降り積もる
おおきたつぐみ
第1話 期限付きの恋
最初から期限は決まっていた。
2021年3月31日。私が札幌を去る日。
――その日までなら、あなたの気持ちに付き合ってあげる。
そう言ったら、
予定通り、私は辞令を受け取った。
「2021年4月1日より、本社経営企画部勤務を命ずる」
3月半ばの朝、部長からそう告げられ、朝礼で異動の挨拶をした時もあまり実感は湧かなかった。ああ、これで本当に紗雪との関係も終わるんだな、とだけ思った。
ただ、紗雪の顔を見ることはできなかった。
紗雪が最後に選んだデートの場所は、円山動物園だった。
「動物園……?」
「だめですか?」
一昨日、電話で予定を聞いた時のその提案は正直全く予想していなかった。
子どもじゃあるまいし動物に興味があるわけでもない。それに、3月末の札幌はまだ冬みたいなものだ。太陽はだんだんと暖かさを増しているけれど風は冷たく、道路には溶けかかっては夜になるたび凍り付いた、黒く汚れた雪の残骸があちらこちらにある。冬中まかれた滑り止め用の細かい砂利がアスファルトに散らばって埃っぽいし、歩くとすぐ靴の中に入って痛いから長く出歩きたくもない。札幌勤務3年の締めくくりなのだから、北海道の幸をふんだんに使ったレストランに行ったり、美しい夜景を楽しんだりしたかった。
でも、紗雪のしょんぼりとした声に私は弱かったし、これで最後だと思うと断れなかった。
「まあいいよ、行ったことないし。じゃあ、どこで待ち合わせる?」
そう言うと、紗雪は喜んだ。
「ありがとうございます! 円山公園駅にしましょう」
そして今日、3月27日。東西線の沿線に東西に別れて住む私たちにとって中間地点といえる円山公園駅の改札を抜けると、先に到着していた紗雪が笑顔で手を振った。髪は緩くアップにして白いふわっとしたブラウスにカーディガン、足首までの水色のパンツを合わせ、薄手のカーキ色のトレンチコートを羽織っている。
「
3歳下の紗雪は、会社であろうとなかろうと会った時は常にこう言う。
「おはよう。トレンチで寒くないの?」
「もう春ですから」
紗雪は私より10センチは身長が低い。私を見上げる目がマルチーズのように愛らしいが、北国育ちの上、名前が示すとおり冬生まれなので寒さには強い。
私は結局3年住んでも札幌の厳しい寒さに慣れることはなく、さすがにダウンコートは脱いだもののウールのロングコートにカシミヤのマフラーを合わせている。
「引っ越しの準備はどうですか?」
「まあ、1月頃から進めてはいたからだいぶ片付いたよ。明日大物を送り出せば後は細々と暮らすだけ」
「さすが鳴さん」
――だってそうでもしないと、異動前の最後の週末に紗雪と出かけられないでしょ。
そう思ったけれど、口には出さない。
動物たちの絵がデザインされた地下通路を通り、バスターミナルからバスに乗った。窓から見える景色はまだ灰色だ。
「今年の桜は見られないで終わるんだな」
「東京はもう散っちゃいましたか?」
「あ……まだ残ってるかな」
紗雪に言われて、私にとっての桜の時期がすっかり4月末になったことに気づく。
バスは円山公園へ続く道を左に折れ、動物園へ向かって坂道を登っていく。右に曲がったら北海道神宮の方面だ。
「帰りに神宮に寄らない?」
「いいですね!」
もともと円山は札幌に赴任して以来、折に触れて行った思い出深い場所でもあった。
最初は札幌営業部に着任してすぐ、4月上旬の歓迎会を兼ねたお花見。とはいってもその時はまだ雪が残っていて桜はおろかチューリップも咲いていないので、どこがお花見なのやらと思った覚えがある。会社から出発したチャーターバスは円山を登り、札幌の街を見渡せる焼き肉屋に到着した。
しかし用意されていたのはラム肉。そう、北海道名物ジンギスカンだ。食べ慣れていない私には苦手な味だったし、もうもうと立ちのぼる煙で服も髪も顔も羊臭くなって辟易した。この時、実は紗雪も別の部署から異動してきて私と同じく歓迎される側だったので、お互い入れ替わり立ち替わり誰かに話しかけられたり、挨拶代わりにお酌して回っていたりしていたので話をすることはなかった。
次はゴールデンウィークに若手グループに誘われた円山公園での桜の下のお花見。札幌では一番のお花見スポットらしい。紗雪も参加していて、しかも隣に座っていたので初めてまともに話した。
桜は確かに咲いていたけれどピンクがかったエゾヤマザクラで、大きめの花と一緒に葉も出ていた。ぼんぼりのように白くたわわに花をつけるソメイヨシノに比べて花数も少なく、東京が懐かしくて寂しくなった。そして若者たちがいそいそと火の用意をし、網にジンギスカンを並べた時には心底がっかりした。
「ねえ、なんでお花見には毎回ジンギスカンなの?」
隣の紗雪にこっそり聞くと、彼女はきょとんとした。
「……逆に、ジンギスカンじゃなければ何を食べるんですか?」
紗雪は生まれも育ちも札幌の生粋の道産子だった。
「え? 何ってそうね、お花見弁当とか、おいなりさんとかサンドイッチとか」
「へえ~、小さい頃からお花見といったらジンギスカンなんで疑問に思ったこともなかったです。こっちじゃまだ寒いから暖を取るって意味もあるかもですね――あ、危ない!」
突然大きな黒い影が目の前を横切り、バササッという羽音に私は目を閉じて悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか? カラスですよ」
目を開けると、隣の紗雪の腕が私とジンギスカンが載った紙皿を守るように伸ばされていた。
すぐ近くにあった紗雪の顔はマルチーズのように小さく可愛らしく、でも腕は予想以上に長くて、少しドキッとしたことを覚えている。
「あ、ありがとう」
若人たちがわーわー叫びながら両手を振り、カラスを追っ払った。
「円山は土地柄はハイソなのに、カラスは凶暴なんですよ。焼いている網から直接肉を取っていくんですから。全くもう」
人間たちの反撃など痛くもかゆくもない顔でカラスは近くの桜の木の枝にとまり、私たちを見下ろしながら次の獲物を探しているようだった。
「私、慣れてなくてぼーっとしているからまんまと狙われたのね」
「東京ではこんなことないんですか?」
「あんまりないかな……」
ジンギスカンを食べる気もすっかり失せて、私は紗雪と反対側にいた男子に紙皿ごと押しつけるとペットボトルのお茶を飲んだのだった。
その時の話をすると、紗雪は手を叩いて笑った。
「覚えています。鳴さん、カラスに襲われてめっちゃ暗い顔してましたよね。えらいところに来ちゃった……って感じの」
「札幌って子どもの頃から何回か旅行に来ていたのに、知らなかった真の姿を知ってしまってね。考えてみたら毎回夏のトップシーズンだったから、蟹とウニとラベンダーの印象ばかりだったもの」
「ラベンダーは富良野ですけどね」
「確かに……。だから札幌のことわかってるつもりで何にもわかってなかったんだなあ。4月なのにまだ暖房をつけるとか、なんならまだ雪が降る時もあって雪靴が必要とか知らなかったし、薄い布団しか持っていかなかったから夜も寒くてすぐ風邪引いたし……」
「異動してきた人が漏れなく言うやつですね。札幌辛い~って」
「そう。冬も永遠に続くのかというほど長いし。でも、今は……」
――札幌から離れたくない。
だけど、それを言っても仕方がない。最初から3年で東京に戻ることは決まっていたし、私もそれを了解して来たのだから。
言葉を飲み込んだ私を、紗雪は寂しそうな目で見つめた。
「札幌を少しは好きになってくれましたか?」
「うん、もちろん」
大好きになったよ。札幌の色鮮やかな四季も、――そこに住む人も。
でもやはりそれも口にはしなかった。
バスが動物園前に到着し、私たちはたくさんの親子連れやカップルと一緒に降りた。
幸い天気は良く、いつも通り風は強いけれど太陽の光が暖かい。
なぜ札幌は風がこんなにも強いのかと以前紗雪に聞いたら、「日本海の風が石狩平野を吹き抜けるから」ということだった。せっかく巻いてきた私の長い髪はすぐにもつれていく。
二人分の入場料金を支払い、動物たちを順に見ていく。動物園特有の臭いが懐かしい。
「でもなんで動物園なの?」
隣を嬉しそうに歩く紗雪に尋ねる。
「円山動物園は子どもの頃、家族や学校の遠足で来た楽しい思い出の場所だから、思い浮かべるだけでウキウキするんです。大人になってからすっかり足が遠のいていたけれど、鳴さんと最後のデートでも湿っぽくならずに過ごせるのってどこかなと考えた時、ここがいいかなと思って」
えへへと笑って紗雪は付け足した。
「確かに鳴さんのイメージじゃないですよね。いいよって言ってくれて嬉しかったです」
「まあ、……可愛い後輩のお願いですから」
「じゃあ鳴さんの写真もいっぱい撮っちゃお~っと」
言うが早いか紗雪はスマホを取り出し、カシャカシャと私を撮影しだした。
「ちょっとやめてよ、動物園に来た三十路の女なんて誰得なのよ」
「私得です! 大好きな鳴さんを永久保存版にします」
「はいはい……」
ため息をつきながらも、悪い気はしない。
紗雪はいつもこんな調子でまっすぐに私への好意を表現してくれた。
最初から、ぶれることなく。
「鳴さんが好きです」
――紗雪が私を名前で呼ぶようになったのはいつ頃からだっただろう。
そうだ、ゴールデンウィークのお花見後、「成田さんって名前が鳴っていうんですね。素敵ですね、由来は何ですか?」と話しかけてきたんだっけ。給湯コーナーでお弁当をレンジで温める順番待ちの時のことだ。
「私夏生まれで、実は雷が由来なの。父の実家が農家なんだけれど、雷って神が鳴ると言われて稲がよく実るために必要なものと神聖視されていたんだって。だから父は雷って書いて〈らい〉ってつけようとしたらしいけど、母が女の子なのに勇ましすぎるって反対して雷鳴の鳴になったの。それでも立派に勇ましく育ったんだけどね」
「素敵。鳴さんは勇ましいだけじゃなくて綺麗だし仕事も出来ますもん」
年下の可愛い子からそう言われて、ちょっと得意になった。
「ありがとう。菅原さんはなんて名前だっけ?」
「紗雪です。私、2月6日生まれなんですけれど、一番寒くてさらさらした雪が降る頃だから、だそうです。あの、鳴さんって呼んでもいいですか?」
するとたまたまそこにやってきた2年目の横田真美が「私も鳴さんって呼びたいです」と言い出した。
「真美ちゃんはまだ新人だからだめ。今私、かなり勇気出して言ってるんだから」
「えー、私もう2年目ですよお。菅原さんばっかりずるいです」
「はいはい、なんと呼んでくれてもいいから。鳴さんでも成田さんでもなりちゃんでも……」
「じゃあ俺はなりちゃんにしようかな」
課長が割って入ってきてその場はなんとなく流れていき、そのうち上の人たちからはなりちゃん、下の子たちからはなりさんが定着したが、紗雪だけは「鳴さん」と呼んだ。
「鳴さんが好きです」
――そう言われた時、私たちは別に酒に酔っているわけではなかった。いや、送別会の後だったから、飲んではいたけれど。でも、私は酔う感覚が好きじゃないからアルコールが回り始めたらソフトドリンクに切り替えるし、紗雪は可憐な外見に似合わずザルで、どんなに飲んでも顔色ひとつ変えたことがない。
だから紗雪の告白も、私が根負けのようにその想いを受け入れたのも、酔ったせいだという言い訳はできなかった。
私が札幌に来て約1年後の3月、部の送別会で終電近くまでススキノで飲んで、大通に向かって歩いている時だった。
一緒に店を出てきた人たちは次の店に向かったり、路面電車や地下鉄南北線や東豊線に乗ったりタクシーで帰ったりした。私と紗雪が使う東西線はススキノに直結していないため、二人で歩いて大通駅に向かった。
寒かったけれど冬の底冷えはもう遠ざかっていた。送別会でしんみりしたのと、少し残ったアルコールを夜風で醒ましたくて、ススキノと大通を結ぶ地下街ではなく地上を歩くと言うと紗雪も同意した。
「鳴さんが好きです」
何の話から告白になったのか覚えていない。
ただ、どうしようどうしようとだけ考えていた。
紗雪の好意には気づいていたけれど、先輩への親愛、人懐こさだと考えていたから。
「鳴さんが好きです」
「……聞こえてる」
「でも本気にしてないでしょう? 私は恋愛対象として鳴さんが好きなんです」
「菅原さんってもともとそう……なの? その――女性を好きになる人なの?」
「女性を好きになったことはあります。でもそれって重要なことですか? 私は過去に関係なく、今、鳴さんが好きなんです」
「そうだね、ごめん。だけど、私に彼がいるのは知ってるよね?」
東京に、付き合って3年になる彼がいる。
札幌に異動の話が出たと言ったら、じゃあ帰ってきたら結婚しよう、頑張っておいでと言ってくれた。優しくて、私が転勤までして働くことに理解もある出来た人だ。
そういう人がいることは私は早くから札幌営業部でも公言していた。30近い女が一人で北海道に異動したとなれば色々噂も立てられるし、変に気を遣われても嫌だから。
夏休み、正月休みを始めとした連休には私が東京に帰るか、彼が札幌に来て一緒に過ごした。それを紗雪も知っていた。
なのになんで、告白なんて。
紗雪の思い詰めたような目が怖いくらいだった。
「わかってます。でも、今日送別会に参加して、再来年には鳴さんを送り出すんだと思ったら、もう後2年しかないのだと堪らない気持ちになりました。このまま黙って鳴さんを見送るのは嫌だって」
「……」
「だからと言って、どうしたいとかじゃないんです。鳴さんが私を好きにならないのも、彼氏がいるのもわかっています。こんなことを言うだけでも迷惑ですよね、ごめんなさい。でもどうしても私が鳴さんを好きだと伝えたかったんです」
歩いているうちにいくつかある大通駅への入口へ下りていくタイミングを見失い、大通公園に入ったところで立ち止まった。冬の終わりの風が強く吹きつけ、ベンチも積雪対策で取り外されたままで、落ち着いて話す場所もなかった。
「……迷惑じゃないよ」
「本当ですか?」
紗雪が潤んだ目で見上げてきた。期待させてしまったかなと思ったけれど、そう言うしかなかった。知り合いもいない札幌でこの1年、何かと助けてくれたり札幌の色々な場所に連れて行ったりしてくれた、可愛い後輩の告白をむげにはできなかった。
「うん。でもごめんね、菅原さんは大切な後輩だけど、恋愛対象としては見られない」
「わかっています……」
そう言う紗雪の目から涙がこぼれた。いつも愛くるしい笑顔を振りまく彼女の泣き顔を初めて見て、動揺してしまう。
どうにかしてその涙を止めたくて。
気づいた時にはこう言っていた。
「それに、私は2年後には東京に戻って、たぶん彼と結婚する。でもその日までなら、あなたの気持ちに付き合ってあげる」
ぽろぽろと涙をこぼしていた紗雪が弾かれたように顔を上げた。
「本当ですか!? 付き合ってくれるんですか?」
私は慌てて言った。
「私はあくまでも恋愛感情は持たないけれど、菅原さんが私とどこかに一緒に行ったり食べたりしたい時は、付き合うよ。普通の先輩後輩よりは特別って感じかな」
恋愛ではない。懐かれている後輩と一緒に出歩くだけ。
それなら浮気じゃないよね。
そのうちきっと紗雪の熱も冷めていき、ただの先輩後輩の間柄になっていくことだろう。今はとにかく、泣いている彼女を落ち着かせたいだけだから。
脳裏に浮かぶ彼の顔に言い訳をするように私は思った。
「嬉しいです……!」
紗雪は手袋をした手で涙を拭った。
「鳴さんの特別にしてくれるんですね。ありがとうございます」
――結局、今までだって紗雪は札幌では一番仲が良かったのだから、何も変わらないのだけれど。
私の心を見透かしたように紗雪はこう言った。
「鳴さんは恋愛感情がなくても、私は鳴さんのこと好きでいていいんですよね?」
「う、うん、そうだね」
「特別なら、私のこと、紗雪って呼んで欲しいです。呼んでくれますか?」
ああ。なんだか、ペースを握られてしまっている。
「はいはい。さ……紗雪……」
するとようやくいつも通りのふんわりした笑顔が戻り、ほっとしていると彼女は言った。
「大好きです、鳴さん」
その笑顔にドキリとしてしまう。――恋愛ではないのに。
そうやって私たちの恋愛にならない関係は始まった。
2年間、紗雪は何度も何度も好きですと言ってくれたけれど、私からは一度も言っていない。
「鳴さーん! ゾウですよ!」
少し先を歩いていた紗雪がまだ新しいゾウ舎の前で手を振った。はいはい、と呟きつつ追いかけると、ゾウの姿は外にはなかった。寒いので屋内にいると案内が出ている。
「ここ、私も初めて入ります」
紗雪の目が子どものようにきらめいている。
ドアを開けて中に入ると、むわっとした熱気を感じた。案内板を見ると、ミャンマーからやってきたゾウたちが快適に過ごせるよう、常に22度~24度に保たれているという。大人のゾウが2頭と、母子の2頭。広々としたプールや遊具があり、4頭が思い思いに過ごしている様子をガラス越しに眺める。
「久しぶりに見ると、ゾウってやっぱりわあって気分上がるね」
そう言うと、スマホで動画や画像を撮影していた紗雪も頷いた。
「私が子どもの頃、ここには花子ってゾウがいたんですが、十数年前に死んじゃって。でもまた3年前にゾウ舎も全部新しく建て直してこの4頭を迎えたんです。一度見てみたいなと思っていたから、鳴さんと来られてよかった」
――私がいなくなった後、紗雪は今日のことをずっと思い出していくのだろうか。そしていつか、誰かと再び訪れた時にも私のことを思い出すのだろうか。それとも忘れているだろうか。
私は忘れないだろうと思った。札幌に再び来る機会はあったとしてもわざわざ円山動物園に来ることはないだろう。でも、何かでゾウを見たら、動物園のニュースを見たら、きっと今日を思い出すだろう。私をいつも好きだと言っていた紗雪と来たことを。
私もゾウを撮影し、続けてゾウに夢中になっている紗雪のことも撮った。
「あっ。鳴さん、不意打ちはやめてくださいよ」
「紗雪だって私のことしょっちゅう盗撮してるくせに」
「盗撮って……。鳴さんはどんな角度でも絵になるけれど、私は油断したらただの平面顔ですから。せっかく鳴さんのスマホに残るなら、ちゃんと撮影用の顔で映りたいんです」
「そんなことないけどね。それじゃあ、一緒に撮りましょ」
やったあ、と紗雪が歓声を上げて私に身体を寄せた。
彼女の髪からはいつも冷涼な雪の匂いがする。
なんとかゾウを入れ込みつつ、私たちは笑いながら一枚の画像に収まった。
その後もアフリカゾーン、アジアゾーン、熱帯雨林館と見て回るうちにお腹が空いてきた。
「動物園だからランチ期待していないかもですけれど、実は美味しいガレットが食べられるんですよ」
紗雪は得意そうに言ってペンギン舎裏手の第一レストハウスを指差した。動物園は円山の中腹にあるので、入り口から奥に向かって坂道を登って行くことになる。紗雪はスニーカーなので軽快に歩いて行くけれど、気合いを入れてパンプスを履いてきた自分が恨めしい。冬の間は滑り止めと寒さ対策でソレルのゴム底ブーツを履いていたので、かかとが高い靴は久しぶりで余計に足が疲れ、痛んだ。
「鳴さん頑張って~」
もたもたしている私に気づいた紗雪が笑いながら戻ってきて、私の手を取る。
私より小さくて温かな紗雪の手。
予想より強い力でぐんと引っ張られると、お花見でカラスから私を守ろうとした彼女を思い出す。マルチーズみたいに可愛いくせに、いざという時には頼れるのだ。
紗雪に引っ張られながらようやくレストハウスに入り、中で屋台のように出店しているガレットのお店でランチセットを注文した。フランス人の男性が二人で焼いてくれたできたてを食べると、薄い生地が香ばしくて美味しい。
「今はこんなにオシャレなものが動物園で食べられるのねえ。私が小さかった頃はおにぎりと焼きそばとかき氷くらいしか売ってなかったけれど」
食べている私を当然のように撮影した後、紗雪もガレットを口に運んだ。
「美味しい! 黄身に絡めるとどんどん食べらさっちゃいますね」
(出た――! さる言葉)
つい吹き出しそうになるのをなんとかこらえる。
北海道に来る前、道民はみんな訛っていて語尾には「だべ」などがつくのだろうと思っていた。しかし実際に住んでみると、そんないかにもな話し方の人はほとんどいなくて拍子抜けしたが、代わりにじわじわと気になったのが「さる言葉」と名付けた独特の言い回しだった。
「このペン、よく書かさりますね」
「あ、ここのボタン押ささってる」
ペンもボタンも勝手にその状態になることはなく、使い手の人間がしていることなのに、年長者から若い子まで普通に使うこの言い方が不思議だった。
ある時、真美が提出した報告書を見て紗雪が言った。
「真美ちゃん、ここ、部のコード書くところなのに支社コード書かさっているよ」
「あ、すみません! すぐ直してきます」
次に3年目の男子を呼ぶ。
「田中くん、ここ部のコード書くところでしょ。支社コード書いているんだけど」
「あ……本当だ」
「前も同じ間違いしていたよね? 気をつけてね」
はい、すみませんと頭を下げて田中が行くと、やれやれと紗雪はため息をついた。
「ねえ、なんで真美ちゃんには書かさるって言ったのに田中くんには書いてるって言ったの? そこにどんな意味の違いがあるの? そもそもなんたらさるって何なの? ペンがよく書かさるとか言うよね、なんでペンが受け身みたいな言い方なの?」
「いきなりですね。え、これって北海道弁だったんですか?」
「少なくとも私は聞いたことなかったわ」
「そうなんだ……意味の違いか……それは調べてなかったな……」
ぶつぶつ言いながら紗雪は額を指で押さえて考え込み、はっと目を開けた。
「あ、わかりました。“そうしようと思っていないのに勝手にそうなってしまった”という気持ちを込めています。だから真美ちゃんは間違えたくなかっただろうけれど、なんだか知らないけれど勝手にこうなっちゃっているよ、という、優しさを込めて指摘しているんです。逆に田中くんはいつも同じような間違いをするので、君は意志を持ってこう書いたんだろう、でも違うぞ! とはっきり彼の誤りを注意している感じですね」
「優しさ……? さるにそこまでの気持ちを込めていたの? じゃあペンが書かさるは? ペンは思うも何もないじゃない。ペンがよく書けるでいいじゃない」
「いや、違うんです……このペンは予想以上によく書ける! という驚きと喜びが込められています。ただのよく書ける、とは違うんです」
「はあ……深いね」
「さるに込められた意味を知りたいなんて初めて言われましたよ。鳴さんのそういうところ、好きです」
――私も紗雪が面倒がらずにひとつひとつ考えて答えてくれるところ、好きだよ。
一体どれくらいの言葉を飲み込んできたのだろう。
期待させないように、誰が見ても仲が良い先輩後輩の枠に収まるように。いつか紗雪も傷つくことなく自然とそれを受け入れるように。
笑いをこらえている私を見て、紗雪がはっとした。
「あっ、その顔。私またさる言葉言わさっちゃった」
「って、また言ってる」
「あーっ。私、鳴さんに指摘されるまで、標準語を話していると思っていたんだけどなあ」
「札幌の人ってよく自分は訛ってないって言うけど、イントネーションもだいぶ違うよ」
「そうなんですか……」
紗雪ががっかりした顔になる。
――でもその訛っているところも可愛いんだよ。
また私は心の中でだけ、呟いた。
ガレットを食べた後、ホッキョクグマやエゾシカ、オオカミを見て回り、動物園を後にした。
「あー、鳴さんをいっぱい撮れて大満足です。もう充電なくなりそう……」
スマホのギャラリーをスクロールしながら紗雪が呟いた。画面を覗き込むとその言葉通り、今日の色々な私が収められている。もう撮られることも慣れてしまったが、まとめて見るとちょっとドキリとする。
そこには笑ったり、動物に夢中になったり、食べたり飲んだり紗雪に向かって何か話している私がいた。どれも私が見たことがないような自然な顔だった。
私はこんなに無邪気な顔を紗雪に見せていたのか――。
そして紗雪が撮った私よりもかなり数は少ないだろうけれど、私のスマホにも今日の紗雪が残されている。
今、その画像を見る自信は私にはなかった。いや、今だけじゃない。きっと、ずっと。
「さ、次は神宮ですね。下り坂だしすぐですよ」
少し先を歩いていた紗雪が振り向いて私を待つ。
「後で……辛くならない?」
「はい?」
「そんなに私の写真撮って。私がいなくなった後に見たら、もう側にはいないんだ、会えないんだって辛くならない?」
不思議そうに私を見つめた紗雪は、やがて寂しげに微笑んだ。
「そうですね。鳴さんが札幌からいなくなってから見たら辛くなるかも知れません。けど、それでも私は私の特別な鳴さんを残しておきたいんです」
その瞳の中に、まだ私を本気で好きだという揺らめきを見る。
あの告白から2年経っても、私がどんなにかわそうとしても、紗雪の中で消えなかったものがあることを知る。
私を忘れて。どうか忘れて。一人になった時に泣かないように。
「……そっか。変なこと言ってごめん」
いいえ、と紗雪は囁いて私の隣を歩いた。
森の中にはまだところどころに雪が残っている。芽も出ていない木々の合間にポツンポツンと生えているエゾマツの緑が美しい。黄色い羽の小鳥が露出した地面を跳ねてエサを探している他は、誰もいない。
「ツグミですね」
私の視線に気づいた紗雪が小鳥を指差した。
「あれがツグミなんだ」
「はい。さえずらないので口をつぐんでいるというところからツグミって名付けられたんですよ」
――私も、ずっと口をつぐんでいる。きっと、紗雪もまた。
「……紗雪は何でも知ってるね」
「鳴さんが札幌で不思議に思うことは私が教えたいから……この3年で私も札幌の知識が増えました。長年住んでいても知らなかったり、当たり前すぎて見えなかったりすることってたくさんあるものですね」
私たちは再び歩きだした。紗雪の手がたまに私の身体をかすめる。私と手を繋ぎたいのかも知れない。けれど、私は両手をポケットに入れたまま歩いた。
やがて道は神宮境内に入った。
一昨年の桜の時期は私はジンギスカンお花見に参加せず、紗雪と二人で神宮にお参りに来た。鳥居から境内へと続く表参道はソメイヨシノとエゾヤマザクラの並木で、いつもの強い風に花びらが舞っていた。
「鳴さん、桜が髪に……」
紗雪が細い指で私の髪に絡みついた花びらをそっと取り、そのままポケットにしまったのを見ない振りをした。
その桜が忘れられなくて、昨年も同じように二人でお参りに来た。
今はまだ肌寒いけれど、あと一ヶ月もすれば再びこの道は桜が満開になる。降りしきる薄紅の花びらを思い、ついこの間まで長く降り続けた白い雪を思う。雪の日、空を見上げれば自分がどこまでも浮かんでいくようだった。初夏に紗雪と北海道大学を歩いた時はポプラの綿毛がふわふわと飛んでいたし、秋に大通公園を散歩した時は、黄金の紅や黄に染まった葉がもの悲しく舞い散る中、道を埋めるほどに落ちた大きなどんぐりを二人で拾った。
札幌は四季を通して何かがいつも美しく降り積もる街だった。
手水舎で清めた後、神門をくぐる。厳かな空気の中、どっしりと構えた拝殿に進み、私たちは並んでお賽銭を投げて参拝した。
「何をお願いしました?」
毎回紗雪はこう聞く。
「もうね、三十路になったら健康でいられますようにってだけだよ。紗雪は?」
毎回私はこう答える。
「また鳴さんと来られますようにって」
これもいつもの紗雪の答えだった。
「今まで3回一緒に来られたから御利益がありますね。でもこれが本当に最後かな。さ、茶屋へ行きましょう」
紗雪が再び先を歩く。
神門から出て左手に少し行くと茶屋風の店舗がある。北海道の有名な製菓メーカー六葉亭が経営しており、以前はお参りした人は一人ひとつずつ、粒あん入りのそば粉のお餅を無料でいただけたそうで、紗雪にとってお参りと茶屋はセットになっている。今はそのお餅は有料だけれどこの茶屋限定品であり、ホットプレートで温めてくれるからいつも選ぶ。
食べやすいように紙に包まれたお餅を受け取って店の軒先に置かれた椅子に並んで座って頬張った。
「六葉亭のお菓子がいつでも買えるのも札幌のいいところのひとつだよねえ」
お餅は温かくて香ばしく、サービスのほうじ茶も冷えた身体に染みわたった。
「たまに送りましょうか」
「いいのよ、本当に食べたくなったらオンラインショップでオーダーするから」
「……水くさいなあ」
少し気まずくなった空気を変えようと腕時計を見ると、3時を過ぎたところだった。
「もうこんな時間か。この後は大通に行ってもいい? 実家へのお土産を買いたいんだ」
「もちろんです。夕ご飯はどうしましょうか」
「大通なら狸小路のいつものまぐろのお店かなと思ったけれど」
「穴場でテレビ塔のレストランはどうですか? 大通公園の夜景が見えるし」
言いながら紗雪はスマホでそのレストランの写真を見せてくれた。
「わあ、いいね! 札幌のいい思い出になる」
「まあ普通の洋食レストランではあるんですけれど……あー、もう充電あと2%しかない。古いからバッテリーが保たないんですよね」
紗雪は諦めてスマホをバッグにしまった。
「連絡とか大丈夫?」
「鳴さんと一緒だから他の人と連絡取れないのは構わないけれど、夜景と鳴さんを撮影できないのが悲しすぎる」
しょんぼりした紗雪に私は弱い。
「私のスマホ貸してあげるから。画像送ればいいでしょ」
「やった~。それじゃ、行きましょ」
茶屋を出た私たちは表参道を通り、地下鉄円山公園駅へと向かった。
「東京に帰ったら、……すぐ結婚ですか?」
紗雪がぽつりと聞いた。
彼女から私と彼のことを聞いてくるのは珍しかった。
「……すぐってわけじゃないと思うけれど。全然具体的でもないし。いずれは、かな」
「そうですか……。その時は知らせてくださいね。後輩としてお祝いくらい贈りたいから」
紗雪の表情が見えない。私もただ前を向いた。
「うん、ありがとう」
――私のことなんて、どうか忘れて。
円山公園駅のホームで地下鉄を待っている時だった。
スマホが震え、見てみると彼――浩平からの着信だった。
(なんで今……)
気づかなかったことにしてやり過ごそうと思った時には、紗雪がはっとしていた。
「彼氏さんですよね、出ないと」
「うん。でもいいの」
やがて着信が止まってほっとしたのもつかの間、すぐにまたスマホの画面には浩平の名前と通話マークが浮かび上がった。こんなことは初めてだった。
「……大事な話があるんじゃないですか? 出てください」
「でも……」
「きっと話さないといつまでも終わらないですよ」
「わかった、ごめん、ちょっと待ってて」
地下鉄を待つ人の群れから少し離れたところに行くと、私はスマホを耳に当てた。
「どうしたの?」
ホームのざわめき、地下鉄が近づいてくる時のチュンチュンという独特の音、ごおっという風、そしていつもとは全く違う悲しい表情で私を見ている紗雪。
浩平の声がよく聞き取れない。
何度か聞き返しながら焦って会話を切り上げようとしていると、なんと紗雪は到着した地下鉄に乗りこんでしまった。
(待って、紗雪待って)
乗客たちに紛れ、背が低い紗雪の姿はたちまち見えなくなる。
「ごめん、ちょっと今もう話せない」
強引に通話を切って私も地下鉄に乗ろうと追いかけた時、乗客の隙間にいる紗雪がガラス窓を通して見えた。
私と視線を合わせた紗雪が微笑んでぺこりと頭を下げたのを見て、足が止まってしまう。
私の目を見つめたまま、紗雪は口を動かし始めた。
「あ」
「り」
「が」
「と」
「う」
「ご」
「ざ」
「い」
「ま」
「し」
「た」
「紗雪……」
プシューという音と共にドアが閉まり、地下鉄が動きだす。
紗雪はもう一度頭を下げ、走り去る地下鉄と共に視界から消えた。
「待って……」
浩平からは尚も着信があったが着信拒否し、紗雪に大通駅で待つようメッセージを送ったが、何度送っても既読にならない。
思いあまって電話をかけてみると、〈おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません〉というアナウンスが流れるばかりだった。
地下鉄構内でも電波は届く。私と連絡を取りたくなくて電源を切ったのだろうかと思い、先ほど充電がなくなったと紗雪が言っていたことを思い出した。
どうしようと思っているうちに再びチュンチュンという音と共に地下鉄が近づいてきた。
「このチュンチュンって音は何?」
紗雪と仲良くなって初めて一緒に出かけた時、帰りの大通駅ホームで疑問に思っていたことを聞いた。
「来ましたね。これは札幌トリビアなんですけれど、通常の地下鉄は鉄の車輪なんですが、札幌の地下鉄は日本で唯一のゴムタイヤなんです。通常の地下鉄なら、車体に通った電気を鉄の車輪からレールに逃がすんですが、ゴムタイヤだと電気が流れないので別に流すための金属をつけていて、それがレールとこすり合ってチュンチュンと鳴るみたいですよ」
蕩々と述べた紗雪をぽかんとして見ると、彼女は得意そうに胸を張った。
「お花見にジンギスカンはなんでって聞かれてから、鳴さんが不思議に思いそうなことは先に調べているんです。ネットでよく札幌七不思議なんてまとめがあるから」
そうやって紗雪は私が札幌を知り、慣れていくのを助けてくれた。
もしかして六葉亭の茶屋で話したとおりに、大通駅で私を待っているのではないか。淡い期待と共に大通駅で下りたけれど、ホームのどこにも紗雪の姿はなかった。
「紗雪……」
涙が溢れた。
――きっとずっと紗雪は我慢していたのだ。私を好きでいながら、私が最初に伝えたとおり浩平と付き合っていることを一切責めず、なじらず、冗談のように言う「鳴さん大好き」に私への思いを全て乗せて、私との約束の期限が切れる日までただただ想ってくれた。守ってくれた。支えてくれた。
「紗雪ごめんね……」
大通駅の人混みの中、私はしゃがみ込んで泣いた。
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