適応
***
わたしの生活は小学生時代の2年半の間にいじめられた経験と、豚美の存在を
わたしは授業をきちんと聞き、ノートをまめにつけ、教科書を何度も何度も読んだ。意味を理解していない場所を探しまわっては、必要な場所に線を引き、気になった箇所をノートに写しとり、興味がわけば図書室で資料を借りたりインターネットで調べたりして、ふたたび別のノートにまとめた。積極的に教師に質問することはなかったが、疑問があれば授業後や放課後に職員室へいき、個別に質問した。(4年生のとき、担任だった女性教諭とはきっぱり距離を置き、絶対に質問しなかった。)勉強は別に楽しくなかったが、やりがいがないわけではなかった。知らない知識を積み上げたり、今まで自分の頭になかった思考が身につくことには充足感があった。勉強を進めるには時間がかかるから、単純にいい時間潰しになった。それに勉強をやっていれば、おのずと成績が上がり、学校側から評価されるのもよかった。
長期間いじめられるということは、仲間をなくしていく過程に適応することでもあった。わたしは小学4年生からポツポツと親しい女友達を減らしていった。常に攻撃され、陰気な空気をまとう人間からは、自然と人が離れていくものらしかった。外見を気にしなくなり、まゆ毛がつながりっぱなしだったのもよくなかったかもしれない。男子たちのわたしへの豚狩りを知らないのは教員たちばかりで、児童は当然、わたしの状況を知っていたから、彼らの
わたしは同じクラスの女子たちから、
いつのまに休み時間もひとりで過ごすようになっていた。孤独はそこまで感じなかった。ただ、いつくるか、どうくるかわからない、男子たちからの攻撃、その痛みにだけは慣れず、いつも緊張して待っていた。そんなわたしにとって集中できる勉強はぴったりの日常行為だった。
わたしは勉強をつづけた。4年生が終わり、5年生になっても友達は作らなかった。別にもういらなかった。豚狩りが始まって以来、わたしはほとんど独りだった。それで平気だった。独りといっても
わたしの生活リズムは一貫したものになっていった。朝、起きて鏡で豚美のことを見て、朝食を食べて学校へ行く。授業をふつうに受けて、あいまに予・復習をする。昼休みと放課後に興味のわいたものを図書室で調べたり、先生たちに質問をする。帰って、お風呂に入って豚美に今日のことを話す。夕飯を食べたら部屋へいき、自分用の学習ノートをまとめる。その繰り返し。
気持ちを落ち着けるために勉強をしておけば、とりあえずわたしの生活はシンプルにまわった。正直、成績だって別に上がらなくてよかった。テストの点を稼ぐためにやっているわけじゃなかった。ただ気のままに、思うままに淡々と勉強をつづけて、勉強に集中して、ずっと勉強のなかに
楽しかった。
勉強の習慣だけが、わたしを安定させた。
不思議なことにわたしへのいじめは突然、終わった。
6年生の卒業式前あたり。気がついたら、あれほど
そうかと思った。通り過ぎたのだ。わたしは狩られるだけ狩られて、それでお終いの役割だったのだ。この2年半はわたしにとって、とても長かった気がしたが、彼らにとってはそうでもないし、すぐに忘れてしまう程度のことだったのだ。そうか。そういうものだったのか。別にもうどうでもよかった。強がりでなく自然にそう思えた。だってわたしからしたって、彼らは結局、豚美の
鏡を見た。豚美がぶうぶう鳴いていた。不思議な豚だなと、あらためて彼女を見つめた。わたしの顔を隠し、わたしの苦しみを食う豚。いったいなんのためにこんな豚が現れたのだろうと考えてみたが、やっぱりわからず、ぶうぶうと鳴く豚美を見てまぁいいかと疑問をなかったことにした。ふと、豚美が
「豚美、痩せた?」鏡に向かって聞いてみた。
「ぶうぶう」
「もしかして、いじめられなくなったから、おなか減ってる?」
「ぶうぶう」
「わたし、あなたのおかげで嫌なことも、頑張って耐えられたよ。感謝してる。もういじめは終わったみたい。あいつら、もうわたしに何をしてたかも覚えてないよ、きっと」
「ぶう」
「でも、もしいじめられなくなったことで、豚美がわたしの苦しみを食べられなくなっちゃうなら、どうしたらいいんだろう? なにか別の苦しみをあげなくちゃかな?」
「ぶうぶう」
小学校を卒業して、中学校にいくと成績が爆発的に上がった。試験で学年一桁台の順位をとるようになった。当たり前だ。ずっと勉強だけしていて、中学でも同じように過ごしていたのだから。両親も中学でわたしの成績が良いことを知ると、うるさいことを言わなくなった。ちょうどその頃、通いつづけていた美容室で「中学生になったんだから」とまゆ毛の脱毛をすすめられ、やってもらった。自分の外見に関していえば豚美が現れてから無関心で、美容師さんに言われるままにしていた。これでつながりまゆ毛ではなくなったらしかったが、自分では顔を見られないし、もはやどうでもよかった。
わたしは余暇時間を勉強にあてて淡々と学習をつづけた。
学年の試験順位があまりに上がってしまうと、無闇にライバル視してきたり、足を引っ張ろうと駆け引きする生徒が出てきたので、意図的に試験で間違えるようにして20番台くらいに順位を下げた。するとうるさいことを言ってくる生徒も減るし、教員や親も安心して放っておいてくれるし、わたしは心置きなく勉強へ
わたしを豚狩りして楽しんでいた男子たちは、同じ中学校でそれぞれの学生生活を
豚美がどんどん
豚美を太らせるために、わたしはたまにわざと食事を抜いてみたり、トイレで喉に指をつっこんで吐いてみたり、カッターナイフで自分の手首を切ってみたりしては、豚美にごはんをあげようとした。豚美はそのたびにぶうぶうといって喜んだ。わたしも相変わらず、豚美を見ると優しい気持ちになれた。でもダメだった。豚美はまったく太らなかった。それどころかジワジワとその脂肪を減らし、顔面の肉を削ぎ落としていった。
わたしは学校で誰とも話さない分、豚美とたくさん話した。勉強でわからないこととか、自分が知りたいと思っていることを話した。授業でどんなことがあったとか、給食はなにをたべたとか、クラスメートたちが教室でどんなことをしていたとか、そういうことをとりとめもなく話した。豚美は終始、うれしそうにぶうぶう言ってくれた。すっかり彼女は大切な相棒だった。しかしわたしは気づいていた。小学生の頃よりも、自分の豚美への関心が薄れていることに。
おそらく勉強の習慣がわたしの生活と心身を安定させ、一方で豚美を痩せさせているのだろう。そんな気がしてしかたなかった。でも勉強……やめられるだろうか。やめられない気がする。だって勉強をやめたら、あの当時の生活に戻ってしまうような気がして怖いのた。またチエブタと呼ばれ、豚狩りをされる日々。あの時、豚美はたしかに喜んでいたけれど、それでわたしはあの長い長い2年半にも耐えられたのだけれど。でも豚美を太らせるために、ふたたびあの期間に戻るのはなにか間違っている気がした。豚美が痩せないための別の方法が必ずあるはずだ。わたしはそれを探すことを決めた。
だんだん、わたしの関心は勉強と豚美に集約されていった。顔を見られない期間が長くつづいたせいか、わたしは自分自身の表情をうまく把握できなくなり、そのせいで感情が大雑把で平坦になっていった。クラスの人々と話すとき、わたしだけ会話のノリが違うようで妙な顔をされるのだが、それで人が離れていってくれるのがかえって助かった。わたしにはやるべき勉強が山ほどあったし、豚美をどうにか太らせることに今は集中したかった。豚美が痩せてくるたびに、わたしは自分の生活を見直して、豚美のお腹を満たせるようになにか苦しめるものはないかと探し回った。しかし、何を試してもまったくダメだった。
やはり、勉強を手放していじめられるしかないのか。迷いは払拭できなかった。思い返してみても、もうあんな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます