしかなかった。


 人体冷凍保存クライオニクスの処置は、法的な死亡の宣告が為されるまでは始められないんだ。

 つまり君は、記憶をとめたまま時を超えて生き返ったとも言える。


 君の記憶に残る世界と、目覚めた後の世界は違うと不安に思うかもしれない。

 

 何も変わらないよ。


 あの日から、どれだけ時間が経ったとしても君が覚えている僕はつい昨日までの僕で、それは僕が覚えている君と同じ。


 だから僕は、君に会いたくなると目を閉じるんだ。


 ほら、君も目を閉じてごらん。

 降る花弁が舞う、その中に。

 僕の、君の、お互いの姿が見える筈だ。


 どうかな? いま君がいる世界は、僕のいた世界と確かに繋がっていると分かってくれたかな。


 ……そう。 

 君にも僕にもタイムマシンは、必要ない。

 記憶は、思い出は、時間をも凌駕する。


 だけど実際には独り、だって?

 こんなことは望んでいなかった、って?


 孤独が、これから享受することになる未だ見ぬ幸せの対価とは、おかしな話だと君が涙する気持ちは僕も良く分かるよ。

 君が眠りについてから目を覚ます日を、ずっと待っていた僕は、それを痛いほど知っているからね。


 ……君を愛している。


 だから、君の孤独も喜んで僕が引き受けようと思う。


 どういう意味か、分かってしまったかな。


 聡い君が、勝手なことをするなと泣きながら怒る姿が目に浮かぶけど、僕は平気だ。

 なぜって、君はそれもすぐに忘れてしまうことになるんだから。


 微笑んでいる君も、泣いている君も、怒っている君も、僕の記憶の中に閉じ込めて連れて行くことに決めたのは、君の為じゃない。僕が君なしでは寂しいからなんだ。



 今日は君の新しい誕生日だ。

 僕が、いちばん最初のプレゼントを贈る人になろう。

 

 ……さよなら。

  真っさらな記憶を君に……。

 





『――メッセージの自動消去と共に、貴女の記憶もリセットされました。


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 はじめまして。

 新しい一日へ、ようこそ。

 素晴らしい毎日が貴女を待っています。

 

 まずは何から始めますか?』





 

 




《了》

 


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玉匣 石濱ウミ @ashika21

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