クルーエルステイン
C
止揚の果てへ
序
彦市の目が剥かれる。
刀がうねった。
ただ、ぐにゃりと曲がったのではない。
(蛇――)
染みついた反射が刀身を正中線に、掌を峰へ添えさせる。
俗に『印の構え』と呼ばれる、これをすり抜けて――蛇が、彦市の喉仏に噛み付く。
否、斬り裂いた。
◆
齢五つほどの子供が一尺の枝を持ち、しゃがみ込んで木の洞を覗き込んでいる。
枝の先端と視線の先には、尾を震わせて威嚇する蛇。
最後の肉親である兄が、唯一遊び相手として許した毒のない
最初は枝でいつもそうしているように、蛇を弄っていただけだったが――いつからか子供の視線は己が持つ枝にこそ、釘付けとなっていた。
その理由を今はまだ彼だけしか知らない。
◆
江戸時代、嘉永4年。
この時代の日本には当然ながら精巧なゴム製品など存在せず――また、そんなものが後世で作り出されるだろうという見識も彦市にはない。
それは門下生も同様で、眼前の光景は青天の霹靂というより他なかった。 「……、……っ――」
空気と血が漏れる濁音が鳴るやいなや、しわがれた手から落ちた刀が床板の上でけたたましい音を奏でつつ跳ねる。
門下生の全員が、思ってもみなかった光景に金縛りとなっていた。
そこに椿の花が落ちる様な、低い音が重なる。
冷えた道場の空気を貫く金属音の余韻は、成人男性が板張りに頽れた音を、そんなささやかなものとしてしまっていたのだ。
喉仏を水平に斬られ、絶命した彦市を見下ろし――
「畜生が」
――吐き捨てる様な下手人の声。
その手に提げられた刀のふくらには、薄っすらとも血が付いていない。
見る者の理解を拒む尋常ならざる剣法であった。
加えて遣い手が、育て親でもあった師範・彦市を絶命させた――他ならぬ彼の一番弟子である
「今夜中に、国を出る。 誅したいという阿呆は奉行所にでも訴えやがれ」
反撃をしてこい、と彼は言わなかった。
この時代になると復讐という行為は、被害者から加害者、加害者から被害者と際限ない仇討ちを呼ぶため厳格に禁じられていた為でもあったが――或いはそんな気骨ある者など、この場に存在しない事を見透かしての煽りであったか。
「刀が曲がった……だなんて与太、信じてもらえればの話だが」
絶命した彦市を尻目に納刀しつつ鉦巻が吐き捨てる。
三源流の流れを汲む、新陰流が天下に名を轟かせて久しい日本。
流派の武名こそ天下に轟いていないものの、刃鳴流の谷上彦市といえば周囲を憚らずに道場を構えられる有数の剣士である事は誰もが疑わぬ事実であった。
それを、こうも容易く。
今日この場には、彦市の新術披露目のため招かれた門下生が二十人揃っていた。
――にも関わらず、凶行を止められなかった。
門下生の中には止ん事ない武家の者もいる。
徳川太平の世であろうと保たねばならぬ体面があった為、奉行所への訴えは彼等にとって有り得ない事だった。
――下手人として、鉦巻を捕まえねばならない。
暴力に屈する剣術流派など、どうあれば信用に値するというのか。
だが……一体、誰が? どうやって?
彼の兄である忠邦を含め道場の双璧とまで謳われた彼を、この中にいる誰であれば捕らえられるというのか。
鉦巻は中背痩躯で、門下生は骨太な長身が多い。集団でかかれば、或いは。
……そう誰かが考えこそすれど、二人目の犠牲者が自分になるやもしれぬという思いに、足が竦む。
誰かの唾を呑む音が、やけに大きく響く。
そんな彼らの心境など素知らぬ装いで、鉦巻が堂々と人の間を抜けていく。
――蜜蜂の巣を、我がもの顔で闊歩する雀蜂。
そう評するが相応しい姿であった。
顔を上げた何人かが、その去り際に浮かべていた表情を見て心中に、ほぼ同様の言葉を浮かべる。
ああ、狂った。
と。
――門下生の心に去来したのは悲しみではなく、描いていた未来の喪失による混乱だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます