3.〝灰吹きから――〟

「止まって下さい師範代っ!!」

「嘉助……っ」

 港へ急ぐ忠邦の前に立ちはだかったのは、三年ほど前に刃鳴流へと入門した、まだまだ成長途上である少年――末弟、嵯峨嘉助さが きすけの姿だった。

(他の門弟を振り払い、鉦巻を探しに出たと聞いていたが――俺を待ち伏せていたのか)

 しかも、ただ立ち塞がるだけではない。

 何を考えてか身長に合わせ選んだと思しき脇差――真剣を差しているではないか。

 ……一瞬、幼少期の鉦巻の姿が重り、振り切れずに止まってしまう。

「どくんだ嘉助!」

「ここを退いたらあなたは鉦巻さんを殺しに行くでしょう!」

「当たり前だ! 俺は、下手人を――」

「忠邦師範代っ!! あなたでは鉦巻師範に勝てませんっ!!」

 小柄な体からふり絞られる、凍てつく夜の空気に熱を与える様な一喝であった。

 だが――

「これは……勝てるかでなく、私一人の問題でもなく道場の沽券に関わる一大事だ。

 ……確かにお上は、無用な死闘を禁じてはいる。

だが身内からならず者を出し、その上始末もつけられぬようであれば舐められるのだ」

 恩師が、忠邦が――高弟達が守り続けてきた、刃鳴流という看板が。

「……勝手に持たれた赦免状ほど恐ろしいものはない。分かってくれ」

 家財の一切合切に貯え――かつて両親を野盗に殺された伊草兄弟は、親類縁者に何も出来ない子供なのを良い事にあらゆるものを毟り取られた。

 もし谷上彦市という恩師に拾われなければ、どうなっていた事か。

 ……恐らく両親の命を奪った野盗達と同じ、捨て犬の様に惨めで何かを奪って喰らう存在へと成り果てていただろう。

 それは非力な流派だと誹られる剣術道場と門弟達にも、起こり得る未来だった。

「もう刃鳴流は谷上師匠一人だけのものではない。だからこそだ」

「分かっています! ですが――それでも行かせるわけにはいきません!!」

 嘉助が脇差を抜き放ち、己の右肩に担ぐように構える。

 一見して、それは攻防の移行に優れた『八相の構え』だった。

「嘉助、何故だ。どうしてそこまで……!」

 八相は鋭い攻撃を放てる上に、防御の為の素早い立ち回りをも可能とする構えである。

 だが刀の切っ先は斜めではなく、高く天を衝いていた。

 握り込みの位置も常より――肩より高い。

 これを『蜻蛉の構え』という。

『その初太刀を何としても避けよ』と言わしめる示現流、必殺の構えであった。

 刃鳴流は門下生に他流派の術理を真似る事を禁じてはない――しかしながら、矜持はあるので好んで用いる事はない。

 それは嘉助にしても同様であった。

 入門したてで気こそ強かったが彼は素直であり、また師や高弟達に誇りを持っていた。

 忠邦の記憶の限り、一度も生意気を言わない事が逆に心配にすらさせる程に。

 道場では、そんな健気さを見せているにも拘わらず信念を曲げて――少しでも勝利を確実なものとする為に、他流の技を使っているのだ。

 ――八相と蜻蛉。

 大きな違いは刀の角度しかないように見えるが、実際は違う。

 人間は真っ直ぐに物を切るような体の造りではない――なので、力を引き出す運用をするためには、切っ先を相手の喉元へ向ける正眼にしても、担ぐ八相にしても、左右の腕で違う働きをさせなければならないという共通点がある。

 右利きであれば、柄を持ちつつも押す働きをさせるために、親指の母指球で押すように握る。

 左手は右の下、引く動作をさせる為に指を絡め柄頭の近くを握り込む。

 そして攻撃の際、右手で柄を押して左を引く事により、高威力の斬撃が生じるのだ。

 ただ殴るように押し込むだけでも、その反りによって刀は容易に対象を切断する――にも拘らず、引き切る剣と呼ばれる所以は、この腕の運びにもあるのだろう。

 話は逸れるが――腕の構造上、この挙動ができない上に左右で力が分散されるという点こそ、二刀流が術としては弱いとされる所以の一つでもあった。

 戻って『蜻蛉の構え』はこの働きを、より攻撃的な運用にしたものである。

 一般に米俵などの重い荷物は肩に担ぐ事が多いが――あれは重心を高い場所に据える事で体重移動を容易にし、更に早く動く為の合理的手段なのである。

 加えて左右の手で役割を分担して持った長物は、驚くほど感じる重さに違いが出る。 

 これを刀で行い相手に有無を言わさず高速で駆け寄り、猿叫という大声を発する事で相手を威嚇、判断力を揺さぶってたじろがせ――一刀で斬る。

 疾走による体ごとの加速も、剣の威力を上げる事に貢献している。

 かくて、単純ながら「叫びで惑わす」「上段の刀に視線を誘導し歩幅を見誤らせる」「間合いを見誤らせ、踏み込みを違えさせる」「体全てを射程に捉えた、重い一太刀を見舞う」――ただの一挙動に込められた多くの意図が、単純な実力差を覆す剣となる。

 対面した敵手が防いだ己の刀を額にめり込ませ、死んだという逸話まであった。

 更に、低身長の者に限って上段に太刀を構える更なる利点がある。

 長身を相手にした時――真っ先に頭や心臓といった致命部位を捉えられるのだ。

(そこまでして、俺を止めたいというのか……)

 小さい体に、震える瞳。

 自分を止める為に、必死に考え抜いた事が滲み出ている……迂回はできるだろう。

 だが、それは彼の誇りに泥を塗る事に他ならない。

 しかし――

「……っ!!」

 ――他ならぬ末弟を斬るという選択を、高弟である彼が選ぶ事はできなかった。

 故に忠邦は下緒を解き、鞘ごと腰から抜いて構える。

 指南剣道兵法鞘鉄刃鳴流は、その名前の通り鉄製の鞘を用いた武芸である。

 刀に加えて、それ以上に重い鉄の鞘は単純な鈍器として見ても優れていると言えるだろう、が――この場合は、嘉助を殺傷しない為という意図が見え透いていた。

 加えて鞘ぐるみで出される技は、流石に挙動の遅さから奥伝どころか初伝にすらない。

「いぇるぅあああああぁああああッ!!」

 高弟にかけられた情けに筋肉が緩む前に、覚えた怒りを猿叫に変えて嘉助が駆ける。

 ――対する忠邦は、正眼。

 突進してくる相手の喉元へ、自然と切っ先を突き付ける為の構えであった。

 だが急にその先端――鞘尻が、戦意を喪失したように地に落ちる。

(僕など……全く相手にならないという事か……!)

 覚えた更なる怒りを薪の如く心の炉にくべ、嘉助が加速。

 やがて、天に掲げられた刃が振り下ろされて――骨が砕かれる硬く鈍い音が、辺りに響いた。



    ◆



「……ねぇ、兄者」

「何だ、鉦巻」

「剣術を習って、勉強もして……僕達、本当に幸せになれるのかな?」

「なれるとも! 師範に付いていけば、きっと俺達は父上や母上の分も幸せになれる!」

 ……兄はいつも自信満々に、そう言う。

 まるで自分に言い聞かせているようであると思いながら、鉦巻は聞いていた。

「それにだ! 剣術を覚えておけば今度何かあった時に、家族を守れる!」

「そうだね……ちゃんと、刀さえ使えていれば父上だってきっと……」

 武家と言っても、この頃になると武士の大半は農民のようなものであり、田を耕して生計を立てるのがやっとな貧乏所帯が多かった。

 兄弟の父が刀より鋤を手とる機会が多かったのも、致し方がない事と言えた。

「あと一番大事な事がある。それは――剣術は、決して誰にも奪われないって事だ!」

「……そうなの?」

「そりゃそうさ! 頭の中にあるものは、学んで憶えたものは決して消えない!

 思い出が誰かと話したとしても忘れられない様に――絶対に盗まれたりしないんだ!」

「そう、なのかな……」

 自信なさげに俯く弟の手を取りつつ、忠邦が空を見上げる。

「ほら、鉦巻――雪が降って来たぞ」

「あ、ほんとだ」

 両親の命が奪われたのも、こんな夜――雪の降り積もる季節だった。

 だが今は――隣の兄の笑顔、寒くなったら出してくれる彦市の汁粉と甘い餅のお陰で雪が降り始めた夜空が、そんなに悪くないものに思えていた。

(誰にも盗めない物を、輝かしいもの物を、誰かに渡せるものを――手に入れていこう)

 もう二度と、誰にも何も奪わせず盗ませず悲しませない為に。

 一角の剣士となる為に。

 ――次に盗人と出会えば、斬り殺せるように。

 鉦巻の心が固まり、人一倍修練に励むようになったのは、この時からだった。



    ◆



 日が落ちた港――夜空を見上げていると、脳裏に昔日の遣り取りが甦ってくる。

 成人となった鉦巻が、物憂げな溜息を吐く。

「――うそつきめ」

 誰にも劣らぬ一角の剣士となった筈の青年から、深々と白い呼気が漏れる。



    ◆



「っは、がっ……!」

 剣を振り下ろすべく踏み出した嘉助の左足の甲に、鞘尻が付き立っていた。

 刃鳴流――蜈蚣むかで

 背丈の低い者の刀が長身に当たり易いのは事実だ。

 であれば、逆に身長が低い者に這わせるような剣が先に当たるのもまた道理であった。

 だが疾走し、踏み出す相手の足の甲に鞘の先端を合わせるのは至難の業。

 刃に晒されながら、そんな照準を合わせるなど――どんな度胸があれば出来るのか。

 おまけに痛みに耐えて、何とか振り下ろした剣を紙一重で避けられてしまっては――もう経験の差が、越え難くある事を嘉助は痛感せざるを得なかった。

 しかし。

「っ、ぐぅうううっ!!」

 痛みを堪え切り砕けた足を踏み出しながら――遠ざかる、嘉助の脇差の刃。

 忠邦がよく見れば、その手から脇差が消えているではないか。

 加えて肩口に持ち上げられた右手には、何かが飛び込んでくることを待つように開かれている、手の平がいつの間にか掲げられていた。

(これは――この感じは……!)

 背筋が泡立つ――これと同じ技を、かつて次期師範を決める試合で見た事がある。

 これは秘剣〝死返シまかるのがえし〟の刀運びだ……!

「っ、ぁ――」

 しかし……甦る筈であった刃は、嘉助の無念の声と共に使い手を離れて後方に落下。

 今の時代も武士の命と言われる刀は、完全に手を離れて死に体となってしまっていた。

「鉦巻が、教えたのか……?」

 痛みに耐えかね両手をついた嘉助を見下ろして問う忠邦に、少年が首を縦に振る。

 ――そういえば、あいつは嘉助を実の弟のように可愛がっていた。

 人一倍可愛がっており――まだ覚えるのが早い術を教え、嘉助に天凛ありと高弟達を驚かせて楽しんでいた事もあった。何も不自然な事はない。

 もし野盗に襲われず母が無事に出産していれば、弟か妹が出来たかもしれないと。

 ……そんな未来もあったかもしれないと、酒の席で話した事がある。

 とはいえ、まさか切り札である秘剣まで惜しまず教えるとは――一体、何を考えているのか。

「あの人は今〝死返シ〟に加え……曲がる剣を使います。新しく考案していたんです」

「曲がる、刀か……」

 敗北が促したのか、嘉助の口から自然に言葉が漏れる。

(鉦巻が他に、そのような術を考案していたとは――それが〝蛇〟の正体か?)

 顎に手を当て口に出さないまま、鉦巻を攻略するための術理が組み上がっていく。

 ……まだ、頭にかかった靄は晴れない。

 曖昧な警告だけで、積極的に鉦巻を探しに出ない門弟達。

 冬場といえ死体の腐敗はすぐに進むので、荼毘に付して送るための人手は確かに必要だが――

「鉦巻さんを、南の埠頭で見ました――早く、行って下さい」

「……わかった」

 嗚咽と共に吐き出された弟の居場所に思考を中断。忠邦が頭を撫でてから走り出す。

 敬愛する師範代を見送りながら、嘉助は己の無力さを噛みしめていた。

 ……敬愛する鉦巻師範代を喪いたくはない。

 しかし刃鳴流も喪いたくはない。

(両方を賭けるような真似を、そもそもさせたくないのに……!!)

 力が無い事は、こんなに辛くもどかしいのかと歯を食い縛り嘉助はその背を見送った。

 そして――忠邦が駆けて行った方とは逆、北の埠頭を目指して歩き出した。

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