顔の前に豚
***
ある日、鏡を見ると自分の顔が豚になっていた。
それは小学校4年生になってすぐのときに起こった。鏡を見ると、わたしの顔がくるべきところに「豚」があった。とてもリアルな、まったくのデフォルメのない、現実にいる豚の顔だった。顔だけだった。体がない。ただ豚の顔だけが、まるでわたしの顔とすげ替えられたかのように、ふわふわ浮いて存在していた。豚はぶうぶうと鳴いてわたしに何かをねだっていた。
最初、わたしは自分がとうとう本物の豚になってしまったのだろうかと考えた。自分のことをもの心ついたときから豚だ、豚だと思っていたから。だからとうとう顔が本物の豚になってしまったのだ、と。しかしすぐに、そうではないと気がついた。ためしに顔を触ってみた。頬に触れるとしっかりわたしの顔の感触があった。わたしの顔は変わらず存在しているのだ。鏡をみると自分の顔に触れている右手は豚の顔で隠れていた。
つまり鏡のなかの位置関係としては、わたしの顔の前に、顔面だけの豚が浮いていた。豚はわたしの意思とは無関係にぶうぶうと嬉しそうに鳴いていた。わたしが顔を動かすと顔の動きと連動して豚の顔も動いた。まるでわたしの顔のようでありながら、そうではない。スマホのカメラ上で合成されたアバターみたいにわたしの顔を隠す豚。
……いやいや。どういうことだ?
はてながいっぱい浮かんだ。なぜ豚がわたしの顔の前に浮いている? なぜ鏡には映っているのに、現実にはいないのだ? この豚はいったい何者なのだ?
もちろんわからない。
わたしは慌てて台所へいった。母に「ねぇ、わたしの顔、変じゃない?」と質問した。夕飯をつくっていた母は、なにごともないように「別にいつもどおりじゃない? どうかしたの?」と答えた。「豚が見えない?」と聞くと、すぐ「は?」と言われた。
洗面所に戻って、もう一度、鏡を見た。やはり豚の顔が映っていて、わたしの顔は見えなかった。しばらくすると、おじいちゃんが洗面所に入ってきて、わたし(つまり豚)の顔を見たが、なにごともないように手を洗って戻っていった。その瞬間、わたしはこの豚が自分にしか見えていないだろうことを理解した。
しばらく鏡を見つづけた。
鏡の豚はぶうぶうと鳴いた。よくよくみると、どうやらわたしはこの豚の顔を昔から知っているようだった。それはわたしがわたし自身を豚と思うときに、端々でなんとなく思い描いていた豚のイメージ像だった。おそらく、そうだった。わたしのイメージが鏡の向こうで本物の豚になっているようなのだ。その証拠に鏡の豚はふつう一般的な豚よりもやけに太っていた。頬はでっぷりと肉をもち、目だってわたしみたいに細くつぶれていた。口のまわりにはなにを食べたのか茶色い食べカスが散らばっていたし、肌は妙に赤みを帯びて、顔中にボツボツとニキビらしきものができていた。豚は
イメージの豚はわたしの顔を隠し、わたしの動きと同期されたように鏡の向こうで移動した。「お面みたいだ」とわたしは小さな声でいった。ぶうぶうと鳴く豚は、わたし自身の意識とは切り離され、ある程度、自立した存在としてわたしにふるまっていた。しばらくジッと豚を見たが、目の前のそれは特になにをするでもなく、ふぅふぅと息をしてあちこちに視線を向けて観察しては、しばらくするとわたしの方を見てぶうと鳴いた。「ぶうって……」というとまた豚はぶうと鳴いた。
わたしのことがどうやら見えているようだった。
その日から豚の顔との共生がはじまった。自分の顔の代わりに、毎日、鏡に映る豚の顔を見た。わたしの顔があるべきところに豚の顔があるのは、最初、違和感だらけだったけれど、意外にもすぐに慣れた。
むしろ慣れてくると、急に親近感がわきはじめた。
わたしは鏡の向こうにいる豚へ名前をつけようと思った。とくに思い悩むことなく、その場で思いついた「
自分の顔が見られないことでわたしは自身の気持ちがいくらか楽になっていることに気づいた。鏡を覗くたびにチエブタでブサイクな女子の顔を見ずに済んだからだった。わたしはブサイクでデブな女を見るかわりに、毎回、呑気な豚を見ればいいのだ。とくにかわいいわけでもなく、どちらかといえば醜く、わたしのように太っていて、しかしまったくわたしではない豚。それを見ることで、わたしはわたし自身の容姿に対するアレコレを、わずかでも思い起こす必要がなかった。そのことで明らかに心は軽くなっていた。とても不思議に思った。わたしは自分の容姿を好んでいるわけではないが、とくべつ嫌っていたわけでもなかったから。
豚美を見るたびに「豚美は何者なのだろう」と考えるのは落ち着かないので、自分なりに一応の結論をつけてみた。おそらくこの豚はわたしの豚さがあまりにすごくて、自分からこぼれ落ちたイメージ的存在なんだと考えた。マンガだか、アニメだか、ゲームだか知らないけれど、そういうのでよくあるじゃないか。不思議な力によって鏡の向こうにだけ存在できる、わたしだけがわかる存在。誰もが遭遇できるわけではない、奇跡的な出来事ってやつだ。それがわたしのもとにやってきたんだ。そう思った。
そう思ったからって別にどうだって話だけれど。でもとにかく豚美はお化けだとか妖怪だとか、そういうこちらに害をなす存在でないことはわかった。むしろ神がかった温かみのある存在に近い。豚美を見ると妙に安心した。豚美は昔からわたしの顔に存在していたかのように、鏡の向こうからこちらを見てぶうぶうと鳴いた。
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