定規
***
豚美が見えることは別に大きな問題と思わなかった。それより困るのは自分の顔がまったく見えないことだった。鏡で顔を見られないと、思った以上に現実的な不都合がたくさん起こった。顔を洗ったり、シャンプーをしたり、そういうときに泡が完全に落ちたのかわからない。髪の毛や、まゆ毛がどんな感じなのか、伸びすぎているのか、整っているのか、乱れているのか、常にわからない。肌にニキビができても状態がわからない。歯磨きをしても磨き残しが確認できない。
豚美に慣れたあと、わたしはこういった実際的な問題をひとつひとつ丁寧に解決していった。たとえば洗面台で洗顔するときは確実に流れ落ちる範囲に泡をつけ、顔の周辺から鼻にかけて水を流していった。髪の毛はなるべく手入れをしなくても済むようショートにしたうえで、美容室でおまかせで切ってもらったし、その美容室もこまめに通うために、安いお店を探して母にリクエストした。ニキビができたらそれとなく家族にどんな状態か聞いて、触った感じと家族がいう状態とを連動させて記憶した。歯磨きでは磨く歯の順番を決めておき、万遍なく磨けるようにした。妙なテクニックだけれど、そういうこまごました積み重ねによって、自分の顔が見えない生活は格段に質を上げていった。また、それらの工夫の積み重ねによって鏡に豚美がいることや、自分の顔が見えていない事実は、わたし以外の人間に伝わることがなかった。
唯一、まゆ毛を整えることがわたしを悩ませた。最初、手入れがいらないようになるべく濃く長めにしておこうと考えたのだが、わたしのまゆ毛は手入れをせずに放っておくには、あまりにも濃く、太かった。眉間のあいだにも毛が生えてくるから、放っておくとつながってしまうのだった。母に頼んで、どんなにこまめに美容室に通おうとしても、小学生のわたしには月に一回が限度だったから、まゆ毛がつながらないためには、どうしても自分で
ある日、まゆ毛が伸びすぎていると友達に指摘され、見えない恐怖に怯えながら
豚美はまゆの間から血を流すわたしに嬉しそうにぶうぶうといった。なぜか、いつもよりも嬉しそうで、困ったやつだと思って、わたしは思わず笑ってしまった。とにかく豚美はこちらの苦労も知らずにいい気なもので、いつでも呑気にぶうぶう鳴いているので、反対にわたしが笑ってしまい救われることがよくあった。豚美は見た目こそ
登下校の下駄箱でひとりになったときを狙って突き飛ばされ、掃除のときにゴミ捨て係になるたびに焼却炉でゴミ箱を奪って頭にかぶせられ、雨が降る日の登下校は
わたしがなにもやり返さないでいると罪悪感が芽生えるらしく、「おいやり返せよ」といって
遊びに興奮した男子たちは、常識外に
わたしが痛みを感じ、そのストレスで苦しい表情をしたり、思わず叫んでしまう程度には強く、しかし物理的に肌が耐えきれず傷や
しかしもちろん、じっさいに
帰りのホームルームになると担任の女性教諭がものすごい剣幕でわたしを叱りつけた。わたしとケガをした男子を前に立たせたあと、男子に「誰にやられたの?」と聞き、男子にわたしを指差させると、担任は
教室が一瞬で静まり返った。
わたしはあまりの衝撃で声が出せなくなってしまった。なぜ彼ではなく、自分が怒鳴られているのか。なぜ、わたしがやったことだけが悪として裁かれているのか。先生はなにを見ていたのか。いくつかの出したい言葉もまったく外へ出せなくなった。
担任の女性教諭は場を自分のものとすると、まるであらかじめ決められた芝居を熱心に再現するかのように、「わたしは信じられない」と涙ぐんだような声をだして、自分がいかに仲の良い学級を育もうと努力してきたか、それをわたしがいかに踏みにじったか、傷を負った彼がいかにほがらかで善良な人間か、暴力がいかに恐ろしく愚かで罪深いことなのかを、わたしの眼球目掛けて語った。男女平等についても語った。「女の子だろうがこういった暴力が許されるわけがないでしょう?」と担任は
担任はわたしの眼球を、自分の見開いた目で固定して、自分の発する声を跳ね返し、まるで人間スピーカーのようにして教室中にメッセージを振りまこうとしていた。
わたしは担任の言葉をうまく
家に帰ると父と母へ担任から電話がいったようで、その日のうちに男子の家に謝りにいった。菓子折りを出して、へこへこと頭をさげるわたしの両親に、向こうの両親は「まぁまぁ子供がやったことですから」と言い、言いながら、わたしのことを何度も何度もチラチラと見つづけた。わたしは親といっしょにごめんなさいと言いながらも、心の中では「おまえらの子供は傷をつけないなら怒られないから大丈夫と、わたしへ回し蹴りをいれたり、黒板消しの粉を顔面に擦り付けて食わせたり、カッターナイフを喉元に突きつけて興奮したりしている狡猾な変態だ」と唱えた。
わたしが定規で叩いた男子は玄関に出てもこなかった。家の奥のほうから楽しそうなゲーム音が聞こえた。
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