短編書きました。
2.7万字。
ピギーズ。
豚ちゃんの話です。
『ピギーズ』
https://kakuyomu.jp/my/works/16816700426146583345今回、自分のための話っていう側面が強いので、ほぼ誰にも読まれないだろうなって思い。
以下、ネタバレ含みますが意図や解説を書いておきます。
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まぁー今回、なんだかいじめられてばっかりでいい話じゃないんです。書いてても気が重くて、なんでこんなもの書きたいと思ったのか。少し前の自分の意向がよくわからないから書いて整理しておきます。
この話は小4のときに私自身がいじめられた体験をベースにしています。(ベースにしているといっても要所をネタにしているだけで話自体はだいぶ違います。)
いじめられたといっても、正確にいうと「いじめだ」と教員から認定されただけで、あんまり私自身はいじめられたと思っておらず。むしろいじめてきた人間のほうが「あれ、悪かったよね」的にあとあと気にしてて、いやまぁ小学生だしなーみたいな感じで終わったので、昨今のニュースになるようなやつとは悪質さが違います。
同窓会をすれば今もいじめてた人々と仲はよく(ここ数年はコロナでできてないけれど)、そもそも友人たちはわりとみんないいやつです。本当にいじめに悩んでいるかたがたからすれば、わたしのやつはいじめじゃないと言われても言い返せません。
だし、もう私は35歳だし、10歳頃の記憶なんて、とっくの昔に過ぎた話でもはやどうでもいいといえばどうでもいい。
でも今、大人になって、自分に子供もできて、あらためて当時の自分の立ち位置を見れば、あれはいじめだったんですよね。
・カッターナイフをつきつけられた
・傘で刺された
・服を脱がされた
・作ったものを壊された
・サッカーボールを顔面に当てられた
・ものを隠された
・蹴られ、叩かれ、殴られた
ひとつひとつだけなら、ふざけあっているで済みますが、攻撃は理由なく執拗に継続されました。相手はそのたびにエキサイティングで楽しそうで、わたしは毎回、別に楽しくなかったしやめてくれよとずっと思っていた。
私は小学生の頃、背が大きいほうで真正面からやりあえば相手に勝てました。だからやられてて耐えきれなかったら背負い投げとか仕返してすっきりしていました。だから別にいじめじゃないとずっと思っていたけれど、わたしから何かをすることは一切なく、ただ相手起点の攻撃を受けつづけていたから一応、いじめだったんですね。
そしてそう思って記憶を掘り起こせば、きつかったときもあったなぁって気がします。肉体的な辛さが中心で、精神的な辛さは大きくなかったけれど、2年に渡って毎日、いきなり攻撃を受けるなんていうのは、たしかに小学生が受け止めるにしてはあまりにあれはきつかったのです。
で、今回の話は、そういう「きつさ」みたいな部分に特化して拾いあげて書いてるからこんな話になるのは仕方ないのかもしれません。
作中に出てくる豚美の存在は、いじめを受けるきつさに対する自己対処のひとつとして描いています。
実際、こういういじめみたいなものを解決する場合は、「他者」の存在が必要不可欠であり、同時に、他者に「助けて」と頼ることはほとんど不可能に近いのです。実体験的に考えても。
相手の立場でものを考えてしまう人間と、自分の立場でものを考えてしまう人間の力関係の話なので。そもそもそういうパーソナリティや関係性を狙っていじめが起こるのだから、「言ってくれれば助けたのに」というのは、後出しジャンケン並にあり得ない話だったりします。
(そういう意味だと世の不幸ないじめの話に発見の救いがないのも、実際のところ、そうだろうなと思います。本気でいじめを解決しにいくなら、常日頃、かなり強制的にアウトリーチで調査をする必要があると、私は思っている。)
チエはいじめが始まったとき、他者を頼りたいけれど頼れない環境のなかで、なんとか「他者」を介した解決方法を無意識的に求めていました。豚美はそこに当てこまれたわけですね。
そもそもを辿れば、豚美はいじめの発生する前に、ある日
、突然、見えるようになった存在で、そこにはチエの成長過程(変化の過程)における別の問題が隠れているわけなんですけど、まんまとチエは豚美をいじめを耐え抜くための素材として使うわけです。
ただ豚美は実際、物理的に何か助けられる存在ではないので、「自分が豚美を守る」という役割意識の文脈のなかでしか、いじめ対策には使えない。時間の経過とともにチエは別の手段を求めだして、次に勉強への集中をとるわけです。
結局、チエ自身の行動如何に関わらず、いじめは男子たちの精神変化によって自然に消滅します。まるで嵐が過ぎ去るような変化の仕方ですが、いじめ自体は人為的なものなのでチエは安心できません。自らが構築したスタンスを信用して崩さず、勉強家として中学生になっていきます。
(↑このへん、私自身は豚美が見えた経験はなく、小説とは全然、状況がちがいます。私は勉強にすがることはなく、スラムダンクを読んでバスケへハマり、スポーツに邁進していきます。男なので肉体的な強さを増強することによって、いじめを解決しようと考えていたのでしょう。)
で、勉強を中心にまわるチエの生活が安定しだした頃、豚美が痩せてきて最後へ向かうわけですが、チエにおける本来あるべきだった問題が顔を出しはじめて物語は終わります。チエはもともと目の前に差し出されたものを素直にバクバク受け止めていくクセがあって、「いじめ」もその一貫としてスルーせずに受け止めちゃってたんですね。それで深みにハマってた。そして本来、成長過程で彼女が気にしていたのは自身の「顔」なんですね。単純に、愚かしいくらいに、自分の顔をコンプレックスにしていたんです。それは年齢いかんを問わず、彼女のごく個人的な問題意識だったので、受け止めるタイプの生きかたをしていた彼女は自分の内から湧き上がる問題には気づきにくかったわけです。
ちゃんちゃん。
今回のピギーズにおいての完結は、新しい問題との対面によって話が終わります。すっきりしないけれど、現実的なものごとの捉えかたとしては、これがいいのかなと思いました。
醜いアヒルの子は白鳥だったっていうのは、もう、今の時代だとあんまりハッピーエンドにならないらしく。たしかに醜いアヒルだったら、醜いアヒルの魅力があって、そういう生きかたがあるだろうよというのが今っぽい。それはそのまま私自身の10歳の過去を勇気づけてくれる気がするなと思い、でも10歳って「そのままでいいんだよ」なんて言葉、信用したくないですよね。(もっとよりよい自分になれる可能性を信じたい。)
アレコレ、考えた結果、今回のこれだったんですけど、果たして正解だったのかどうかは、しばらく自分のなかで咀嚼しながら考えていきたいと思います。
長々とすみませんでした。
よろしければ、読んでみてください。
『ピギーズ』
https://kakuyomu.jp/my/works/16816700426146583345