読まないで

飯田太朗

読まないで

 校門から出て坂道を真っ直ぐ下る。

 歩道橋を渡ってさらに続く坂道を下っていくと、まるで砦のような建物をいくつも並べたマンションが見えてくる。さながら山の中腹に聳える要塞だ。


 要塞の下には畑がある。広がる、と表現できるほど大きくはなく、しかし個人でやっているほど小さくはなく、真ん中に鳶を模した凧があって、どうやら鳥よけらしいのだが、風が強い日はともかく夕暮れの凪いでいる時間帯はふわりともしないので、だらりと垂れた鳶が何だか滑稽な、まぁ、とにかく広い畑がある。


 通学路はその畑の横、正確には斜め上を緩やかに下りながら進んでいくコースである。交差点が複数。標高が少し高く、日よけがないので今のような夏場はとにかく暑い。如何に立ち止まることなく進み続けられるか、が鍵である。


 しかしそんな天候下の行進を強いられる通学路において、僕はイレギュラーな存在だった。中には最寄りの本厚木駅から高校に至るまで専用の自転車を買って通学時間を短縮する生徒がいる中、僕は炎天下でも氷点下でもとにかく歩いて、学校から駅までの間を往復し、時には明らかに通学路ではない路地裏や脇道を歩いたりするような、いわゆる「放課後探検隊」的な生徒だったからである。


  僕の高校は本厚木から一・四キロほど離れたところにあった。厚木、ってあんまり馴染みがないかもしれない。説明しておこう。厚木と言ったら何だろう。

 いきものがかり? でも僕はあまり音楽は聴かない。本厚木はそれなりに栄えているけど厚木駅の方はド田舎だって聞いたことがある。僕は入ったことないけど、温泉はたくさんあるらしい。ってことは宿もたくさんあるのか? でも箱根や小田原に比べるとちょっと見劣りする感じはある。


 大山はある。大山阿夫利神社のある文字通り大きな山。でもあれ伊勢原と秦野にも被ってなかったかな? 厚木だけ、っていう感じではない。


 まぁ、何を取っても中途半端とは言えるけど、逆に言えばどの要素もそれなりに揃っている。それが厚木市。海はないけどね。


 僕は高校生だ。成績はまぁ、察してほしい。部活は物理化学部の化学班。イベントや招待で実験ショーをやったりしている。もちろんショーじゃない研究的意味合いを持つ実験もする。最近やったのは何だっけな……ああ、掌で炎を燃やす実験。コットンを紐で縛って消毒用ジェルをつけて点火。触っても熱くなんだよ。アルコールの気化熱が手を守ってくれるんだ。


 どこでこういう実験のネタを仕入れてくるかというと、もちろんネットが主だが最近は本を読むことにしている。


 何だかんだ先人の知恵というのは偉大だ。彼らの失敗や成功があるから今の僕たちがある。


 そういうわけで、僕は実験のネタを求めて書籍を漁る生活を送っていた。学校から駅の間に大きな書店……地下一階に漫画帝国を抱える有隣堂……があるのでそこに立ち寄ることも多かったが、二回か三回行ったところで飽きてしまった。大手は安定して良質なものが置いてあるが、僕の求めるようなマニアックなものはない。誰もがやるような実験じゃない、誰もが一瞬「おっ」と思うような実験がしたいのだ。


 暇があればネットの海を泳いだり、生活圏内の本屋を縫ったりしているのだが、しかしどうしても「これは」と思える実験には出会えなかった。そこで僕が手を伸ばしたのが古本屋である。


 中古流通ごときに目新しいものがあるのか? と思われるのかもしれないが、これが意外とある。特にバックナンバーも辿れないほど昔に出された少年向けの科学雑誌なんかに面白い実験が載っている。


 当時は薬品の扱いなんかも緩かったのだろう。殺鼠剤……ヒ素だね……を使ったエキセントリックな実験なんかもあって大変に刺激を受ける。かつての子供たちは平気でこんな危険な実験をやっていたのか……と思うと、うらやましい反面ホッとしたり。


 そんなわけで僕は夏休みの貴重な時間を費やし、古い科学雑誌を求めて古本屋を探していた。部活動の帰り、あるいは行き、時にはサボって、足が向くまま色々なところに行った。学校から本厚木駅の間はもちろん、本厚木から僕の住んでいる中央林間までの間にある駅にフラッと降りて散策したり、まぁ八方手は尽くしていた。


 僕が通学路から少し外れた場所、具体的には学校から本厚木駅の間、厚木中央公園から厚木小学校の方に少し進んだ路地裏に迷い込んだのは、「どこかに個人でやっているような本屋はないか」という探求心が僕の足を動かしていたからだった。


 果たしてその本屋はあった。


「さあらば書店」


 よく分からないネーミング、が第一印象だった。ガラス張りの店内だったが窓を半分覆うほどの大きな本棚のせいで中はほとんど見えない。まるで岩礁の奥に巣食うウツボのように、本棚の隙間に店長らしき人影が見える。


 一見さんだから、と追い返されることもあるまい。


 意を決して店内に入った。冷房。古いエアコンなのだろう。送風音がうるさい。しかし涼しくはあった。外はアスファルトが溶けそうな暑さだ。一息つく。それから、本棚を見上げる。


 小説が多かった。僕のお目当ての科学雑誌系はなさそうだ。でも何だか面白い本棚だった。どこかおばあちゃんちの本棚に似ている。純文学に溢れる、という意味でも、通俗小説に溢れる、という意味でもない。多分好きなものを好きなだけ集めたんだろうな、というラインナップ。ミステリーも恋愛もSFもある。でも漫画の類はなさそうだ。本当に、雑多な本棚。


 問題の本は、そんな本棚の片隅に見つけた。店内には僕と店長の他に女の子が一人。中学生くらいだろうか。ひらひらのついたタンクトップ。デニムのショートパンツ。黒い髪の毛を二つ結び。夏休みかな? 部活には行ってないようだけど。


 店長は老人。おそらく男性……老人ってのは男性に見えて女性ってことがあるから困る……。大きな眼鏡をかけていて、じっと文庫本を読んでいる。カバーの外された本なのでタイトルは見えない。冷房だけじゃ暑いのだろうか。扇風機の風を独り占めしている。その割にベストを着ていたりと、何だかちぐはぐのおじいさん。僕の目線に気づいてムッとした顔を上げる。


 まぁ、いい。


 僕は見つけた謎の本の背表紙を撫でた。タイトルはこうだ。


『読まないで』



「最近せっせと帰るじゃん」

 岩田夏美に声をかけられたのは、夏休みも終盤に差し掛かった頃だった。蝉の声も聞こえなくなってきたような、晩夏。晩夏というにはまだ早いか。でもとにかく、夏の終わり。


「彼女でもできた?」

 ガムを噛みながらのんびりそう訊ねてくる彼女に僕は答えた。

「できたね、二カ月前に」

 にやり、と「二カ月前の彼女」こと、夏美が笑う。

「今この部屋誰もいないからチューするぞ」

 そんな甘いセリフを吐きながら、彼女は六十度の水に塩化アンモニウムを溶かしていた。何をやっているのか訊ねる。


「暑いから雪降らそうと思って」

 なるほど、そういうことらしい。


「でさ」

 夏美がこちらに顔を寄せる。チューだろうか。

「最近せっせとどこ行ってんの?」


 表情はにこやかだったが内心穏やかじゃないことは見て取れた。まぁ、付き合って二カ月目の彼女を放置していそいそどこかへ出かけている男子がいたらそりゃ彼女の側にも言い分くらいはある。僕は釈明することにした。


「違うんだ。実験のネタを探していたら女子中学生を見かけて……」

 六十度の水が入った試験官が僕の手の甲に当てられる。熱い。

「女子……?」

「説明します」


 間の過程が抜けていた。


 かくかくしかじかと「さあらば書店」の話をすると、夏美はやっぱり「そんな本屋知らない」と返してきた。僕は語った。


「ジャンルにこだわらない古本屋で面白いんだ」

 すると夏美が僕の胸倉をつかんで顔を近づけてきた。ガムの匂い……ベリー系の甘い匂い……が鼻を突く。

「連れてって」

 そういうわけで、行くことになった。



 僕と夏美の他に、客は男の子しかいなかった。


 野球部、だろうか。背は僕より低い。まだ成長途中、という感じだ。坊主頭。土汚れだらけのジャージ。重そうなエナメルバッグ。重量感たっぷりに床に置かれたそれは見事に店内の交通を妨げていた。僕たちが通ると彼は申し訳なさそうにバッグを蹴る。僕と夏美はそうしてできた隙間をゆっくりと通る。


「ここにね、面白い本があって……」

 と、本棚を見る。ない。

「面白い本?」


 訊き返してくる夏美に僕は答えた。

「なくなってる」

「売れたんでしょ」

 当たり前の事実を夏美は口にする。そっかぁ、売れたのか。


「じゃ、特に面白い話もないです」

 すると店の奥から老人の声がした。

「何が面白くないって?」


 びっくりする。しかし夏美は、姿を現した老人に動じることなく答える。

「元気そうですね!」

 頓珍漢なようで、しかし老人が言われたら嬉しそうな言葉ではあった。実際店長は夏美の言葉に反応した。


「そりゃ四十年もこの店をやってるからね」

「売れてる?」

「見ての通りさ」

 老人は笑う。

「かみさんが逝っちまってから余計に売れなくてね」


「いつのこと?」

「十年前さ」

「いえ、出会ったのが」

 老人は笑った。

「ほぼ一世紀前と言っても過言ではない」

「長生きだね」


「あんたらくらいの頃に出会った女だよ」

「きっかけは?」

 老人がつまらなそうにカウンター奥の椅子に腰かける。

「交換日記さ。今時は流行らんのだろうが」


「えー、いいじゃん。素敵だと思う」

 夏美の言葉に気をよくしたのか、老人が続ける。

「文庫本くらいの日記帳でやり取りしてね。ありゃ楽しかったな」


 老人が僕らを顎で示す。

「厚高の子かね」

 僕が頷くと、老人は鼻で笑った。


「仲良くやれよ。もしかしたら添い遂げるぞ」

「それ素敵」夏美が笑う。「最近何が売れた?」

「見ての通りさね」老人は二度目を告げた。「最後にいつレジを打ったのかも覚えてないよ」

 夏美が眩しい笑顔を見せた。

「ありがとう。また来るね」


 そんなわけで、僕たちは帰った。



「さあらば書店」にはそれからも何度か通った。夏美のおかげで店長とも仲良くなったから、店に入る度にぺこりと頭を下げる習慣がついた。お目当ての本もないのに僕があの「さあらば書店」に通い続けたのは、店の雰囲気が好きだから、ということもある。実際あの本屋でいくつか素敵な本との出会いも果たした。


 とにかく新学期が始まってからもしばらく、少なくとも虫の声が聞こえてくる直前くらいまで、僕はあの古本屋に通い続けた。そして再びあの本に出会った。


『読まないで』


 久しぶりに見た時はびっくりした。以前夏美に見せようと思った本だ。

 しばし見入る。ブックオフなんかが扱う綺麗にされたもの以外の、「ちゃんとした」古本を見たことがある人なら分かってくれると思う。古書には独特の雰囲気がある。汚れた雰囲気、枯れた雰囲気、慣れた雰囲気、色々あるが、この『読まないで』が放っていたのは「神聖な」雰囲気だった。だから触れるのを躊躇った。すると店の奥から老人が来た。


「店仕舞いだ」

 嘘だ。僕は時計を見る。まだ早い。

 しかしそんな僕の考えを読んだように老人が告げた。

「体調が悪くてね。季節の変わり目はよくない」


 と、いうわけで僕は追い出された。また明日来よう。そう思って夕暮れの中、本厚木駅へと歩いていった。


 問題の本は翌日にはなくなっていた。びっくりした。人気の本なのだろうか。



「最近さ、スマホばっかり」

 夏美が僕と歩きながら告げる。校門から出てすぐの坂道。無駄に広い畑の傍を通る道だ。彼女の口にはやっぱり、ガム。

「ここにこんな美少女がいるというのに」


 実際、夏美はかわいい。

 どれくらいかわいいかと言えば隣のクラスの男子が恋をするくらいにはかわいい。つまり僕は今頃そいつの頭の中で惨殺体となって発見されているわけだが、それはさておき夏美はかわいい。


 何と言っても僕は彼女のセンスが好きだ。特に髪型に顕著に表れていると思う。アシメショート。黒髪なので校則に触れることはない。左側の髪はほとんどツーブロックみたいに刈り上げられている。露になった耳には星型のイヤリング。聞いたところによると片側しかつけていないらしい。その分、装飾部分が大きくて派手だそうだ。言われてみると確かに星が大きい。


 そんな彼女の放つ、ちょっと気だるげな目つきはすごくセクシーだ。僕は彼女と目が合う度にドキドキしている。


「じゃあ何でスマホばっか見てんのよ」

 最後の部分が声になって漏れていたらしい。彼女は僕の顔を覗き込む。


「エロ画像?」

「違うよ」

「じゃあ何」

「この間、見せようと思っていた本」

 僕は検索画面を見せる。

「『読まないで』っていう本。検索しても出てこないんだ」


 彼女は僕のスマホを手に取る。

「『読まないで』? ああ、面白い本がある、って言ってたやつ?」

 僕が頷くと、夏美はすいすいと検索画面を動かした。

「……何か『本を読まずに内容を知る』みたいな変なノウハウばっか出てるね」

「そうなんだよ」


 僕は説明する。初めてその本を見つけた日のことを。覚えている限り子細に。冷房の音がうるさかった、とか、店の中にどんな客がいた、とか、店長が扇風機を独り占めしていた、とか。


 それからその本が出たり消えたりしていたことについても話した。やっぱり、どの日に見つけたか、どの日になくなっていることに気づいたか、天気、気温、湿度、何となく記憶に残っていること、店の様子、店長の態度、事細かに話した。夏美はじっと聞いていた。


「で、その本がどうかしたの?」

「いや、出たり消えたり」

「そりゃ分かったけどさ。どういうこと? 欲しいの?」

「いや別に欲しくはないけどさ。気になるだろ。『読まないで』ってタイトルの本だよ。しかもそれが、出たり消えたりするんだ」

「……つまりある時はあって、ある時はない?」

「そう」

「ふうん」


 夏美がガムを包み紙に吐いた。一瞬、紙になりたくなる。ガムの方でもいい。


「その本屋ってさ、何時まで?」

 僕は時計を見る。

 放課後。僕たちはちょっと部活もして来たのでもう夕暮れだ。具体的には十七時四十五分。今から駅に向かったんじゃ十八時過ぎの電車になる。僕も彼女も帰りが遅くなるだろう。でも。


 夏美は相模大野に住んでいた。僕は中央林間。僕の方が夏美の最寄り駅より先の駅に住んでいる。つまり、夏美を送って帰ることができる。


 これは、もしかして、家に送ったついでに、「今日親いないから……」なんてこともあったりして。


 そんな下心もあり、僕は夏美を「さあらば書店」に連れて行った。店に着いたのは十八時頃だった。僕たちが中に入ろうとすると、黒いプリーツスカートの女の子が店の中から出てきてすれ違った。夏美よりもっと野性的な、汗のような匂いのする女の子だった。



「ないじゃん」


 そう。

 なかったのだ。『読まないで』がなかった。店中どの本棚を探しても。


「どうしたのかね」

 店長も顔を覗かせる。僕はすっかり常連になっていたので、もううるさく言われることもなかった。


 僕は勢いで訊ねる。


「『読まないで』って本、ありませんか?」

「『読まないで』?」

 老人が首を傾げる。

「何だその本」

「ついこの間、あったんです。で、売れた」

 老人は首を傾げる。

「なくなったんです。そしたらまた、この本棚に並んでいた。売られたんです。この本屋に」


 老人は沈黙する。僕は続ける。

「ずっと気になってて。調べても詳細出てこないし。Amazonでも売ってないし。何かあの本について知りませんか?」


 すると、老人が耐え切れないように。


 くつくつと笑い始めた。小さな笑いはそのまま化学反応のように大きな笑いに変化していった。僕が驚いていると、唐突に僕の背後で声がした。夏美の笑い声だ。くすくすと、かわいらしく。


「多分、多分さ」

 夏美が笑いを堪えながらつぶやく。

「分かってないの、あんただけだよ? 満くん」

 彼女の口から久しぶりに僕の名前を聞いた気がして、僕は少し嬉しくなった。だから素直に訊ねる。


「分かってないって?」

「仕方ないのぅ……」

 と、言いかけた老人に夏美が手を差し伸べた。

「ダメダメ、おじいちゃん。私にかっこつけさせて」

 老人がニヤリと笑った。


「ほう、それでは、お手並み拝見」

「ありがと」


 それから夏美は語り始めた。


「私も満と『読まないで』しよっかな」

「何それエロい」

「はぁ? 何でそうなるわけ」

「禁止系って何かエロいじゃん」

「おじいちゃんこいつどうにかして」


 ほっほっほ、と店長が笑う。

「若い頃はそんなもんだな」

「とにかく何なんだよ。あの『読まないで』って本は」

 僕の問いに夏美が小さくウィンクした。


「交換日記」

 夏美のセリフに老人がにたりとする。

「懐かしいのぅ」


 僕は唸る。

「交換日記って、誰と誰が……」

「うっそ。マジ? 気づかなかった?」

 夏美がびっくりする。


「あんた初めてその本見つけた時、『中学生くらいの女の子がいた』って話してたでしょ」

「うん」

「今すれ違ったのは?」

「あ……」


 ようやく全貌が見えてきた。


 初めてこの店に来た時、中学生くらいの女の子がいた。

 夏美を初めて連れてきた時、中学生くらいの野球部らしき男の子がいた。

 そして今日、中学生らしい女の子が出て行った。


 中学生だ。今時漫画もゲームもスマホで楽しめる。そんな世代がわざわざ古本屋に? この辺の子だったら少し足を延ばして駅前の有隣堂にだって行けただろう。あの有隣堂の地下一階は漫画帝国だ。なのにわざわざ、古本屋。つまりそういうことか。


「おじいちゃん、この本棚、人に貸し出してるようなものなんでしょ」

 夏美の言葉に老人が朗らかに笑う。

「まぁな。どうせ売れんしな。幸い食うに困らんくらいの蓄えはあるし、売れる必要もないでな。地域の子たちの交流の場になれば、と思っておる」


「えー、素敵ぃ。地元の古本屋でこっそり文通するカップルでしょ? めっちゃかわいいー。しかもタイトルが『読まないで』」


 だらだらと話す夏美に僕は縋った。


「夏美、僕の話を聞いただけで気づいたの……?」

「え? まぁ、可能性の域を出なかったけどさ。でもさっき女の子とすれ違った時、ほとんど確信したよ?」


 だって漫画も置いてない古本屋に中学生だよ? 夏美が首を傾げる。


「私が最初に来た時にいた男子中学生だって『変だな』って思ったもん。部活の帰りっぽかったでしょ? 疲れた帰りに立ち寄る場所にしちゃ渋すぎない?」

 た、確かに。

「あんたも男子でしょ。男を突き動かすエネルギーは?」

「女の子」

「そういうこと」


 夏美がにかっと笑った。その笑顔が触媒になったかのように、老人も笑い返す。


「こりゃしばらく尻に敷かれるな」

 はは、と僕は笑った。

 隣にいるアシメショートの女の子を見る。

 くすくすと老人と笑い合う彼女は、何だか別人みたいだった。僕は六十度の水のことを思いだした。



 帰り。

 僕は訊ねる。


「この間の実験さ」

「それいつ」

「暑いから雪降らそうってやつ」

「あー、塩化アンモニウムの」


 雪。

 あれは温めた水の中に塩化アンモニウムを溶かして、その水をゆっくり冷やすと溶かした塩化アンモニウムが結晶になり、雪のように見える、という実験だ。析出された塩化アンモニウムの結晶は星型。針型や板型の結晶じゃない。綺麗な星型。僕は彼女の耳を見た。


 星型のイヤリング。あれが彼女の耳元で析出されるまで、どれくらい時間がかかったのだろう。あるいは誰かの、影響だろうか。彼女の賢さもきっと、中学時代に努力をした結果だろう。その努力の原動力は何だったのだろうか。男子を突き動かすのが女子なら、女子は……。


「ぼーっとして、どうしたの」

 いつの間にか僕の先を歩いていた夏美が、ちょこんと首を下げ、こちらを窺う。

「帰るよ」


 気づけば虫の音が聞こえていた。ゆっくりと、確実に、結晶化するように、秋は近づいていた。


 僕は彼女の後を追った。


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読まないで 飯田太朗 @taroIda

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