日曜日

 日曜日の朝、山狩りをしていた消防団員が、廃屋で眠るすばるを見つけた。 

 眼がさめた時、下の市の総合病院のベッドの中にいた。

 爺ちゃんと婆ちゃん、父さんと母さんがそばにいた。父さんと母さんは“のっぺらぼう”じゃなく、心配そうにのぞきこむ父さんと母さんの顔をしていた。

 それから、爺ちゃんと父さんに思いっきり頭に拳骨された。

「あそこには、行くなち云うたろうが」

 爺ちゃんがぼそりと云った。

 やっぱりあそこがそうだったんだ……ベッドに横たわったままぼんやりと考えた。 でもそれが具体的にどんな風に悪いのか、すばるにはわからなかった。

「なして、父ちゃん」

 街では嫌って、使うことのない方言丸出しで、母さんが訊ねる。しかめっ面の爺ちゃんが答える。

「あそこは昔っから、悪地じゃ。何人もあそこでおらんごと、なっとる。おぃがガキん時分から、あそこにゃ近づいちゃならんち云われとったんじゃ。あんげも、死に絶えてしもうた」

 爺ちゃんがガキの時分から――なんて云うのを聞いて、すばるは呆然とした。  だけど、もう本当のことはわからない。夏が終わり、少女は行ってしまったのだから。

 ただ、村にはすばると同じくらいの女の子はいなかったし、里帰りをしていた子もいなかった事実は、書いておかねばならないだろう。

 結局、すばるは誰にも、少女のことは話していない。

 そして不思議なことに、あの夜は月がまぶしいぐらいに輝き、雲も風もなかったらしい。


* * *


 後日譚を少しすると、父さんと母さんの仲はその後元にもどった――のならよいのだけれど、実際はやっぱりそんなにうまくはいかなかった。

 今度はすばるも入れて何度も話をしたが、やはりふたりは離婚することを決めた。大人には大人の判断があるということを、すばるは理解をしはじめていた。

 すばるは母さんといっしょに暮らすこととなり、苗字が変わった。父さんとはその後も会うこともあったが、大きくなるにつれてその機会も少なくなっていく。

 母さんと暮らすために引越しをしたので、転校することにもなった。不思議なことに、あれほど“のっぺらぼう”だらけだったすばるの周りは、いつの間にかそんなものいなくなってしまい、代わりに友だちが大勢いた。学校を移るまでの、わずかな間もそうだったので、別に転校したことがきっかけじゃないみたいだ。

 少しずつ大きくなっていくすばるは、いつのころからか夏を身近に感じることがなくなった。夏の太陽の熱気にうんざりするようになり、冷房のきいた部屋から出ることが少なくなった。

 こうして、少年のあの日々は、いつか忘却の中に眠っていく。


* * *


 爺ちゃんの初盆に、すばるは母さんと彼女といっしょに、この村にやって来た。村の親戚(誰が誰かほとんどわからなかったが)や、母さんの兄弟も集まって、爺ちゃんの小さい家はいっぱいだった。

 当時の消防団員が何人も親戚にいるので、集まる度にすばるが行方不明になった話が出るのは閉口だが、どういうわけか最後に申し合わせたように、あの夏は暑かったなぁと、妙に懐かしそうな顔をする。

 婆ちゃんは年とともにどんどん小っちゃくなっていく。もう外仕事できないし、体が心配だと伯父さんが引き取るという話だ。

 彼女を婆ちゃんに紹介したら、にこにこしてる顔がさらにしわくちゃになって、あの方言でしゃべりかけるので、彼女は半分も意味がわからなかったようだ。

 開け放した縁側から入る風が、室内の線香のにおいをかき消していく。風鈴の音が軒先を転がる。

 仕出しをつつく親戚たち。ビールや焼酎のにおいや、田舎くさいばか笑いと無遠慮な会話に辟易して、すばるは彼女をともなって外へ出た。

 陽射しは強いが、夏の真っ盛りほどの力はない。赤とんぼが無数に飛びかい、せつなげなツクツクボウシが夏の終わりをつげていた。

 どこへ行くともなしに、右手へ上っていく分かれ道まで来た。この道を上りきったところが大きく開け、周囲を森にかこまれて、あの廃屋があるのだ。木立のトンネルの樹々がケヤキやナラの類であることを、今は知っている。あのころは樹にもちゃんと名前があるなんて、考えたこともなかった。

 あれから何度かこの村にやってきたが、一度もこの小道に踏み入ることはなかった。

 あの日以来、すばるの脚は初めて小道にむかった。彼女がつづく。木立のトンネルのようなその道は、何も変わっていなかった。ただ、すごく短く感じた。

 廃屋も今はもうほとんど崩れてしまい、原形をとどめていない。家の前の庭も雑草だらけだ。最後の夜、少女はそのあたりに立っていたはずなのに。こんなに狭かっただろうか?

 不意にすばるは悟った。夏の密度が薄れていた。大事なものは、去ってしまっている。ここはもう抜け殻だった。

「ひょっとして、すばるが行方不明になってたって家?」

 彼女が訊ねる。

 すばるはうなずくと、あの夏の日に出会った少女のことを話しはじめた。二十年近くもの間、誰にも話したことのない少女のことを。

 長い物語だったように思えたが、こうして話してみると、ほんの一瞬のような気がした。話を聞き終えて、しばらく彼女は無言だったが、すばるは気にはならなかった。

 不意に彼女が、くすりと笑った。

「もう一度、会いたい?」

「う~ん、そうだなぁ……もし会えたらちょっと嬉しいかな?……痛っ!」

 わき腹をつねりつつ、笑う彼女。

「浮気すんなばか。あたしをこんなところまで連れてきて、ひと夏の甘ぁい秘密の想い出をでれでれ話すの?」

「そんなんじゃないって」

 あの少女は何だったのだろうか?こうしてこの場所に立ち、もうずいぶんと記憶が薄れてしまったあの夜のできごとを憶いかえしても、何の説明もつかない。

(――あたしはもう、行かなくちゃいけないのに)

(――すばるも子どもの時間を、そろそろ終わりにする時なんだよ)

(――あたしといっしょに、すばるも来る?)

(――そう、もう会わないよ……)

 少女の言葉のいくつかが心によみがえる。夢ではなかった。少女はたしかに、あの夏に属する何かだったのだ。あの時はすべて理解できたような気がしたけれど、今はもうだめだ。

 でも、それでもかまわないと思う。あの日々からすばるの時計は、新しい時を刻みはじめた。あの日々は古い時の最後の想い出なのだ。それでいい。それでかまわない。


 廃屋からの小道を下りかけて、ふと名を呼ばれたような気がした。そこは最後のあの土曜日の夕方、呼び止められた場所だった。細く真っ黒に焼けた、輝く夏の象徴のような少女が、道の上からあの日と同じように手を振ってくれるような気がした。そう思っただけで、涙がこぼれるほどの懐かしさを感じた。

 しかし振りかえってもそこには誰もおらず、ただかたむいた夏の終わりの陽射しが、樹々の陰を濃く彩っているだけだった。

 淡やかな夏の寂寥が美しかった。

 すばるは口の中でいとおしげに小さく、ばいばい……とつぶやくと、歩いてきた小道を彼女とふたりで、ゆっくりと下っていった。


(了)

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夏時間の少女 衞藤萬里 @ethoubannri

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