撞球決闘(pool bar poor boy)
K-enterprise
pool bar poor boy
キューを握る右手を一度緩めると、手のひらに温かみが広がり、思いのほか強く握り込んでいたことに気付く。
左指で作ったブリッジを解き、もう一度キューのタップにチョークを塗りつける。
「ヘイヘイ、バッタービビってる」
オレ、手玉、ナインボール、コーナーポケット、その延長線で、変顔をした隆幸が煽ってくる。
ビリヤードはメンタルスポーツだ。
過去、どれだけイージーなラインを慢心や動揺でミスしたことか。
それなりに慣れた今、この程度の挑発、森の奥の小鳥の囀りほどにしか感じない。
直上の照明に照らされたテーブルの上、緑の平原に転がる白と、白黄色の玉の二つを睨みつける。
コーナーポケットとの位置関係は若干のズレ。
白の手玉を、9の文字が書かれた玉の中心から数ミリ右に当てる必要がある。
懸念は、ナインボールの行方だけではない。
スクラッチ、つまり手玉もポケットに入る通称「共倒れ」を防ぐ必要がある。
最少の撞き速度で、まっすぐにキューをリリースする。
バックスピンも考えたが、上下のブレによる不安定な挙動を恐れ、シンプルにど真ん中を撞く。
コン、カン。
立て続けに響いた音に続き、ボスッっとコーナーにナインボールが落ちる断末魔の声が聞こえる。
「ウッシャッ!」
オレのガッツポーズに落胆する隆幸。
「なんだよ~9以外は俺の方が多いじゃんよ~」
「ナインボールのルールを否定すんな。お前だってさっきはブレイクで落としたろうが」
数ゲーム前、オレの知る限り、隆幸は初めてブレイクショットでナインボールを沈めていた。
「俺のは練習ラウンドじゃんよ~、なんで賭けになると端島は強いんだよ」
「ぶつぶつ言ってねーで、ほれ行って来い」
オレはキューを振って隆幸を促す。
「今日は絶対バドの日じゃんよ~」
文句を言いながらマスターのいるカウンターに向かう。
オレは1から9までの玉をラックと共に掬い上げ、再び緑のラシャの上に並べる。
1
5、6
3、9、4
7、8
2
三角形のラックに、ひし形になるように隙間なく並べ、そっとラックを外す。
もう何度もやってる作業だから、ひし形は微動だにしない。
いつもは負けた方がボールを並べるが、特別な3ゲームの後は勝者が球を並べる。
敗者は景品を用意する。
隆幸が右手に二本のガラス瓶を掲げて戻って来る。
緑の瓶に「Heineken」のラベル。
栓を抜いてある一本を受け取ると、キンキンに冷えていて、瓶と指の間に水滴が流れる。
「いただきます」
仏頂面の隆幸の持つ瓶にコツンと瓶を当て、立て続けに三回喉を震わせる。
「ぷっひぃぃ~、やっぱハイネケンだわ」
「……そうかぁ? ただ苦いだけじゃね?」
そう言いながら隆幸も瓶を呷る。
そして美味そうな表情で息をつく。
オレは知ってる。酒好きのこいつにとって、銘柄なんか何だっていいんだってことを。
「さて、次の3ゲーム、また同じでいいか?」
「おう、今度こそ俺のバドちゃん奢らせてやるわ!」
「バドワイザーって薄くねぇか?」
「クリアなんだよ!」
こんな風に言い合っても、結局のところオレだってどっちがいいかなんて正直分からない。
ただ、暑い夏の夜、親友と二人で過ごすプールバーでのひと時、スリルと大人びたやりとりを演じていたいだけだ。
気分はベテランハスラーで、このゲームに人生を賭けている。
そんなシチュエーションには、大衆的で、輸入物のビールはうってつけの小道具だった。
隆幸がバドワイザーって言ったから、オレはハイネケンを推した。
この店にあるビールは三種類しかなく、たまたまそれを選んだだけだ。
そう、どっちでもいい。
ビールの銘柄も、そしてゲームの行方も。
金は無いけど、心は王様だった。
たっぷりの時間を持て余すオレたちに、そんな時間は宝物だった。
ブレイクショットはオレの番。
1番の黄色い的玉に照準を合わせ、手玉に思いきりキューを撞きこむ。
カカカカン!といくつもの球が動き回り、ナインボールの軌道を予想したオレは、キューを小脇にハイネケンを飲み干した。
「次はバドでいいよ」
「いや、全然嬉しくないから!」
天を仰ぎ大げさなポーズを取る隆幸を横目に、9と書かれた玉がポケットに落ちる音を聞く。
「ブレイクイン、決まったろ?」
もちろん狙ってできるものじゃない。
でもいつだって、ビギナーズラックは、狙い通りって顔をするのがお約束だった。
―――――
いつか本物のビリヤード台を買う。
自宅でバーカウンターと同じ部屋に置いて、毎日飽きるまで球を撞く。
そんな願望は現代の日本人の中で過分な夢なのだろうか。
それとも適度な目標なのだろうか。
少なくとも我が家では、妻からの「どこに置くの?」「どこにそんなお金があるの?」という至極まっとうな質問に適切な回答を吐きだせない以上、いつか叶えたい夢、というリストに載り続けていた。
リストには他にも「左ハンドルでMTの真っ赤な外車にもう一度乗る」「自宅でカクテルバーを開く」「居間に囲炉裏を設置する」といった項目が並び、歳を重ねる度に、それらを口にすることは少なくなっていた。
「あれ? 隆幸さん、また住所不明で戻って来てるよ」
妻から渡された、オレが出した暑中見舞いには「あて所に尋ねあたりません」の文字。
年賀状に続いて二度目。
いくつかの伝手で調べたものの、あいつの居場所は不明のままで、念のためと、普段は出すこともない暑中見舞いを出してみた。
「心配だね……」
オレが結婚してから、めっきり疎遠になったが、それでも年賀状のやりとりだけは続いていた。
『また飲もう!』
彼の年賀状には、いつもそんな手書きの一言が添えられていた。
「まあ、ヤツのことだからな、どっかで飲んだくれてるだろ」
酒好きのあいつには、ビール程度しか飲めないオレは物足りないんだよ。
結婚後、あいつと会う機会が減った時、妻が気にしていたのでそう言って笑ったから、オレたちが描く隆幸のイメージはいつでもほろ酔いだった。
「なあ、あれ買っていいか?」
ショッピングモールの雑貨屋で、オレの視線の先にある商品を一瞥した妻は、少しだけ呆れ顔をした後に笑って言った。
「持って帰るのが恥ずかしくないならね」
自宅に戻り組み立てる。
サイズは業務用の規格に比べて約1/10。240ミリ×135ミリのビリヤード台には、キューも硬質プラの玉も、きちんと15個付いていた。
テーブルの上に設置し、その小さな手玉を撞いてみる。
ラシャの滑りが悪く、バンキングでも球が戻ってこない。
でも、慣れてきたら、キャノンやキスといった技の感覚を取り戻す。
「ゲームしないか?」
妻に声をかける。
「賭けないわよ」
昔話を聞かされている妻は先読みしてそう言った。
「賭けないよ。これじゃ本気も出せないし」
そんな風に強がって挑発した。
始めてみると勝負は拮抗した。
「へえ、意外に面白いのね」
「だろ? 本物をやりたくなるだろ」
「どこに置くのよ。それに、プールバーだからこそなんじゃない?」
「やってる店、この辺にないんだよな」
そんな話をしながら、ミスショットを繰り返し、互いにファールが続き、一つもボールが落ちないという接戦が続く。
ボウリングやビリヤードといったスポーツは、初期設備の難しさからか、ブームが過ぎるとプレイできる場所がどんどん消えていった。
あの頃は、いくつもプールバーがあって、少ないお金で数時間は遊べた。
暗い店内、数台のビリヤード台、たばこの煙、そしてビール。
アンダーグラウンドな雰囲気の中で、少しだけ知的な香りも漂い、訪れる客は皆、その場にいることを楽しんでいたように思えた。
何を得て、どんな学びがあったかなんて分からないし、後世に伝えるような武勇伝もない。
でも、隆幸と共に過ごした時間は、今でも確かに宝物だと思えるんだ。
金は無いけど、心は王様だって言ってたあいつは今、どこで何してんだろうな。
結局、最後は大人げなくオレが勝ち、ふらりと席を離れた妻が戻ってきた手には、三つの缶。
白地に赤いライン。そして「Budweiser」の文字。
「どしたの? これ」
一本を受け取りながら聞く。
「どうせ飲みたいんじゃないかと思って」
「……なんで三つ?」
「プールバーってさ、掛け金が溜まってる場所って説もあるんでしょ? その掛け金につられて、腕に覚えのあるハスラーが集まるって聞いた」
妻はビリヤード台の隣に一本置いて、プルトップを開けた。
「あいつは腕に覚えのあるハスラーじゃないけどな」
オレは苦笑しながらプルトップを引き、一口飲んだ。
未だ、味の差なんか分からない。
けれど、今夜は確かにバドワイザーの気分だった。
撞球決闘(pool bar poor boy) K-enterprise @wanmoo
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