第2話 雪のように 

 最初から期限付きの片思いだった。

 2021年3月31日。鳴さんが札幌を去る日。

 ――その日までなら、あなたの気持ちに付き合ってあげる。

 ほぼ一年の密かな片思いの末に告白したらそう言われて、残酷だと思った。彼がいるからときっぱり振ってくれるほうがよほど楽だ。私に恋愛感情を持つことはないけれど、一緒にいてくれるなんて。

 でもそれでも、鳴さんの側にいることを私は選んだ。

 鳴さんの側にいても私の想いは届かず、ただ仲の良い後輩としてしか見られない。きっとどんどん辛くなる。そう予感めいて思ったけれど、それでも大好きな彼女を自分から断ち切ることなんてできなかった。


 仕事がバリバリできてリーダー気質の鳴さんが札幌のあれこれを不思議がるのが可愛くて、何でも教えてあげたいと思った。鳴さんの目を通して生まれ育った札幌と再び出会うような感覚が私も新鮮だった。北海道産の食べ物を何でも美味しいと喜ぶ鳴さん。さる言葉なんて名付けながらも北海道弁を理解しようとする鳴さん。仕事の仕方や対人関係のノウハウなど学ぶ点も多かったし、一緒にいれば楽しくて心が弾んだ。

 鳴さんが来道して2年目になった頃、こんなことを言っていた。

「本社から北海道赴任が決まった男性って、行く時は早く東京に戻れるように頑張るなんて悲愴な顔しているくせに、必ず北海道の女の子と結婚して連れ帰るのよ。どれだけ北海道の女の子が良いんだろうって疑問だったけれど、なんか良さがわかってきた」

「雪のような純粋さとか雪のように白い肌とかですかね?」

 鳴さんは真顔で首を振った。

「一見おっとりしているけれど割と気が強いし、めちゃくちゃ酒飲むし、垢抜けないところがあるんだけれど、包容力があってちょっとやそっとでは動じないし、ピンチの時にもなんとかなるしょって笑ってくれるし、結果、なんとかならなくてもあんまり気にしないし、一緒にいてなんかこう……すごく励まされるの」

「……褒められているんだかけなされているんだかわかりません」

「褒めてるの。やっぱり約半年に及ぶ雪の期間を毎年耐え忍んでいるから我慢強くなるし、気温が0度あれば暖かいって思えるあり得ないレベルの謙虚さを身につけるんだと思う。ようやく暖かくなっていよいよ外出できるようになったら今度はクマの出没。そしてまたすぐ吹雪。北海道の厳しい自然が女たちの魅力を育てているのね」

 夢中で語る鳴さんを見ながら、そんなに北海道の女の良さがわかったのなら私を連れ帰ってと言いたかった。


 でも、東京には鳴さんの彼がいる。付き合って2年目で鳴さんが札幌への異動が決まった時、帰ってきたら結婚しようと送り出してくれた理解ある彼。連休になったら札幌に来て、レンタカーで全道各地へ旅行に連れ出したり、鳴さんが東京に帰省したら互いの両親を交えて一緒に食事したりする、行動力も誠実さもある彼。

「文句のつけようがない、私にはもったいない彼なんです」

 異動してきたばかりの部のお花見で鳴さんが部長にこう話しているのを聞いた。

 本社から来た28歳のロングヘアの長身美人。洗練されたメイクで、良い匂いがして、ぱりっとしたタイトスカートやパンツスーツがよく似合う大人の女性。仕事が出来る女性にありがちな気負いもなく、にこにこと笑顔を振りまきつつ話しやすい雰囲気を作ってくれて、いつしかチームのみんなが彼女のペースに乗ってスムーズに動いていく。鳴さんはたちまち札幌支社の男性たちの注目を集めた。

 当然飲み会ともなればおじさんたちが彼女を側に置きたがったが、鳴さんは嫌味なく恋人のことを語り、あわよくばと期待した男たちの出鼻をくじいていった。お酒を勧められても最初の乾杯の一杯だけで、すぐにウーロン茶に切り替えるから隙もない。付き合いはいいけれど二次会までで終わらせ、終電までには必ず帰って翌日はまた朝からバリバリ仕事をする。二日酔いを勲章のように語っていた先輩たちに比べてずっとかっこよかった。やがて若手は男女関係なく鳴さんに憧れるようになった。

 私もその一人だった。

 だから少しでも他より抜け出したくて名前呼びしてもいいかと尋ねたり、美味しい店やビュースポットを調べて誘ったりした。一緒にいればいるほど本気で好きになった。

 そう。彼氏がいることは、私の気持ちに応えてくれないことは最初からわかっていた。それでも鳴さんに向かう気持ちは止められなかった。鳴さんの側にいられるなら、自分の気持ちを押し殺すことなんて我慢できた。どんなに苦しくても。

 だから私は鳴さんの家に行ったことがない。そこにはきっと彼の気配があるから。もし彼の写真があったら、泊まる時に使う男物の何かを見つけたら、はっきりと彼という人物の輪郭が見えてしまって感情が爆発してしまうかも知れないから。それを感じてか、鳴さんも一度も家においでと誘ったことはない。

 だから私は鳴さんを自宅に呼んだことがない。二人きりの空間にいたら、鳴さんに許された枠を超えて手を伸ばしてしまうかも知れないから。形のいい唇に無理に口づけて、それでも満足できずに押し倒して彼女を傷つけてしまうかも知れないから。それを感じてか、鳴さんも一度も紗雪の家に行きたいと言ったことはない。

 彼のことを考えないようにして、忘れるようにして、鳴さんといる時は何度も大好きと言い、彼女の姿を撮影した。鳴さん専用のアルバムフォルダにどんどん溜まっていく私の前だけの鳴さん。画像の上だけに残る優しさを私にくれて、リアルな体温や心からの言葉はくれない鳴さんだったけれど、一人寂しい夜や、鳴さんが彼と会っている連休中にはそのたくさんの画像が私を慰め、彼女がいつか私を好きになるかも知れないという夢を見せてくれた。


 地下鉄が自宅最寄りの菊水駅に停まった。ふらふらと下り、ホームにあるベンチに座った。

 鳴さんを円山公園駅に残して地下鉄が発車した時から溢れた涙が止まらない。

 わかっていた。最初から。鳴さんは最後まで私を選ばない。

 北海道神宮にお参りに行くたび、鳴さんと彼の破局を願っていた。

 鳴さんに教えようと神宮の由緒などを調べていた時に、第二鳥居をくぐって参拝すると離縁の効果があることを初めて知った。それは鳴さんには告げず、私はいつも桜が一番綺麗な表参道を歩きましょうと言って何も知らない鳴さんを第二鳥居へいざなった。

 ――どうか彼と別れて。私だけを見て。

 しかし、神様は私のこの汚い願いは3年かけても叶えてくれなかった。

あのタイミングでの彼から鳴さんへの着信は、私に現実を見させるのに充分だった。

 彼と話している鳴さんを待つのも、話が終わった後、どんな内容だったのかと聞くのを我慢することも、鳴さんがごまかすのを気づかないふりをすることも、もう耐えられないと思った。

 鳴さんから告げられた期限まであと4日。

 ただの後輩に戻って鳴さんを見送るために、もう終わらせよう。

 彼と話しだした鳴さんを置いて私は地下鉄に乗り、ホームで呆然と私を見つめる鳴さんに「ありがとうございました」と口パクで伝えた。

 ――でも本当は、「愛しています」と直接言いたかった。

 最初から最後まで片思いだったけれど、キスどころか手も繋いだことはないけれど、確かにこの気持ちは愛だった。

 夏の夕方のような香りがする長い髪も、射貫くような強い瞳も、私を見下ろす程の身長も、仕事が出来るのに時々ポカをするところも、よく食べるところも、あははっと大きな口で笑うところも、ひとつひとつ不思議に思うことを子どものように聞いてくれるところも、みんな大好きだった。


「そんなに私の写真撮って。私がいなくなった後に見たら、もう側にはいないんだ、会えないんだって辛くならない?」

 鳴さんは私のスマホのギャラリーを見てそう言った。

 ――鳴さん。

 鳴さんはずっと、私から離れる準備をしていたんですね。そして自分がいなくなった後の私のことまで心配してくれていたんですね。

 ――鳴さん。

 私は鳴さんを忘れることができますか。


 ベンチで涙をこぼしているうちに、地下鉄が到着しては人々が下り、やがて消えていった。いつまでもホームに佇むのは私だけ。再びチュンチュンという音と共に地下鉄が到着することをアナウンスが告げる。風を巻き起こしながら車体が滑り込んできて、開いたドアから吐き出された人々が私をちらりと見ながら歩いて行く。

 土曜の夕方に一人地下鉄ホームで泣いているアラサーの女。なんてみっともない。

 人の視線を感じる程には冷静になってきて、もういい加減に帰ろうと立ち上がった時だった。

「紗雪!」

 鳴さんが長い髪を揺らしながら私の前に立った。

 彼女の後ろで地下鉄のドアが閉まり、去って行く。

「鳴さん……どうして」

「そりゃこっちが言いたいよ……勝手に地下鉄乗っちゃってスマホも電源切れてるし」

 そう言う鳴さんの目が赤かった。泣いていた……? ホームに置いてけぼりにされて傷ついた? 申し訳なくてまた涙が出てくる。

「ごめんなさい……」

「ううん、私こそごめん。電話なんて出なきゃよかった」

「私が出てくださいって言いましたから」

 鳴さんは私の側に来ると私を再びベンチに座らせ、自分も隣に座った。

「ここの駅、初めて下りた」

「豊平川とスーパーと住宅くらいしかないですしね」

「あと、紗雪の家ね。私のこと最後まで呼んでくれなかったね」

「鳴さんこそ、私をおうちに呼ばなかったくせに」

「来たくないだろうと思って」

「行きたかったけど、彼氏さんのものとか見たくないから」

「だよね」

 言い合いみたいになっていくうちに私の涙も止まった。

「……どうしてここまで来たんですか。さすがに私ももう何も気づかなかったことにしてデートは続けられません。鳴さんは彼氏の元に帰ってください。私はあと4日間、ただの後輩に戻って鳴さんを送り出します」

「――黙っていたことがあるの」

 鳴さんが絞り出すように言い出した。膝の上に置かれた手がぎゅっと握られている。

「実はもう彼とは別れてる」

「えっ……いつ」

「一ヶ月くらい前かな。いよいよ東京に戻る日が近づいてきて、伸ばし伸ばしにしてきた結論から逃げられなくなって」

「結論……?」

「すごくいい人だし私のこと理解しようとしてくれる人だったけれど、私のほうが勝手に冷めちゃったんだ。付き合ってもう5年になるし、彼も、双方の両親も結婚するつもりでいたから納得してくれなくてね。さっきは私の引っ越しを手伝うって言ってきかなくて……でももちろん断ったし、もう連絡は止めてって言った」

 予想外の言葉に唖然としてしまう。

「知らなかった……です」

「うん。言わないで行くつもりだった」

「……なんで冷めちゃったんですか」

「いい人だからこうして札幌まで来て働くのを理解してくれたんだけれど、結婚する約束をした彼がいるのに女の私が一人で行くことを、相手の両親から遠回しに非常識だ、出産も遅れるって言われていたの。札幌に慣れて、こっちでの毎日が楽しくなるにつれて罪悪感はどんどん強くなっていったんだけど、私の人生なのに、自分の選択にどうしてそんな罪悪感を覚えないといけないのかってふと気づいたのが最初だった」

 鳴さんはため息をついた。

「まあ、私も勝手だよね。でも、別れてって言った時、札幌まで行かせてやったのに、俺だから許したのに、散々待たせたくせにって彼から言われて、ああやっぱりそういう考えだったのか、私は彼の許可の元で生きたくはないってはっきり思った。……それにね」

 はっと気づくと、鳴さんが私の手に自分の手を重ねていた。

 鳴さんから私に触れるなんて初めてだった。

 その手が冷たい。

「紗雪のこと、だんだんと好きになっていったから。雪のように、少しずつ私の中に紗雪が降り積もっていったの」


 息が止まりそうになる。

「その好きって……」

「本気の好き」

 鳴さんの声が掠れていた。

「は……早く言ってくださいよ」

 嬉しさと驚きと、黙って去ろうとしたことへの怒りとがごちゃごちゃになってまた涙が出てきた。

「泣かないで、紗雪」

 鳴さんが長い指で私の涙を拭う。いちいちかっこよくて優しい。それがむかつく。

「なんで言ってくれなかったんですか。私がどんな思いで鳴さんへの気持ちを諦めようとしたか、わかりませんか」

「わかるけれど、うまくいくと思えなくて。遠距離で、同じ会社で、女同士で。私と彼だって離れているうちにだめになったし……紗雪とは仲良しの先輩後輩のままでいたかったの」

「仲良しって……お菓子送りますって言ってもいらないって言ったくせに」

「怒らないで。私のこと忘れて欲しかったの。一人になって紗雪が泣かないように」

「忘れてとか仲良しの先輩後輩でいたいとか、よくわかりません」


 私はこらえきれず、鳴さんの手を振りほどいて両手で顔を覆って泣いた。初めて聞かされる事実や鳴さんの気持ちと、自分の気持ちの処理が追いつかない。

「今までずっと我慢させてきてごめんね」

 鳴さんは隣から腕を伸ばし、私を抱き締めた。

 驚きながらも、長い両腕に私はすっぽり収まった。鳴さんの夏の夕方のような、懐かしく少し寂しい匂いに包まれる。

「鳴さんが好きです――大好きです」

 しゃくり上げながら言うと、なだめるように鳴さんは私の背中をさすった。

「さっき、紗雪が地下鉄乗っちゃって、スマホも通じなくて。こんなに簡単に断ち切られちゃうんだと思った。もしスマホが通じたとしても、お互いの気持ちがなければ連絡を取り合うこともできない。勝手なこと言うけれど、私のことを忘れて欲しいと思っていたのに、紗雪が消えたのが本当に悲しくて、こうやって終わるのは絶対嫌だと思った。大通駅でも下りて探したんだよ」

 抱き締められ、コート越しに鳴さんの心臓がドッドッドッと鳴っているのが直に伝わってくる。

「大通のホームにいなくて、もしかして地上に出ているのかもと思ったけれど、もう帰ろうとしたのかもと思って、とりあえず菊水に行こうとまた地下鉄に乗ったの。ホームにいてくれてよかった。紗雪が駅を出ていたらどこに住んでいるか知らないし、スマホも通じないから追いかけられなかった」

「……私のことわかるんですね」

「私だって紗雪のことずっと好きだったんだから」

 鳴さんもまたずっと口をつぐんできたのだと気づいた。私のことを想って。

「――頑張ってみましょうよ、鳴さん。遠距離でも女同士でも同じ会社でも。3年間鳴さんに片思いした私のことを信じてください」

 私は身じろぎして鳴さんの顔を見た。

「大好きです、鳴さん」

 鳴さんの瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

「うん。私も紗雪が好き……」

 彼女がこんなに泣くのを初めて見た。

 だからとにかく、愛おしい人のその涙を止めたくて。

 彼女の涙を拭うと、「私の家に来ますか?」と囁いた。

 だがしかし、鳴さんはきっぱりと首を振った。

「紗雪が言ってたテレビ塔のレストランに行きたい」

「えっ? あの、繰り返しますけど結構普通の洋食レストランですよ?」

 鳴さんは口をとがらせた。

「大通公園の夜景見ながら二人で食事したい。……その後、紗雪の家に行く」

「もう、本当に鳴さんそういうところ――」

 つい笑うと、鳴さんもまだ涙が残る目を細めて笑った。


 これからも私は鳴さんに振り回されるだろう。

 ずっと恋い焦がれてきた鳴さんを、きっともっと好きになっていくのだから。

 でもそれは――何よりも幸せな予感だった。

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降り積もる おおきたつぐみ @okitatsugumi

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