8.〝亢竜悔いあり〟

 壁の木材を砕き尚も勢い止まらず――遠くで鳴動するような破砕の轟音が響く。

 それは握りの強さで目釘が砕け、解き放たれた刀身の着弾音だった。

 もう、彼の刀が武器として元の形に戻る事はないだろう。

 そんな事はどうでもいい、今は――今は。

「あ……ぁ――」

 刀と腕、そして胸板を大きく切り裂かれた鉦巻の体が傾いてゆく。

「鉦巻――鉦巻! 鉦巻っ‼」

 右掌の感覚が無い、だけでなく腕も上手く動かない――それは、握り潰してしまった柄の木と糸が、細かい破片となって骨まで食い込んでしまっている為だった。

 だから右ではなく左を使って抱き留めようとして、指先を伸ばす。

 しかし、抱き留める事は叶わない。

 血涙を流す忠邦の目の端が、大きくひしゃげた鯉口を握っていた左手の惨状を捉える。

 秘剣の代償は――人差し指と中指の喪失。

 そして殆ど感覚が残っていない、千切れかけた薬指だった。

 ……小指だけで、大人の体を捕まえられる訳がない。

 畢竟――彼は最初から、指間より弟の体がすり抜けるのを見ているしかなかったのだ。



    ◆



 凄まじい音に覚醒を促された嘉助が、頭痛を堪えつつ立ち上がる。

 立ち上がったその場には――少年が何としても避けたかった光景が待ち受けていた。

「何で、何で。どうして、何で、こんな――師匠を殺したんだよ、鉦巻……っ」

「……何が、誰にも取られない、俺達だけの、ものだ――よ――」

 泣きながら必死に鉦巻を抱き締める忠邦。

 忠邦に対し、虚ろな表情のまま皮肉気な笑みで返す鉦巻。

「ぬけぬけと、恩人だと思っていた男に大事なものを奪われたら、世話が無ぇだろ……」

「師匠が、何をしたんだ。ちゃんと言ってくれよ。分からねぇだろっ……」

「察しが悪いな、そんなんだから、こんな所にいるんだろうが……」

 深々と胸を切断された鉦巻を助けるべく、必死に傷口を抑えようとして――そもそも流血が不自然に少ない事に気付く。既に流せる血が無いという答えが、導き出された。

「鉦巻、師範……」

 足を引き摺りながら歩いてきた嘉助を見て――状況を察し、絶望を顔に浮かべた。

「……盗人を、絶対逃がさない、って言ったろ。放って国を出る訳、ねぇじゃんか……」

「だけど、だからって――何でここまでする必要があったんだっ!!」

 嘉助から見て、二人はお互いの経緯を知らない筈で――そもそも、二人の間で交わされる言葉は、どこか独白染みていて意思疎通がとれているように聞こえなかった。

 なのに、通じ合っていた。

 不可解なのに、他人である嘉助にも理解できる――それは、奇妙過ぎる会話だった。



    ◆



 ぼやけ始めた視界、兄の涙を見て――冷めつつあった鉦巻の中に、熱が生じる。

 本当にこれが正しかったのか。怒りと行為は正当だったのか――という疑問だった。

 ……両親を亡くして以来、兄との研鑽を重ねつつ必死に積み上げた術理という財産は鉦巻にとって唯一無二だった。

 それを自分から盗む事は――例え、師であろうとも許されない行為だった。

 とはいえ、もっと賢く立ち回る方法はあったかもしれない。

 ――秘剣を手に入れた。

 ――人に新たな技を教える想像力を手に入れた。

 やっと誰にも奪われる事のない、他の誰とも代えがたい何者かになれたというのに。

 ……兄が絶叫しているようだ。

 自分を抱きしめている腕が、振動で細かく震えているのが分かる。

 ……それを感じて、急速に思考が崩れていく。

 下手人を討つという正当な行為をした筈の兄が、子供の様に目の前で泣き喚いているせいで――今際の際に、全てがどうでもよくなっていく。

 解けて無くなっていく自我を保つ事も――つい先程までは意識できていた、術理を積み上げ、何をしたかったのかという事さえも、消えていく。

 だが、それでも……何かを――

 突き動かす強い想いが、もう真面に動かす事も覚束ない腕を持ち上げさせた。

 懐に指が差し入れられ――途中で斬られた象牙の煙管が取り出され、ゆらゆら揺れる。

 それは忠邦の前で、蛇のようにうねった。

「うそつき、め……」

 兄が見たのを確認し、心底の疲れから全身の力を抜く。

〝死返シ〟という秘剣を編み出した天才は――二度と、その瞼を開く事はなかった。



    ◆



「鉦巻……鉦巻っ?」

 温度も、鼓動も――ほんの僅かにあった身動ぎも、眼球の動きすらも消えて、鉦巻という人間の魂が消えていく瞬間を、忠邦は腕の中で感じ取ってしまっていた。

「あ……ああ……っ」

 そして――交わした少ない言葉と断片的な情報から、道場で何が起こっていたのか。

 師との間に何があったのかの事実、その構築に成功していた。

 全てが終わって、彼の手元に残ったのは――

(俺は、こんなものを抱えたまま、生きて行かなければならないのか……?)

 ――手に掛けてしまった弟の残した、〝くちなは〟の術理であった。

 今や刃鳴流、唯一の師範代となってしまった忠邦が唇をわなわなと震わせる。

 こんな忌まわしい技は忘れたい。目を向けたくない、というのに――死に顔と同時に見てしまった、蛇のように曲がる煙管の切れ端が頭に焼き付いて離れない――消えない。

 一度見てしまった技が、強烈に脳へと刻まれ絡み付き――忘れられない。

 汚らわしい事実が。

 悲痛な感情が。

 眼球の裏で、皮膚の下で、蛇が這う様な不快極まりない掻痒感を覚えさせていた。

 やがて死者をそのままにしてはおけぬとでも言いたげに――深々と、青褪めた鉦巻の顔に打ち覆いをかぶせるように、白い雪が舞い降り始める。

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