5.〝龍頭蛇尾〟

 忠邦が道場を留守にしていた間。

 物陰から目撃してしまった一部始終を、嘉助は思い出していた。



    ◆



「師範……お止まり下さい、師範っ!」

「何だね、鉦巻?」

 荒々しく廊下を渡り、老境となった谷上彦市に詰め寄る。

「何故〝蛇〟――いや、〝くちなは〟を自分が考え出したとして発表するのです⁉

 おれに、何の断りも無しに……‼ あれはおれが考案した、おれの技だ‼

 他の高弟達にも、既に原理は説明してあるし実演もほぼしてみせた――実際に発表し、恥をかくのは他ならない師範ですっ!」

「これが、かね――なら、別にそれでもいい」

 懐から出した一尺に満たない象牙の煙管を、彦市が鉦巻の目の前で揺らす。

 すると不思議な事に煙管がぐねぐねと曲がった。

 嘉助には与り知らぬ事だが、この現象を彦市は十五年以上前――まだ引き取って間もない鉦巻が、木の洞に隠れる蛇と戯れている所を見て気付いた術理だった。

 ――自分で考えた訳ではない。

 故に気付いたのではなく、盗んだと言った方が正しいだろう。

 それは、ここより未来で〝ラバーペンシルイリュージョン〟という、子供が授業の合間に手隙にする、正に児戯と言い切ってしまえる現象――錯視を利用した剣術だった。

 この星で生存権を確立した哺乳類を始めとした生物は、一対の眼球による立体視を可能とした事で外界からの情報量を爆発的に増大させ、高速で処理する力を得るに至った。

 この錯視はいうなれば――そうだと分かっていても、絶対に正しく見る事が出来ない立体視と高速処理を行うが故に起こる脳の陥穽だった。

 個人差はあるが大体の人間は画像処理能力が――実のところ、虫や鳥より低い。

 そして低いにもかかわらず、捉えた画像を一つの動画内に落とし込もうとする。

 この時に起こるペンの先端と過程との処理順序の差が、硬いペンを柔らかいもののように曲げる。

 彼が考案した〝くちなは〟はこの原理を取り入れた術で――交錯の際、錯視引き起こしつつ相手を斬る――あたかも、のたうつ蛇が迫る様に見せる術理であった。

 幻でありながら本当に剣を掻い潜って曲がりうねり、切り付けてくるという不可思議さ。

 実戦の場における初見では、まさしく躱し様がない必殺剣となるであろう。

 それを――

「これは誰もが思いつく事だ――そして、今回は私がこれを発表する。それだけの事だ」

 ――何食わぬ顔で、彦市は自分のものとすると言ってのけた。

 鉦巻かねまきの前で。

 この時、彼の咄嗟の凶行を抑えたのは――恩義か、世間体か、諦観か、それとも。

「……っ‼」

 嘉助にはどれでもあり、どれでもないように思えた。

 傍から見守る彼の産毛すら逆立たせる鬼気を、彦市は嵐の中で佇む柳の様に受け流す。

「……気に食わないなら、発表の場で私を斬るがいい」

 歩み去る彦市の背中を、何かが削げ落ちてしまった目で鉦巻は見送った。

 ――次に盗人と出会えば、斬り殺せるように。

 嘉助にも聞こえない、か細い声が――その口の中で、消えた。



    ◆



「元は錆び汚れが付いた捨て犬みてぇな俺達だったのに――随分と懐かれたもんだ」

 へらへらと笑いながら、嘉助の肩を鉦巻が爪先で小突く。

 意識の混濁した嘉助は当然反応できない。

「嘉助まで……やめろ……もう止めてくれ! 鉦巻!」

「止めるか、今更」

 鉦巻の右手が鯉口へと伸び、左手は愛撫するように柄を撫で――離された。

「この糞餓鬼と兄貴――テメェを殺して、別の国で刃鳴流の師範として大成する」

 忠邦から見て、鉦巻の刀の見た目には何の変化もない。

 しかし別角度からであれば、刀が鞘から半ば以上に抜かれているのが見えただろう。

 刃鳴流――途切れ月。

 相手の視線、死角に合わせて半ばまで刀を抜いておき、抜刀する過程を一部省略して僅かな時間を短縮する技法である。

 速度だけでなく、目測をも見誤らせる意図が込められたこの術理は、初伝にするべき単純な動きでこそあったが――使い方の難しさから奥伝として教えられている。

「それだけだ」

 鎬を押さえる親指が、白くなっているのを感じた。

 無意識にかけてしまっているその強さに、顔に出さぬよう鉦巻が内心で苦笑いをする。

 これだけだ。

 おれには、これだけが奪わせたくない財貨なのだ。



    ◆



 ――蜜蜂の巣を、我がもの顔で闊歩する雀蜂。

 顔を上げた何人かが、彼が浮かべる去り際の顔を見て――心中に、ほぼほぼ同様の言葉を浮かべる。

 涙を流しながら口の端を釣り上げ、眉間に不快そうに皺を寄せながら歯を食い縛るという一言で表してよいのかも躊躇らわれる醜くも悲しさを滲ませた、哀れな表情。

 誰が、その複雑な顔を浮かべる内心を言語化できただろう。

 ああ、狂った。

 と――云うしか、有り得なかった。

〝くちなは〟の術理は、全員ではないが既に親しい他流派の者も知ってしまっている。

 残された門下生達の心中にあったのは悲しみではなく、尊敬する師が、術理の剽窃で晩節を汚さなかった事への安堵でもあり――また、描いていた素晴らしい天才の台頭という未来の喪失と、身内から殺人者を出してしまった事による混乱だった。

 ――静まり返った刃鳴流道場。

 血溜まりの中に倒れ伏す谷上彦市は、今しがた息子の様な愛弟子に斬られたとは思えぬほどに晴れやかな顔で――呪いや疲労から解き放たれた、眠る幼子のような安らかさを見せていた。

『嗚呼、良かった……』

 彦市が紡いだ言葉は誰の鼓膜も震わせる事なく、赤い泡沫と共に弾けて――消えた。

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