選ぶ

 ***


 とぼとぼと倉庫に戻り、扉をしめるとボストンバッグの横に座った。三津に扉の鍵をしめられたつもりでこの場にとどまったら、もしかすると豚美が元気になるかもしれないと思った。でも同時に、ダメだろうなと諦めの気持ちが浮かんでいるのも否定できなかった。だって今、わたしはまったく苦しくない。むしろさっき三津をその気にさせるために放ったいくつかのセリフによって気持ちがすっきりしていた。三津はわたしの言葉によってかなり動揺していた。あんなに適当なことで気持ちが揺らいでしまうなんて。訴訟そしょうだなんて。そんなこと、やりかたもわからないし、わたしがするわけないのに。SNSでちょっと見かけたから思わず言ってみただけなのに。あれは本気で心配してそうだったな。もしかしたら三津は今晩、家に帰っても不安が払拭できなくて泣いているかもしれない。今日どころかこれからしばらく、訴訟のことでずっと不安にさいなまれるかもしれない。少しニヤけてしまった。あんなに単純な頭で、心の弱っちい奴に、わたしはいちいちいじめられてたんだよなぁ。

 水の入ったペットボトルをあけてごくごく飲んだ。

 夏を前にした夜はやはり蒸し暑かった。汗が額や首、背中などから吹き出してくるのがわかった。手鏡を見るのが嫌で、そのままぼーっとして過ごした。時間がどのように流れているのか、真っ暗な倉庫のなかではよくわからなかった。川のほうで虫ががちゃがちゃと鳴く声が聞こえた。そのまま10分でも20分でも、水を飲んではぼーっとしていた。いくらでもできた。この引き伸ばされたような、カビ臭い、川べりの時間がずっとつづいてくれれば、豚美は死なないかもしれないと、よくわからない期待を思い描いた。


 時間だけが経って、ペットボトルの水がわたしの体に移動して、余った分の汗が外に流れて、川の水はどこか遠くの海へと去っていった。


「そうか……。結局、わたしもいっしょなのか……」


 ふと気づいてしまった。

 三津がわたしの言葉に怯えていると思ったら、思わずニヤけてしまうなんて。わたしが訴訟を起こせば、あいつの人生を狂わせることができるなんて。しかも奴にわたしをどうにかする術はないっていう、この状況に対して気持ちよくなってしまうなんて。よくよく考えたら、今のわたしがやっていることは、わたしをいじめていた男子たちと大して変わらない。あいつらが豚狩りだとしたら、わたしはだ。復讐を口実に狩りを楽しんでいる。誰かの罪を揚げ足にして、わたしは自分の狩りを正当化して楽しんでいる。

 あぁ、なんて気持ちの悪い。

 わたしは、わたしが気持ち悪いと思っていた奴らと同じだった。同じ穴のムジナだったのだ。なんてことだろう。わたしはあいつらをきっかけに、あいつらから逃れるために勉強だけに夢中になり、いろいろなものごとを諦めて今まで生きてきたように思っていた。すべては奴らのいじめのせいだと思っていた。

 でももしかしたら違うのかもしれない。

 わたしはただいじめを、勉強を、隠れみのにしていただけなのかもしれない。ただただ「いじめ」が目の前に差し出されたから、それを人生の主題にして、他のものごとをまるっきり放り出してしまう言い訳にしていた。じっと苦しみに耐えていたのは、わたしの道徳心でも崇高な思想でもなんでもなく、わたしを狙う男どもへ完璧なやり返しをするため待機して、雪山の狙撃手のように淡々と奴らを狩ることを夢見て生きれてしまう、わたしの好戦的な本性のせいだったのではないか。豚美を生かすためにいじめに耐え抜くなんて、薄っぺらいきれいな感情を信じ抜くことで、


 いじめられるより前の時点で、豚美はわたしの前に存在しはじめていた。そうだった。そうなのだった。豚美はいじめと関係ないのだ。わたしは、わたしが選ぼうとするものごとを、人生のどさくさに紛れて見捨ててしまい、そのまま生きてこなかったか。もしかして豚美は今まで、わたしのをひた隠しにするために、わたしの前に浮かんでいたのではないか。

 わたしはバッグのポケットから、おそるおそる手鏡をとりだした。


 とにかく一刻もはやく豚美に会いたくて、豚美と話がしたくて、でももう絶対に鏡を見たくはなかった。だから頭のなかで豚美を想像して、豚美に話しかけた。


 ねえ、豚美。わたしって結局、そういう人間だったの。


 わたし、勉強しかしてこなかったの。


 なんにも胸を張れるようなものもないの。


 ただなんとか今日まで時間を潰してきただけなの。


 だって、わたし、小学校4年生の頃から、自分の顔を見たことがないのよ。


 すると「知ってるよ」と彼女が言った。


「ぜんぶ、知っている」

「そうよね、あなたに、わたし、ぜんぶ聞かせたものね」

「そうだよ、それに食べたもの」

「わたしの苦しみを」

「ううん、あなたのを」


 ――顔?


「だってあなた、ずっと顔を見ないために、生きていたでしょう?」

「どういうこと?」


 彼女は微笑んでいる。


「ねえ……わたしの顔ってどうなっている?」と彼女に聞いた。


」と、彼女は鏡を見るよう促した。


 言われるままに手鏡をのぞくと、そこには、幼少期以来、久方ぶりに見る、もはや別人としか思えない大人の女が独りで泣いていた。わたしは単純に鏡に映る女を他人だと思った。そのせいだろう。女は醜いわけでもなく、美しいわけでもない顔立ちをしていた。ただただ道端ですれちがい、記憶にも残らず通り過ぎていくような、中間的な顔立ちをしていた。うわぁブサイクと言われることも絶対になく、うわあきれいですねと言ってもらえることも絶対にない、平凡な顔をしていた。そしてわたしはその顔を心の底から嫌悪していた。自分でも驚くほどに嫌悪していた。それがわたしの顔だったのだ。バカみたいだ。


 あまりに悲しくて目を細めると、鏡に映る女の表情がくしゃくしゃに歪んでいった。くしゃくしゃに歪んでいくその顔を見たとき、わたしはすこしだけ女のことを許せるような気分になった。なぜか偉そうに「なんだ、おまえみたいな顔の奴でも必死に泣けるんじゃないか」と思った。それで目の前の女を許してやろうかと一瞬だけ考えたのだが、女はすぐにぼんやりと霞んでしまった。わたしはいったいなにを恨んでここまできたのだろうか。すっかり忘れてしまったのに、感情はいつまでもどこかの時点で止まったまま、心で渦巻いて定規をわたしに突き立てるのだった。意外なことに、あのとき三津に突き立てた定規は、今、記憶と感情の因果によって、わたしに突き刺さっている。

 しかしもう豚美はいないのだ。

 手鏡を放りだした。わたしはこれからどうなるのだろうか。ぼんやりと霞んだ視界では、なにを見ることもできなかった。なにも見えなくなったわたしは、仕方なく、耳をすませて自分の嗚咽おえつの音を聞いた。そしてこれからのことを考えようとした。でももう、本当にわずかでも未来のことなんて、わたしには想像することすらできなかった。今のわたしには今しかないのだった。それが。空白を泳ぐようにもがいた。「今」を生きるのは息を吸って吐くことすら、こんなにも重い。

 両手を全力で握り、顔を覆った。生きるのも、死ぬのも、どちらもあまりに怖かった。わたしはどこへもいけず、川べりの倉庫のなかで溺れていた。

 それでも呼吸がしたくて、もうすっかり、さっぱりわからなくなった自分自身の未来を思い描こうとするとき、嗚咽の向こうで豚美が最後、ぶうと鳴いた気がした。記憶のなかで豚美はいつだってよだれを垂らしてぶうぶうと鳴いているのだった。

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ピギーズ 遙夏しま @mhige

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