夏の桜が君には似合う

飯田太朗

夏の桜が君には似合う

「うっそ。やば。大胆過ぎない?」

 白い薄手のスポーツパーカーを脱いだ、夏美の水着に驚く。

 クロスのビキニ。それも黒と白。何だかどこかのキャンペーンガールみたいな格好だ。でも艶やかな黒髪とマッチしてモノトーン調なのがかわいい。アシメショートの長い方をふわっと振り上げればイケてるお姉さんの出来上がりだ。


「こなつは防御力高過ぎ」

 夏美がきゅっとくびれた腰に手を当てる。私の水着は、ワンピース型で、体がすっぽり隠れるやつ。ついでに頭に麦わら帽子。


「うっさいし」

 私がむくれると夏美がにやっと笑って目前の海を見た。湘南海岸。江の島の海だ。

「で、問題の彼氏くんは?」

「まだ彼氏じゃないし」

「まだ、ね」

 夏美が再びにやっと笑う。


「いっそ水着で逆ナンすれば?」

「どうしてそういう破廉恥なこと言うのか理解できない」

「男子は水着喜ぶよー。競泳水着ですらバナナ見つけたチンパンジーみたいな顔するし」


 と、両手を腰に当て、ぐいぐいと体を捻った夏美が空を仰ぐ。

「暑いねぇ。太陽はいつも元気」

「本当にね」

 私も手で庇を作って空を見上げる。


 私と夏美が江の島の海水浴場に来た理由は簡単。さっきも夏美が言った通り、男の子が目当てだ。


 と、言ってもナンパされるのが目的だったり出会いが目的だったりするわけではない。たった一人の男の子。佐川将生くんに会いに来たのだ。


 彼が部活の帰りや休日に、この湘南の海に来ていることを知ったのは本当に偶然。クラスの男子たちが話していた。


「いいなぁ、俺も将生みたいに海に水着のお姉ちゃんでも見に行こうかな」

「バーカ。そんなんじゃねぇって」

「じゃあ何で毎日毎日休みの日まで、江の島に行くんだよ」

 すると佐川くんは鬱陶しそうに答える。

「いいだろ別に。海が好きなんだよ」


 がっしりしていて、ハンドボール部の練習で真っ黒に日焼けした佐川くんには、海がとてもよく似合った。彼がぴっちりした水着で海辺に立っているところを想像すると何だかドキドキした。


 佐川くんとは一応、仲は良かった。


 クラスでしゃべったことはほとんどない。でもテスト期間。お互い部活の練習がなくなると……私はサッカー部でマネージャーをしていた……同じクラスで同じ方向ということもあり、一緒に帰った。テスト勉強の進捗や、苦手な教科得意な教科、趣味や好きな音楽……たまたま二人とも、ネクライトーキーの『めっちゃかわいいうた』が好きだった。事変でもOSCAが好き……について話した。


 佐川くんは文学史が苦手だった。文学史に限らず歴史など暗記物が苦手らしい。私は逆で、暗記物は得意だったが数学や物理みたいな科目が苦手だった。だからお互い、帰りの電車の中で勉強を教え合うこともあった。


 いつだったか、佐川くんに俳句を教えたことがあった。定期テストの前ではなかったけれど、ゴールデンウィーク直後、たまたまグラウンドを使う部活が休みだった時に一緒に帰った。翌週に文学史の小テストがあって、彼は頭を抱えていた。苦手科目だったからだ。


「砂も亦美しきかな桜貝……誰が詠んだ句でしょうか?」

「うーん……与謝野晶子?」

「残念。高浜虚子でした」


 ふうん。佐川くんが頷く。

「いい句だね」


 佐川くんとは同じグラウンドで部活動をしていることもあり、練習前や練習途中に、水道近くで顔を合わせることもあった。彼が部活を終えて帰っていくところをボーっと見ていたこともある。私がマネージャーをしているサッカー部は最終下校時刻ギリギリまで練習することが多いので、ハンドボール部とは同じ時間に帰れない。だから私は、普段は彼の背中を見ているしかない。そんな、佐川くんが。


 毎日毎日、部活帰りに。

 しかも、休みの日まで。


 江の島の海岸に、水着の女の子を見に出かけている。

 そんなことは考えたくもなかった。佐川くんはそういうことしない。女の子をいやらしい目で見ない。必死に自分に言い聞かせる。でも事実として、彼は江の島に行っている。そのことは確認もできた。


「海、行ってるの?」

 先日の電車。佐川くんは照れくさそうに笑った。

「行ってるよ」

「いつから?」

「……五月くらい?」

 文学史の小テストがあった頃。

「……何しに?」

 これを訊くためにどれほど勇気を振り絞ったか。

 しかし佐川くんは言い淀んだ。

「うーん、ちょっと」


 言葉に困った、ということは。

 もしかしたら、そういうことなのかもしれない。


 悲しくなって、唇を噛む。すると私の異変を察してくれたのか、佐川くんが慌てたような声を出す。


「こ、今度さ」

 声が震えている。私だって、震えそうなのに。


「よかったら遊ぼうよ。もちろん千桜さんの地元で。俺の地元、何もないから」

 佐川くんは秦野市の出身。渋沢が最寄り駅らしい。その気になれば藤沢からJRでも帰れるそうだが小田急が安いから私と同じルートで帰っているらしい。相模大野が最寄り駅の私よりずっと西……正確には西南……に住んでいる。そりゃ、相模大野にはそれなりにデートスポットはあるけど……でも、何だか悪い。それに、それに。


「海で何してるのか教えてくれたら遊ぶ」

 口をついて意地悪な言葉が出る。言ってから、後悔する。せっかく佐川くんと過ごせるチャンスだったのに。

「それは……」

 やっぱり言い淀む。


「言えない?」

 ダメだ、私。

 こんな意地悪言うような奴と佐川くんが遊んでくれるわけがない。


 結局、その日は気まずいままお別れになった。奇しくもテスト期間最終日。数学のテストが難しくてその話を佐川くんとしたかったのに、海の話になって、遊ぶ話になって、私が意地悪して。最悪の終わり方だ。


 落ち込んだ帰り道、スマホが小さく震えた。もしかして……と思ったけど、幼馴染の夏美からだった。


「土曜暇?」

 四文字。まぁ、夏美と私はこんな関係だ。

 暇じゃないし……と、答えようとした時だった。


 佐川くんは休日も海に行っている。

 ハンドボール部は土曜日は半日練習らしい。午前だけだったり午後だけだったり。交互にやっているらしいことは見て分かっていた。


 必死で頭を働かせる。

 この間、テスト期間前最後の土曜日のハンドボール部の練習は……午前練だった。ということは今週の土曜日の練習はおそらく午後練だ。部活前に佐川くんが江の島に行く可能性は十分ある。そこで、もし、佐川くんが海に行く理由を突き止められたら。


「暇。海いこ」

 五文字。夏美の返信はすぐに来た。

「水着ない」

「買って」

「あんたあんの?」

「ある」

 嘘をついた。でも金曜日の帰りに相模大野のステーションスクエアで買うことは可能だ。つまりあるのだ。未来に、だけど。


 よくよく考えてみれば夏美の最寄り駅も私と同じく相模大野なわけだし、学校帰りにでも買えばいい。無理な注文じゃない。だから、促す。


「水着買いなよ。海いこ」

 しばしの間の後、夏美が返してくる。

「何とかする」

 よし。そういうところが大好きだぞ、夏美。


 と、いうわけで。

 土曜日に海に行くことになった。その結果が冒頭、というわけ。夏美がセクシーすぎる水着を着てきた。私はと言えば、ガーリーと言えば聞こえはいいが夏美に比べればお子様な、タンクトップもどきのワンピース風。いいんだ。胸やお腹が隠れるから。


 水に足をつけながら歩く。サンダルがぺたぺた言う。波の音。はしゃぐ声。不意に声をかけられる。


「かわいいね」

 金髪メッシュのチャラそうな男。サングラス。筋肉質だけど不自然というか、妙に胸筋だけある。首から下げてる十字架のネックレスが絶妙にダサい。

「遊ばない? 奢るよ」


 すると夏美が沖を指す。

「溺れて死ね田舎もん」

 それから私の手を取ってすたすたと歩いていく。しかしチャラ男は諦めない。


「バーベキューやっててさ。よかったら遊ぼうよ」

「早く死ね」

 突っ返す夏美。

「分かった、マジなこと言うよ」

 男が私たちの前に立ちふさがる。

「ラブホ行こうぜ。二人ともかわいがってやるよ」


「ラブホってあそこの?」

 と、夏美が男の背後に目線を投げると、チャラ男は振り向いて「ああ、そうそう……」と言いかけた。けど言い終わる前に夏美が男の股間を蹴りつけた。そもそもラブホなんて私たちの前方にはないので、完全なフェイントだったわけだが。


 チャラ男が哀れなカエルみたいな声を上げる。

「ご褒美やったろ。消えろ」

 蹲って悶絶するチャラ男にそう吐き捨てる夏美。私は拍手を送りそうになる。


 二人してその場を立ち去る。しばらく歩いたところで、夏美がにっと笑って振り返る。


「私彼氏いるからさ」

「何それ初耳!」

「そりゃ初めて話したからね」

「何々! どんな人!」

「同じ物理化学部の人」


 物理化学部? 

 モノトーン調のクロスビキニをバシッと決めて、アシメショートを華麗に振り上げる彼女が、物理化学部? そんな陰キャの集まりそうなところに夏美がいたら浮いちゃわないかな? 


「私、一応理系だからさ」

「それは知ってるけど……」

「化学の実験ショーとかやってんの。彼氏はその……助手くん?」

「助手」

 私がぽかんとしていると夏美が誤魔化すように笑った。

「ウソウソ。同い年だよ。助手とかそういう関係じゃなくて、ただ同じ部活ってだけ」


 夏美が、彼氏か。

 何だか急に遠いところに行ったような気がして寂しくなる。だから思わず、握った手に力を込める。


「彼氏に見せる水着の予行演習?」

 私の問いに夏美が笑った。

「まぁね」


 男心に効果はあったみたいだけど、と、さっきチャラ男を蹴飛ばした方に目をやる。男はいなくなっていた。ただ穏やかな海水浴場だけがあった。日差しが肌を焼きつける。暑い日だった。時折太腿に当たる防水バッグの感触が心地いい。二人で浜辺を、ゆっくり歩いた。



 佐川くんのことを話した。

 歩き疲れて二人並んで浜辺に腰かける。その辺に落ちていた枝で砂を引っかきながら、話をする。


「その佐川くんってさ」

 夏美が、聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で話す。

「テスト期間中、毎日一緒に帰ってんの?」

「うん」私は小さく頷く。「試験の話とかする」

「部活でも顔合わせることあるんでしょ?」

「そりゃ、同じグラウンド使ってるし」

「挨拶は?」

「する」

「で、『今度遊ぼう』って言われた?」

「うん」

 でも……。と、私は続ける。


「意地悪しちゃった。最悪なんだ、私」

 すると夏美がぼんやりと空を見上げる。吸い込まれそうな青。深いけど淡い、そんな空。水平線の方に綿菓子みたいな雲が見える。風が吹いた。濡れた体に心地いい。この風も彼方の雲に届くのか、なんてことを思う。


 ぽつぽつと、私は話した。


 佐川くんとの日常。クラスでは滅多に話さないけど、テスト期間の帰り道は勉強を教え合うくらい仲がいいこと。秦野出身で、ハンドボール部に所属していること。多分、重複する内容もあったと思う。でも夏美は黙って聞いてくれた。それからつぶやいた。


「探してみるか、その未来の彼氏くん」

 しかし私は急に弱気になる。

「こんな広い海辺で、来ているかも分からない彼に会えるかなんて……」

「あんたが言い出したことでしょ」

 呆れる夏美。私は項垂れる。

「そうだけど……」

「まぁ、任せろって」

 夏美が脇に置いていた防水バッグからスマホを取り出す。

「心当たりあるからさ」


「えっ」

 私は驚く。夏美は気だるそうな目で、すいすいとスマホを突く。それから何かを見つけると、興味を失くしたようにスマホをビニールバッグに突っ込んだ。不意に立ち上がる。


「OK、ついてきて」

「えっ、えっ?」


 すたすたと私を置いて歩く夏美。私はその、形のいいお尻を見つめた。よたよたと立ち上がる。夏美が振り返る。


「行かないのー?」

「い、行く!」


 慌てて夏美の後を追った。お尻についた砂を払う。足が砂浜にぎゅっと沈んだ。ぺたぺたサンダルを鳴らしながら、私は夏美を追いかけた。彼女はぐんぐん先に進んだ。



 向かったのは江の島大橋の西。

 車道の向こう側だった。一応砂浜は続いているので歩いていけなくもない。整備されていない区画なので多少ゴミは目立つし汚かったが……しかし夏美は構わず進む。私は何とか後についていった。


「どこ行くの?」

 夏美は答えない。

 振り向くと、遠い江の島側の海岸に釣り人が見えた。暑さの中、じっと竿を構えて立ち尽くしている。太陽が照りつけるせいか、釣り人の姿も揺れて見える。大変そうだな。そんなことを思った。


 と、不意に私の正面に、明らかに夏美のものじゃない、大きな人影が現れた。


「え、ウソ……」


 びっくりして立ち止まる。それは向こうも、同じだった。


 私の数歩先で、夏美が澄ました顔をして振り返る。きゅっとくびれた腰に手を当て、ビニールバッグをだらりとぶら下げ、獲物を見つけた猟犬のようにドヤ顔で、私のことを見ている。

 彼女の背後、私と同じようにびっくりして立ち尽くしていたのは。


 ブルーの膝丈水着、ライフセーバーみたいなオレンジのスイムウェアに身を包んだ、佐川将生くんだった。

 彼の手には、百均で売っていそうな、小さな籠があった。


「千桜さん」

 佐川くんが私の名を呼ぶ。

「どうしてここに?」


「えっ、えっ」

 私が言葉に困っていると、夏美が代わりに答えた。

「まぁ、私とデート?」


「でっ……」

「冗談だよ、彼氏くん」

「か、彼氏……?」


 私は夏美の肩をひっつかむ。


「やめてよ」

 しかし夏美は私の体を華麗にかわして、お尻をぽんと押してきた。

「ほら、ご対面」

「ちょちょちょ」


 私はバランスを崩しながらも夏美の方を振り向く。


「何で?」

 この「何で?」は「何で分かった?」の意味だった。つまり、どうして佐川くんがここにいることが分かったのかが聞きたかった。


 すると夏美は私の疑問を感じ取ったのか、意地悪そうに目を細めるとこう続けた。


「砂も亦美しきかな桜貝」


 それはいつか、私が佐川くんに教えた俳句だった。高浜虚子。佐川くんは文学史が苦手だった。


「こなつのために桜貝とりに来てたんでしょ? ビーチコーミング? 江の島大橋の西側は整備されてないからビーチコーミングしやすいみたいね。スマホで調べたよ」


 すると佐川くんがびっくりしたような顔になった。夏美は丁寧に続ける。


「桜貝自体はこの江の島の海岸じゃ簡単に見つかるよね。だからこんなところに来る必要はない。でも橋の東側の海岸や、海水浴場なんかじゃ浜が整備されているから思うようには見つけられない。それに、よく桜貝がとれるのは冬から春にかけてだから時期的にも大量にとることは珍しい。でもあなたは桜貝が欲しかった。その理由のひとつは、さっきの句。高浜虚子のね」

「この人……?」

 佐川くんが明らかに説明を求めている。私は何とかしゃべる。


「私の幼馴染で……」

 と、夏美が背後から私の両肩を包むようにつかんで、佐川くんの方にそっと押し出した。


「佐川くんだっけ? 見つけた? 桜貝」

 と、ぽかんとしていた佐川くんが頷く。

「見つけた。状態のいい、二枚の合わせ貝……」

 すると佐川くんが、慎重に籠の中に指を入れる。


「綺麗にしてから渡そうと思ってたんだ。今度遊ぶ時に渡そうって。さっきも言われたように、桜貝の季節は冬から春にかけてだから、この合わせ貝を見つけるのにすごく苦労したけど、でも今日、やっと……」


 佐川くんが近づいてくる。掌には、桜の花弁のような、淡いピンクの、本当にかわいい貝殻が……二つ綺麗に合わさっていて、何だか妖精の羽みたいだ。


 夏美が私の背後で嬉しそうにつぶやく。

「ほら、彼氏くん。桜貝はどんなアイテムなんだっけ?」


「『幸せを運ぶ』……合わせ貝になると、れ、『恋愛成就』……」

 佐川くんが恥ずかしそうに目を伏せる。でも、すぐに意を決したような顔になった。じっと私のことを見つめる。その目線に、私は釘付けになった。


 彼の唇が動く。

「す、好きなんだ。千桜さんのことが。だから桜貝を見つけようって……。『千桜』で『桜』に、『こなつ』で『夏』だから、海で桜を連想させるのがいいかな、って。後、この間、高浜虚子の俳句を教えてくれたから。ずっとこの貝殻を探してた。た、多分、俺の感想、だけど」


 夏の桜が君には似合う。


 佐川くんが一生懸命、言葉を紡いでくれた。胸が溢れそうだった。思わず両手を握って胸元に寄せる。


「ありがとう」

 そっと、佐川くんに近づく。

 それから私の想いを伝えた。


 素直に気持ちを伝えられたのは、きっと彼の桜貝のおかげだ。


 夏美がぐっと伸びをした。それから小さく私に手を振ると、どこかへ歩いていった。私は訊ねる。


「どこ行くの!」

「散歩。一時間くらい自由にしてやるよ」

「ナンパされないでよ!」

「そんな連中蹴り飛ばしてやる」

 

 おかしかった。だから笑った。彼女の綺麗なプロポーションを眺めながら、私は佐川くんの厚い胸板に頭を寄せた。


 まだくっつけるほどの仲じゃないけど、いつか彼と、合わせ貝みたいに。


 そう思って目を閉じた。

 夏の熱気が私たちを包んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の桜が君には似合う 飯田太朗 @taroIda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ