お願い

 ***


 一晩中、考えた末、わたしは次の日の放課後、学校の廊下で三津勇斗みつ ゆうとに話しかけた。小学生のときにわたしを豚狩りしていた男子のひとり。わたしが定規で叩き、腕に傷をつけた相手だ。「ちょっといい?」とわたしが話しかけると、三津勇斗はびくりと肩を震わせてこちらを見た。彼はわたしとほとんど視線を合わせず、下を向いて「なんだよ」と言った。聞き逃してしまいそうなほど、小さく、低い声だった。腕の傷はすっかり治っていた。浅い傷だったから、まあそうだろうなと思った。


「ねえ、わたしのこと覚えてる?」

「……まあ、そりゃ」

「突然、悪いんだけど、すこし、話せないかな」

「いや……それは、ちょっと。俺、このあと部活あるから」


 三津は中学生になって隣のクラスにいた。彼は中学生になったらスポーツに力を入れようと考えたらしく、野球部に入って日々、練習に身を入れていた。校庭で泥だらけになりながら走り込みをしたり、ボールを拾ったりしていた。下級生として先輩からのしごきにも懸命に耐えているようだった。青春ってやつの真っ只中にいるみたいだった。ほんの1、2年前までわたしのひたいを定規で掻き切ろうとしていたのに、いい気なもんだなと思った。


「じゃあ部活のあと、話させて」

「え……、困るよ。練習、終わるの遅いし」

「別にかまわない」

「いや、でも練習後に女子と話してたなんて知れたら、先輩からなに言われるかわかんないし。それに……」

「それになんかと仲がいいって、周囲に思われたら困る?」

「……いや、そういうわけじゃ」

「ねえ、あなたや他の男子がわたしにしたことをとがめたいとか、そういう話じゃないの。わたしは折り入って相談があるの。とても大事な」

「相談? 俺に? 大事な……?」

「そう」


 三津は一瞬、わたしの顔を向くと、すぐにまた下を向いた。黙ってしばらくなにかを考えているようだった。わたしは彼に向かって「たしかに三津くんにいきなり相談があるなんておかしいと思って自然だと思う。豚狩りと関係している相談なの。でもあなたに罰を与えるとか、そういう話じゃない。変な相談だけど、わたしにとって深刻なことなの。一度、話だけさせてほしい」とまくしたて、最後にこうつけくわえた。


「あなたのお家、一度、両親と謝罪にいったことがあるからし、あらためて、うかがわせてもらってもいいんだけど……」


 三津はあきらかに動揺した顔をして、「なんだよ……。なんなんだよ……」とぶつぶつ言った。


「練習、もうすぐ始まっちゃうんでしょう?」

「……おまえ、気持ち悪いんだよ」


 わたしはなにも言わなかった。なぜか三津のほうが肩をブルブル震わせて、目を赤くさせていた。三津はくそっと小さく言ったあと、「練習、終わったあと1年はコート整備して、帰れるのは19時だから、19時半だ」とわたしに答えた。わたしは「19時半に〇〇川の河川敷」と伝えると、三津は一度だけうなづき、すぐに小走りでその場を去っていった。河川敷は家から歩いて20分くらいのところにある。おそらく彼は来るだろう。わたしはトイレにいって痩せこけた豚美に「大丈夫。わたしが絶対に死なせない」と唱えた。豚美はかすれた声でぶうと鳴いた。


 図書室で勉強をして時間を潰した。今、授業でやっている場所から半年分くらい先まで、わたしは予習をおこなっていた。教科書は興味をもってページをっていると、とてもよくできた解説書だった。覚えるべき内容が端的に明解に書かれている。とても簡潔明瞭で無駄がない。限られたページ数のなかに、これでもかというくらい学ぶべきものごとが詰まっている。まるでみちみちに詰め込まれた弁当箱のようで、さすが義務教育に使われるだけある優良な学習書だった。その分、歴史など、広範に体系的な知識を得させるため、詳細を端折はしょって説明しており、知識を展開したいときに物足りない部分も出てくるのだが、今はインターネットがあるからいくらでも追加で調べものができる。情報の補足が効く。学校の図書室にも基本的な勉強ごとであれば、関連書籍が豊富にある。

 わたしは興味のわく端から勉強事項を頭に詰め込んだ。数学のように公式の使いまわしを覚えるべき内容はノートで何度も問題を解き、飽きてくると自分で問題をつくって解いた。喉が渇くと席を立って廊下の水道まで水を飲みに行き、尿意を催したらトイレへいって用を済ませ、鏡を見て豚美の様子を観察した。豚美は息も乱れはじめていた。ぶうぶうと鳴く声に混じって、喉の奥からひゅいーひゅいーと空気の漏れる音がした。時間が経つのがやけに遅く感じた。


 図書室の時計が17時を過ぎたタイミングで家に帰ることにした。三津はまだ野球の練習に勤しんでいる頃だろうか。待ち合わせは19時半といった。それまでに準備をしようと思った。帰ってから、すぐにシャワーを浴びると、親のクローゼットを漁って合宿とかに使えそうな大きなボストンバッグを取りだした。辞書を一冊とノートを一冊、手鏡をひとつバッグにいれた。それと机のなかから使わずに貯めていた小遣い、2万円分を出して財布にいれた。携帯は机にしまっておいた。制服を着て、自転車に乗って近くのスーパーへ行き、2リットルの水を半ダースケースでふたつ買った。それをバッグに詰め込み、ほとんど引きずるようにして自転車に乗せ、歩いて河川敷へ向かった。バッグはとても重かった。時計を持っていかなかったから時間がわからなかったが、河川敷へ着く頃にはすっかり日が暮れていた。でもまだ人の顔を判別できるくらいの明るさだったが、街灯はついていた。季節が夏を迎えようとしているのだ。


 三津は先に到着していた。わたしが大きなボストンバッグを引きずってはぁはぁしながら河川敷に現れたので、かなり怪しんでいるようだった。たっぷりわたしとの距離をとって、三津はこちらを向いて「来たぞ」と声をあげた。三津のうしろでざぁざぁと川が流れた。あまり大きくない川だったが、水の流れる音はしっかりと聞こえた。


「ありがとう。遅れてごめん」

「いや……べつに」

「そう、よかった」

「なんだよ、そのでかいバッグ」


 三津がボストンバッグを見つめた。


「あぁ、水よ」

「水?」

「わたしの飲み水」

「そんなに飲むのか?」

「人が一日に飲む水は2.5リットルくらいらしい」

「は?」

「これからわかるから、まずは話をさせてほしい」


 三津は野球のユニフォームを泥で汚したまま、警戒した顔でこちらをずっと睨んでいた。


「まず、結論を先にいってしまえば、三津くんへのお願いごとっていうのは、また、わたしをいじめてみて欲しいってことなの」

「はぁ?」

「また豚狩りをしてみて欲しい」

「なに言ってんだ」


 三津がいよいよ怒りだしそうな顔をしているのがわかった。混乱と緊張で彼が今にも怒りださないか、わたしは心配になる。夜がだんだんと近づいているし、暗い時間帯に待ち合わせしたのは恐怖感を刺激して失敗だったか。


「落ち着いて聞いてほしいの。さっきも言ったとおり、わたしは以前された豚狩りのことを、今さらとがめたいわけじゃない。これには別の事情がある」

「なんだよ。ドMにでもなったか? 気持ち悪い。マジでなんなんだよ」

「ちがう。ちょっと理解しがたい話かもしれないけれど、聞いて欲しい。わたしは今、助けたい存在がいるの。人ではなくて、動物で。それはあなたとは直接は関係ない。でもわたしの精神的な部分が関係していて、そういう意味だと当時のあのがとても大事なの」

「意味、わかんねぇよ」


 三津がかなりイラだっているのがわかる。彼は恐怖している。わたしに。わたしの意味不明な言動に。暮れていってしまう今日に。ほとんど怯えていると言ってもいい。わたしは彼の表情をみて、真正面から説明し理解してもらうことを諦める。とにかく行動に移してもらわなければならない。豚美を生かさなければいけない。


「ねえ、三津くん。なんで、あんなことしたの?」

「結局、文句言いたいだけだろ?」

「そういえる立ち場なの? あなたたちはきっと、あれがじゃれ合ってただけとか、ちょっと悪ふざけしただけとか言い訳を用意してたんでしょうね。それで実際、言い訳としてもうまく機能していた。あなたたちは誰が主犯でもなく、罪悪感も持たないまま、わたしを豚とおとしめて、暴力をふるった。覚えてないでしょう? わたしの耳をほうきで叩いたことを。脇腹を何百回とつねったことを。家庭科の裁縫用の針を背中やお腹に刺してきたことを。上履きを男子トイレの大便器に捨ててわたしに取りにいかせたことを。真冬に水道の蛇口から水をかぶせてきたり、わたしの体操着の乳首や股間に安全ピンで穴をあけたり、跳び箱のなかに休み時間中わたしを押し込んだりしたことを」

「……」

「あなたたちは覚えてないでしょうよ。遊びの一環、飽きたら終わりのゲームのひとつだったでしょうから。でも、わたしは人生を侵害された」

「……悪かったよ」

「悪かった? 悪かったで済むと思っているの? 悪かったといえば、あれがなかったことになるの? どれだけ便利な、恵まれた立場にいるのよ、あなたは。じゃあ、今からわたしが2年に渡って同じことをしてあげようか? それで"悪かった"と、ひとこといって、それであなたはなかったことにできるの?」

「……おまえ、調子にのるなよ?」

「どうやったら、その台詞せりふが出てくるの。よくもそこまで図々しい魂をもった人間になれるものね。ねぇ、豚の丸焼きっていって、あなたたちがわたしの手と足を掴んで、尻を出させて振り回したの覚えてる? 傑作だったんでしょう? 爆笑してたもんね。わたしのパンツをおろして尻を出させて、おまえのけつなんか見たいやつなんていねぇだって。笑っちゃうよね。じゃあ下げるなよって。わざわざ。股間も見えてたんじゃないかな。あの時。見てたんでしょ? それで興奮してたんでしょ? ブサイクな、豚女の尻と股間を見たかったんでしょ? あなたたちは」

「見てねぇよ」

「気持ち悪いのはどっちよ?」

「いい加減にしろよ! テメーコラ」


 三津が叫んだ。でもわたしは彼の剣幕を受け入れる気はさらさらなかった。今ならバットで顔面を殴られても怖くなかった。感情が鈍麻して、わたしは目的に集中していた。豚美を生かすのだ。豚美を助けるのだ。豚美が死ぬほうがよほど怖かった。今はそのことしか頭になかった。


「おいテメー、望み通り、ボコボコにしてやろうか?」といって三津がバットを握って、こちらにせまってきた。単純な奴で話がはやくていいと思ったのもつかの間、いざわたしの目の前までくると、胸元を掴んで「おい、コラ」と言っただけで、そのあとは何もしてこなかった。どうやら、わたしを殴ったあとのことが心配で動けないらしいのだ。もし学校にバレたら野球部員が暴力沙汰を起こした問題になってしまう。部員に迷惑がかかるし、そうすれば怖い先輩が自分を叱ってくる。学校での立場も危うくなる。そういう諸々のことが気になって、おもてだった攻撃をすることができないのだ。そうだ、そうだ。男子たちはそういう奴らだった。だから複数人で誰がやったかわからないようにしたり、脇腹をネチネチとつねって見えないところを攻撃したりしていたんだもんな。

 わたしは小さくため息をついて、「わたしをバットで殴って問題になるより、もっとスマートに痛めつけられる方法がある」と三津に言った。


 わたしは豚美のことを三津に説明した。小学校4年生から自分の顔が見えていないこと。自分の顔の前に豚がいること。その豚がわたしの苦しみを食って生きていること。名前を豚美と名付けていること。2年に渡る三津ら男子のいじめの苦しさも豚美が食べてくれたおかげで耐えられたこと。しかし中学生になってからというもの、いじめはなくなり、豚美がどんどん痩せ細っていること。別の苦しみではどうやら豚美の十分な餌にはなっていないらしいこと。ここ最近はいよいよ豚美が痩せこけて、死んでしまうのではないかと心配していること。

 手鏡をバッグから出して豚美の顔を映して、三津に見せてみた。三津は当然、豚美を見ることができなかった。「いや、おまえがいるだけだけど……」と言って、三津は怪訝な顔をしたまま、こちらをずっと見ていた。

「……それでじゃあ、何をしてほしいんだよ?」しばらく黙ったあと三津が口を開いた。しめたと思い、わたしは「あそこのに閉じ込めてほしい」といって河川敷の隅にある器具倉庫を指さした。そこにはコンクリートブロックで作られた小さな小屋があった。河川敷で行われる地域イベントのために土をならしたり、白線を引いたりする器具が入っており、要はたまにしか使われない物置だった。倉庫は鍵がしめてあるけれど、すぐ横に鍵ボックスあって、そのボックス自体にはいつも鍵がかかってないから、実質、倉庫は誰にでもあけしめができる場所だった。


「閉じ込めるって……おまえを? 俺が?」

「そう」

「なんで」

「言ったでしょう? 豚美を助けるためよ」


 三津はあきらかに緊張と不安で気分を悪くしていた。暗がりになってきていても、彼の顔から血の気がひいて青くなってきているのがわかった。へたをすればその場で嘔吐しそうな顔をしていた。わたしは三津に倒れられては困るから「もちろん、あなたがやったなんて言わない。これはわたしが個人的にあなたにお願いしたことだから」と言ってみた。三津はほとんど聞こえていないようだった。もはや脅しでしか動かないか。


「ねえ、知ってる? 今、アメリカではいじめられた子が復讐する方法が確立されているのよ。とてもシンプルな話でね。いじめた子が進学を検討するタイミングで、いじめに関する訴訟そしょうを起こすの。訴訟に勝とうが負けようが、裁判の過程で事実確認がされ、問題が明るみに出る。問題がうまく隠蔽されたとしても、いじめていた本人は大事な受験のタイミングで致命的に足を引っ張られる。いじめで訴訟を起こされるような人間が、推薦なんてもらえるわけないし、受験だって他の子と比べて不利にならないわけがないもんね」

「はぁ? はあ? はぁあー!? テメー! マジでブッ殺すぞ!」


 三津がわたしを突き飛ばし、こぶしを振りおろした。わたしの顔を殴りたかったらしいが、おそらく途中で冷静になったらしく、彼の振りかざしたパンチはわたしの左肩に当たった。腕の付け根あたりに激痛が走って、息が急に浅くなった。三津は「おいコラ」とつづけて、わたしの顔を見ている。もう一発、入れようかわたしの表情からうかがっているようだった。別にもう一発でも二発でも打ち込んでくれればいいと思った。ついでに歯も折れていい。鼻も。どうせわたしには自分の顔は見えない。「そうよ。ブッ殺してほしいのよ」と言ってみた。三津の動きが止まった。


「ブッ殺してほしいの。でもあなた、証拠を残さず人をきれいに殺したことある? とても難しいらしいのよ。指紋とか。もう肩にできたこの傷だけで警察にはわかっちゃうくらいらしいの。わたしはいじめてほしいけど、三津くんにあとあと迷惑をかけたくない。だからお願い、倉庫に閉じ込めておいて欲しいの。10日間。そのあと、わたしを倉庫から出してほしい。それなら犯罪にもならないでしょう? 閉じ込められたわたしが苦しむのを見に来たっていい。小学校のときの男子たちを連れてきたっていい。とにかく、わたしは豚美のために苦しみたいだけなの。わたしだってムダに死にたくはないの。被害届なんて絶対に出さない。約束は絶対に守る。あなたの人生の邪魔をする気なんてさらさらないのよ。そもそも、もし邪魔をしたいなら、とっくに訴訟でもなんでもやっているでしょう? そんなこと、わたしにとって本意じゃないの。わたしをいじめてきた人間が不幸になろうが、わたしの過去は救われないの。わたしが救いたいのは豚美なの」


「やっぱり、おまえ、気持ち悪いよ」と三津がいった。


 わたしはうん、そのとおりだと思って、三津にむかって静かにうなずいた。


 倉庫の扉を開けてなかを覗くと、川の近くだけあって倉庫のなかからひんやりした空気が出てきた。懐中電灯をつけてカビ臭い室内に足を踏み入れると、ほこりがふわふわと舞った。6畳程度の空間に物が詰め込まれ、わたしがいられるスペースは畳1枚分、あるかないかだった。小さな窓の向こうに川が見えた。

 もうあたりはすっかり夜だった。

 三津は倉庫の扉の前で気味の悪い顔をして立っていた。「わたしが扉をしめるから、そうしたら鍵をしめて」というと、彼は無言でうなずいた。ボストンバッグを置いて、扉をしめた。これから10日間、わたしはここに閉じ込められるのだ。

「いいよ、しめて」と扉の向こうに言ったが反応がなかった。もう、鍵をしめたのだろうか。しばらく待ってみてから扉のノブをつかんだ。鍵はあいていた。外へ出ると三津はいなかった。逃げたのだ。


「……あたりまえか」


 わたしは豚美を救うことに失敗したのだった。

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