1.〝蛇〟
〝――蛇に、気を付けろ〟
誰そ彼とは、何で読んだ日暮れの表現であっただろうか。
逢魔が時、ともいう。
「……っ!」
川面が反射する血の様な赤。
道を彩る夕陽に目を細める事も無く疾駆する彼の姿を見れば、子供は悪鬼がいると怯えるに違いない。
遣いから帰った忠邦を待っていたのは、訃報と悲報。
そして飛び出す背に送られたのは一体何の比喩か分からない、兄弟弟子の言葉だった。
(やっと隠居が出来ると晴れやかだった師を、よくも……!)
――師である谷上彦市を手に掛けた弟、鉦巻。
その密航を止めて仇を討つべく、二番弟子にして兄たる
到着した時の疲労など考慮していない速度であった。
間に合え、どうして、赦さぬ、如何に勝つ――と。
複雑な想いの爆発力が雪駄の跡を砂地に残す程、強く大地を踏み締めさせていた。
◆
日も暮れて夕闇が落ちた埠頭に、筋骨隆々とした男が現れる。
一瞬、微笑と共に期待の眼差しを向けた鉦巻だったが――誰かを見とめた途端、それが倦んだ感情に変わる。
「……何だ、おまえかよ弦一」
「カネ……っ!」
巌の様な顔の口から、呻きの様な声。
愛称で己を呼ぶ巨漢、
「徒党組んで槍衾でも作れば、下手くそなテメェらでも簡単に殺れただろうに。 いつまで経っても根暗で、一人上手が得意な本っ――当の阿呆だよなぁ、お前は」
「……最早、語る言葉もない」
「とか言いつつ喋くりが止まらねぇの、返事が欲しいって欲の表れだぞ?」
師を目の前で殺された事。 手をこまねいて道場から見送るしかなかった事。 更には侮蔑を混ぜた視線と言葉。それらによって熾された瞋恚が、彼の体温を上昇せしめたのか。噛みしめられた弦一の口の端より、蒸気の様な呼気が漏れる。
(――この驕りは、糺さねばならぬ)
師範を殺める少し前から、目に映る全てを嘲弄し、愚弄する眼差しとなってしまった痛々しい同胞を――他ならぬ、己の命を賭してでも。
「しゃあねぇ……いや、丁度いいか。
寡黙が美徳だと思い込んでいるお前に、ひとつ有難い真実を教示してやろう――」
それを合図としてほぼ同時に、両者が鯉口へと指先を掛ける。
所作一つをとっても、両者には大きな違いがある。
まず、衣擦れ。
鉦巻の所作がほとんど音を生じさせなかったのに対し、弦一のそれは大きく――獣が己の体を揺すって威嚇するかのような響きを伴っていた。
原因は、体格差にある。
両者共に紺色の似た造りの小袖袴であったが、関節の自由が利く痩身の鉦巻に対して、弦一は筋骨隆々という評すら生温い、胴の横幅と前後が等しい巌の如き巨漢であった。全うな戦いであれば、衝突の結果どちらが勝つかは火を見るより明らかであろう。
開けた空間をすら狭いと錯覚させる弦一の威圧感に対し、鉦巻はといえば――逍遥と桜道を遊覧するように気負いなく脱力していた。
――勝機あり。
上着越しに窺える胸骨の上下から、呼吸を乱す機を見切り――弦一が地を蹴った。それに弾かれたような素早さで鉦巻も応じ、飛び出す。
兵法を学んだ事のない者は、俗に一足一刀の間合いにおける切っ先の読み合いや刀運びにこそ勝負の行末を決める要素があると考えるであろう。
しかし、兵法の真髄を会得するに至った剣士達は違う見解を持つようになる。
――刀が届かず遣わない間合いから、剣術というものは始まるのだ。
◆
『伊草兄弟には稽古ができぬ』
それが刃鳴流道場における門下生たちの共通認識で、彼我との如実な才能の隔たりを表す慣用句として使われていた。
兄、伊草忠邦。
そして弟、伊草鉦巻。
両親を早くに亡くし、当時既に刃鳴流師範であった彦市に拾われた伊草家の兄弟。
幼少のみぎりより彦市の愛情と薫陶を受けた二人は、乾いた土が水を吸すが如く成長を続け――齢十にして、飛来する矢を刀で正中から両断する技を咲かせるまでに至った。
この時点で二人は既に間合いへ迂闊に踏み込む事を躊躇わせる、手合わせの相手としては厄介極まりない存在へと変貌を遂げていた。
更に成長するにつれ、体格や術に違いも出て来て個性も分かれ『力の忠邦』、『技の鉦巻』という二つ名じみた呼び方をされるほどの一角の剣士に成長していく。
こと、鉦巻の大成ぶりは顕著であった。
◆
吶喊する弦一の狙いは単純にして明快。
玉砕覚悟の突撃である。
(踏み込み、斬られようとも――斬るし、潰して倒す)
極度の集中によって緩やかにさえ感じる時の流れに身を委ねながら、胸の裡で決意を呟く。不退転の覚悟こそ、彼が鉦巻を凌駕しうる唯一の要素であった。
田舎を出て伊草兄弟という現実に打ちのめされてからこの方、弦一は己が剣で身を立てる才能などない事は分かっていた――分かっていたが、それでもあと数歩の内に激突するであろう鉦巻を上回る武器を己が備えている事を、弦一は自覚していた。
他ならぬ、頑強無比な肉体である。
相手に反撃の嚆矢も与える事無く――津波の様に押し潰す。
死合いの場において、これ以上の手は無いと結論付けた必勝策であった。
どれほど屈強な男とて鼻輪という搦め手なくして、牛を御する事は叶わぬ――しかし、田舎に住まう力自慢の誰もが不可能であったそれを、弦一の怪力だけは可能とした。
『弦』が『一』つという、か細さを想起せざるをえぬ名前。
生後間もなく命を落とす赤子が、まだまだ多かった江戸時代。
子の成長を願う〝呪い〟の一つに、名前に反した大人になる事を願って――例えば、美人になって欲しい子供には『醜子』といった名づけを行うといった風習が存在した。
果たして、親がかけた願いは予想を遥かに上回る形で結実した。
別に刀で斬りつけなくとも、殴れば人は死ぬ。潰されれば人でなくとも死ぬ。
何人も厳然たる暴力の前には屈さざるを得ぬ。
まして、その暴力は――刀まで持ち、武芸の心得まであるのだ。
乗用車があって当然の日本であれば、見開いた眼に月光を反射しつつ疾走する弦一の姿は、人を轢殺せんとする暴走車両に映ったかもしれない。
だが――だが。
彼が轢こうとしているのは、人ではなかった。
◆
鉦巻の腰から刃が閃く。
正しく快刀乱麻。傍から見て、立ちはだかる全てを両断する爽快さを秘めた一刀だった。
が、しかし。
刃は巨漢に遠く届かぬ、一歩半先の空間を通り過ぎていった。
(早い、いや――遠い、遠すぎる)
どうしてそのような所で刀を抜いたのだと、あまりの不可解さに弦一が困惑を顔に浮かべる。
その鋭さたるや、あともう少しばかり弦一の足が早かったなら――太い首を、骨ごと斬り飛ばしていたやもしれぬ。
しかし、それは今この瞬間に有り得ない未来と成り果てた。
(……ああ。何と、哀れな――)
何故、こんな大事な局面で間合いを読み誤ったと弦一が哀れむ。
刀身が鯉口から滑り落ちる様や、早すぎた抜刀を『鞘走った』という。
(逸ったか……)
江戸から未来の日本でも、機を逸って失敗する事の喩えとして用いられているソレは、正に生死を分かつ局面で彼が見せた、失態を表すに相応しい表現といえた。
(あれほど、道場で猛威を振るった男が……こんな、初歩的な失敗をするなど――)
……しかし待たぬとばかりに、憐憫の色を瞳に宿したまま弦一が疾走を続ける。
強すぎるが故に損なわれた謙虚さが、隠しもせずに世の中に対して浮かべるようになった嘲弄が――勝敗の分水嶺となってしまったのだという哀れみを覚えながら。
俺はこうはなるまいと自戒しながら、弦一が駆ける。
刀を鞘走らせる事なく。
遠ざかった鉦巻の刀を見送りつつ、生涯に二度とは起こりえないだろう会心の予感と共に柄をしっかりと握り込んで、刀を――
――抜く事なく、弦一の首が宙を舞った。
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