⑥ 触れてはならない場所
この世には、触れてはならない場所、というものがある。
触れようとしてもなぜか邪魔が入ったり、触れれば何かしら
そしてそれは案外、我々の住んでいるすぐ近くにあるものだったりする。
これは、そんな場所にまつわるわたしの体験談だ。
わたしが生まれ育った住宅街には、ある一角に林がある。
ちょうど家一軒分の面積の林だ。
よく都市開発の一環で、緑を残した街づくりとして、建物が密集する中に突然木々が生えるスポットが出現することがあるが、これはそういうわけではない。
うっそうと生える木々は伸びたい放題に枝を伸ばし、足場は大人の腰くらいの高さもある雑草に埋め尽くされている。
整備された様子などまるでない土地なのである。
駅までさほど距離はないし、立地が悪いわけでもない住宅街だから、すぐに誰かが購入して家を建ててしまってもおかしくはないのだと思うのだが、わたしが物心つく頃からそんなことは一回もなかった。
そのせいか、嘘か誠か分からない噂話まで広まっていた。
整備しようとすると必ず事故が起きるだとか、真夜中に白い着物を着た女性が林の前に立っていただとか、林の前を通るときにうめき声のようなものが聞こえるだとか。
実際にわたしはそんなもの見たことも聞いたこともなかったが、そんな話を聞いてしまっては、子どもの頃は身近にそんなものがあることがとにかく怖くて仕方なかった。
けれど、ただの林だ。
子どもの頃はその前を通るたびにドキドキしていたものだが、大人になるにつれそんな感情は薄れていき、24歳になった今では、特に気に留めることもなく生きていた。
ある一件が起こるまでは……。
残業続きのある日、翌日が休みということもあり、わたしは同期と飲んでから帰った。
気分が
同期に支えられどうにか電車に乗り込み、自宅の最寄り駅で介護されるようにして降ろしてもらった。
そこからはひとりで、ホームのベンチで水を飲んで少し休み、ようやく落ち着いてきたため帰路へと就いた。
そして、駅を出た直後、突然映像が飛んだ。
「……え、ここ、どこ?」
今の今まで駅前にいたはずが、わたしは薄暗い夜道に座り込んでいたのである。
まずい、酔いすぎていたからどこかで眠りこけちゃったのかも……!
こんなところまで歩いてきて眠った記憶がまるでない。
けれど、わたしは急いで辺りを見回し、ほっと安堵の息を吐いた。
そこは自分の住む住宅街、あともう少し進めば自宅にたどり着くという場所だったのである。
身なりを確認すれば、特に脱ぎ散らかしたということもなさそう。バッグの中の財布や貴重品も無事だった。
時計を見れば、駅を出た時刻からさほど時間が立っていなかった。
たぶん眠ってしまっていたとしても数分程度のことだろう。
そう思って立ち上がり、家のある方向へ進もうとした時だった。
「っ!?」
ここまできてようやく気付いた。
わたしが今まで背中を向けていた方向。
そこには、例のうっそうとした林があったのである。
突如、子どもの頃に聞かされた林の怖い噂話が次々と頭に蘇り、背筋がぶるっと震えた。
こんなにこの林のことを怖いと感じるのは、子どもの頃以来である。
恐怖で強張る足に鞭を打ち、わたしは速足でその場を後にした。
酔っていたにしろ、どうしてよりにもよってあんな場所で眠ってしまったのだろう。
そんな自分の理解不能な行動も怖い。
翌日からわたしは、その林を迂回して通るようになった。
子どもの頃に感じていた林への恐怖心が再発したのである。
しかし、そんな出来事から一週間が経ち、二週間が経ち、そんな恐怖心も薄れていき、いつの間にかまた平然と林の前を通れるようになっていた。
その日もわたしは駅を出ると林の前を通り、自分の家へと帰ってきた。
「ただいまー」
「……」
しんと静まり返った家。
いつもなら両親のどちらかが「おかえり」と返してくれるのだが、どうしたのだろう。
家の中の明かりは点いているし、車は駐車してあったから、留守というわけではないのだろうが。
もしかしたらよくないことでもあったのだろうか。
わたしは一抹の不安を覚え、手洗いや荷物を置くことも忘れ、リビングに通じるドアを開けた。
その瞬間――
「えっ……は!?」
――目の前が真っ暗になった。
それだけではない。空気が変わった。
さっきまで我が家の柔軟剤や芳香剤の香りが微かにし、やや温かみのあった空気から、今は冷たく湿った、青臭い空気へと変わっていたのである。
瞬時にわたしは、別のところへ移動したと認識した。
下ろしていた手に何かが当たっている。手だけではない。下半身を覆いつくすようにして、何か柔らかくも鋭さを感じるものが無数に生えているようだ。
辺りを見回すが、ほとんど闇に包まれていて何があるか確認できない。上を見上げても真っ暗だ。
けれども、数メートル進めば明かりのあるところへ出られるようだった。
わたしは足場を覆いつくす何かをかき分け、どうにかそこまで出た。
そして今まで自分のいたところを振り返り、絶句。
なんとそこは、あの荒れた林だったのである。
背中を悪寒が走り、全身に鳥肌が立つ。
おかしい。明らかにおかしい……!
確かにわたしは今日、この前を通り、ちゃんと自分の家へと帰った。
それがどういうわけか、いつの間にかわたしはこの林の中へと踏み入っていたのである。
まさか、わたしが自分でそんなことをしたのだろうか……?
急ぎ足で自宅へと帰り、一直線にリビングのドアを開ける。
すると両親が目を丸くしてこちらを見ていた。
「どうしたんだ、そんなに急いで?」
風呂上がりのTシャツ姿でテーブルにつき、ビールを手にしていた父がきょとんとしながら訊ねてきた。
「さっき、わたし帰ってきたよね?」
「何言ってるんだ?」
「さっき帰ってきてここのドアを開けたら、急に林の中に飛ばされて……っ」
両親が顔を見合わせる。
そして父が怪訝そうな顔でわたしを見つめた。
「大丈夫か? さっきお前が帰ってきたとか、そんなことなかったぞ……?」
「え……」
どういうこと。
じゃあわたしは、幻覚でも見ていたの?
あんな林で?
酒が入っているわけでも、今日は別段疲れ切っているわけでもないのに。
どうして……?
頭の中にあの林の光景が浮かぶ。
何の音もしない、静かな林。
しかしどこか、その空間は、わたしのことを呼んでいるように感じた。
◆◇◆◇◆
翌日、わたしは会社を休んだ。
わたしのことを心配した両親が半ば無理矢理にそうさせたのである。
昨晩は全く眠ることができなかったから、両親に言われなくても何か理由を作って休んだかもしれない。
昨日、寝床に入ったわたしは、目を瞑るたびにあの林の光景がフラッシュバックした。
そして何となく、そこへ戻らなければならないような強迫観念のようなものに駆られたのである。
寝てしまったらまたあの林に移動してしまうかもしれない。
だから明かりを点けて寝ずに夜を明かしたのだった。
だが、今夜もそんなことをすればさすがに体調に響く。
今日中にどうにか解決しなければ。
わたしは近くの神社を調べ、藁にもすがるような思いでそこへ行ってみることにした。
駅とは反対の方向へ進んでいくと、建物がまばらになってくる。
その辺りの丘の上に、目指す神社はあった。
鳥居をくぐり、石段を登って境内へ。
一応これも効果はあるかと、正しい作法で
その後、社務所の窓口へ行き、受付の巫女にお祓いをお願いしたいと言った。
巫女は「少々お待ちください」と言い残して裏へ行き、3分ほどして神主と思われる初老ほどの男を連れて戻ってきた。
髭を伸ばしているが、ところどころ白くなっている。優しそうな目をした、穏やかな印象の人だ。
「はいはい、お祓いですね。えっと……」
けれども、その神主はわたしを視界に収めるなり、その目が鋭いものへと変わった。
そして訊ねてくる。
「あの林ですか?」
「っ!?」
わたしはドキリとして頷いた。
まさか事情を言い当てられてしまうとは。
「そうですっ」
こうして見抜くことができる神主ならば本当に力があるだろうし信頼できる。
そういった安堵からわたしは、自然と明るい声音になった。
しかし神主は、難しそうな顔で腕組みをする。
「またあの厄介なのが……」
「え」
「ひとまずそちらの本殿へどうぞ。やれることはやります」
案内されるまま、わたしは本殿へ行き、その中央に正座した。
硬い床で膝が痛いが、今は四の五の言ってはいられない。
本殿の奥にはご神体と思われる鏡があり、辺りを囲む神具と共に厳かな雰囲気を作り出していた。
しばらくすると神主が儀式のための正装に着替えて戻ってきた。
冠をつけ、笏を持ち、先ほどまでよりこちらも厳粛な印象だ。
そして神主はわたしの前まで来ると一礼して座り、祝詞を読み始めた。
さっそく儀式が始まったのだ。
するとまた、映像が飛んだ。
「……うっ」
気が付けば神主はわたしの真横に移動し、わたしの背中を叩いていた。
肺の中の空気が追い出され、思わずむせる。
いきなりのことに戸惑い、意味不明なことをしている神主に恐怖心が湧いた。
苦しい、やめてほしい……!
それでも神主は容赦なくわたしの背中を叩き続けた。
涙を流しはじめ、もがいてここから脱出しようとした時だった。
不意に神主がわたしの背中を叩くのをやめた。
「よかった……無事に出ていきました」
出た。つまりはお祓いに成功したということだろうか。
呼吸を整えてから神主の顔を見ると、彼は安心した表情で額の汗を拭っていた。
「よく頑張りましたね。もう大丈夫ですよ」
神主に背中を擦られ、わたしはまたボロボロと泣き出してしまった。
◆◇◆◇◆
涙が落ち着いて外を見ると、夕日が沈みかけていた。
どうやら何時間もお祓いは行われていたらしい。
長時間も諦めずに戦ってくれた神主には感謝してもしきれない。
その数時間の記憶が飛んでしまったが、きっとそれはわたしに憑りついていた何かの仕業なのだろう。
その後、神主から憑りついていたものについて話を聞いた。
「結構ですね、あの林に憑かれた方がここに来るんです」
「そうだった、んですね」
「ですが、今回は成功してよかった」
「え?」
失敗する可能性もあったのだろうか。
「もし、失敗していたら、どうなっていたんですか?」
「だからといってすぐに害が出るわけではないですよ。ただ、このままこの近くに住み続ければいつ連れていかれてもおかしくないので、必ず引っ越してもらうことになったでしょうね。この地域も昔からちらほらとあったらしいんですよ、神隠しというのが。最終的にはそうなっていたかもしれない」
今日ここへ来ていなければ、もしお祓いが成功していなければ、どこか別の世界に連れていかれてしまっていたのかもしれないと思うとゾッとする。
「あ、ですがお祓いが成功したからと言って油断はしないでくださいよ。今後一切あなたは、あの林の前を通ってはいけませんからね。一度憑かれた人というのは、また憑かれやすくなるものですから」
「わかりました」
今後ずっと回り道をして過ごすのは不便だが、こんな怖い思いをするよりマシだ。
ところで、わたしは一つ気になったことがあった。
「えっと、あの林を祓うことはできないのですか?」
神主の顔が青ざめ、真剣な面持ちになる。
「お嬢さん、一度憑かれたあなたにはよく覚えていてほしいんですがね。この世には絶対に、誰も手を付けてはならない場所というのがあるんです」
「それがあの林だと……?」
神主は頷いた。
「我々のすぐ身近にあり、その存在に気付いたとしても、見て見ぬふりをして過ごさなければいけないもの。そうやってうまく共生していかなければならないものです」
「なる、ほど」
わたしが生まれ育った地域に、当然のように存在していた“それ”。
“それ”が本当は得体の知れないものだと知ってしまったとしても、何もするべきではないし、何もできないのだ。
“それ”を理解して、わたしはこれから生きていかなければいけない。
そしてきっと“それ”は、一つだけとは限らないのである。
「おっと、暗くなる前に帰らないと危ないですね」
微笑みながらそう言う神主に見送られ、わたしは神社を後にした。
一時はどうなるかと思ったが、得体の知れないものも祓ってもらえたしよかった。
なんだか数時間前より肩が軽くなったような気がする。
神社の石段を下り終え鳥居をくぐり、改めてお世話になった神社に一礼をしようと振り向いた時――
「え……」
――背筋が凍り付くような気分に突き落とされた。
たった今下ってきた石段。くぐった鳥居。それらがなかったのである。
ただあるのは、うっそうと木々が生え、枯草や枝が散らばる、いかにも整備されていなさそうな坂だけ。
辺りを見回すが、神社らしきものは見当たらない。
また気を失って移動をしてしまったのかとも思ったが、そういうわけでもなさそうだった。
ああ、そうか。
これも“それ”だったんだ。
◆◇◆◇◆
これがわたしの体験談だ。
その後わたしはすぐに引っ越し、一人では実家付近を出歩かないようにしている。
そのおかげか、あれから記憶が飛ぶこともなければ、林に引き寄せられることもない。
ひょっとすると、あの日得体の知れない場所で祓ってもらった効果が意外にもあったのかもしれない。
もう一度実家に住めば分かるのかもしれないが、怖くて真相を確かめようとも思わないが。
結局、あの林も神社も一体何だったのか分かっていない。
ただ分かるのは、“それ”らは触れてはならない場所ということだけ。
何かするべきでないし、何もできない存在。
だから調べてもしょうがないし、“それ”の正体なんて知るべきではないのである。
―了―
5分で読めるホラー短編集 海牛トロロ(烏川さいか) @karasugawa
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