土曜日(後編)

 風に運ばれるようにすばるは駆け、気がついたらあの廃屋にいた。

 どこをどう走ったか憶えていない。

 いつの間に、こんなに轟々と風が吹くようになったのだろうか?こんなに空は真っ暗だったろうか?

 記憶の断片――父さんと母さんの姿をした“のっぺらぼう”の口のあたりだけが、ぬるぬるとうごめいていた。爺ちゃんと婆ちゃんの声もはるかに遠い。

(――すばる、お母さんといっしょに……)

(――お父さんとお母さん、話し合って……)

(――すばる、きっとショックを受けると思って……子どもにむずかしい話だから……)

(――すばるはもう子どもじゃ……)

(――やめて、あなた……)

(――お前こそ、もっと冷静になれ、すばる、お父さんたちは……)

(――あなたはすばるのことなんか……)

(――いい加減にしんさい!)

(――こっちへ来て……)

 言葉ばかりがすばるの頭の上を行き交う。すべてが歪んだもやの中、色彩を失った情景が切れ切れに流れ、飛び去っていく。

 すばる、すばる、すばる、すばる……すばるの名前を連呼する大人たち。

 一体何を云っていたんだ?

 父さんも母さんも、みんな勝手だ。大人たちの勝手な話なのに、すばるの名前を口にすれば、自分が間違っていないように聞こえるとでも思っているんだろうか?

 夏のはずなのに、身体をつつみこむこの冷たさは何なのだろう?身体中が震え、歯が鳴る。ひざをかかえて小さくなっていなければ、体温が際限なく流れだしてしまいそうだ。

 気がつかないうちに、何度もあの子の名を呼びながら、すばるはしゃくり上げていた。


* * *


「何泣いてんだよ」

 どれぐらいそうしていただろうか?不意に、暗闇から声がした。いや、声と云うより、夜気がかすかに振動したような気配だった。

「---?」

 その声に、縁側までにじりよった。廃屋の前の庭に、いつの間にか少女が現れていた。こんなに暗いのに、なぜか少女の姿だけは、はっきりと見えた。

「ばか!あたしはもう、行かなくちゃいけないのに、いつまでもめそめそして……こんな風に引き止められたのは初めてだよ!」

 少女の言葉は荒々しく、突き刺さるようだ。すばるが知る少女とは、どこか違う質量の大きさがあった。眼の前にいるのに、どうしてもそれ以上近づくことができなかった。

「だって……」

 その言葉の響きに圧倒され、声にならない。

「だってじゃない!ちゃんと話してみなよ。父さんと母さんが来たんだろ?」

「やっぱりだめだって……離婚するって。僕を爺ちゃん家に預けてる間に、ふたりで話したけど、もうだめだって。母さんが僕を引き取るって」

「親が離婚する子どもなんて、世界中いくらでもいるだろ!自分だけ特別だと思うなよ、甘ったれんな!」

 少女がしゃべるにしたがって、少女が拡散して夜気が深まっていくようだった。

 轟――と何かの音がする。

「どうして、自分たちばっかりで決めてしまうんだよ。僕が爺ちゃん家にいる間に何もかも、どうして?」

「そんなの知るか、大人には大人の事情があるんだ。すばるはどうしたいんだ?」

「離婚なんていやだ!どうしていっしょに暮らせないんだよ。僕はどっちとも離れて暮らすなんていやだ!」

 少女の言葉に衝き動かされるように、激しい言葉が口から流れていた。それを云ってしまったら、大人の世界の事情に脚を踏み入れることになってしまうんじゃないかと恐れていた、父さんにも母さんにも誰にも云えない言葉が。

「だったらそう云えよ!父さんと母さんに。独りでうじうじすんな!だからすばるは誰を見たって、“のっぺらぼう”にしか見えないんだ。あれはすばる自身の姿なんだ!」

「うそだ!」

「うそじゃない、甘えるな!父さんも母さんも好きだろ?だったら思いきって云ってみろよ!」

「そんな……わかってるよ、でも……僕なんかいくら云ったって……」

「わかってない!何でも思いどおりになるわけないだろ!だめかもしれない、でもやらなけりゃ確実にだめなんだぞ。悩んでたってしょうがないじゃないか!」

 轟――と風が吹きぬける。すばるは何も云えなかった。

 少女の姿は、もう完全な闇と同一になってしまっていた。

「もう夏が終わる。あたしも行かなくちゃ」

 静かにさとすような少女の声。

「だからね、すばるも子どもの時間を、そろそろ終わりにする時なんだよ」

 少女の言葉に、不吉な響きを感じた。

「---?どこに行くの?いやだ。行くな」

 震える声。一瞬、不気味な間が空き、風の音までがやんだ。何かを期待するかのような間だった。

「……だったら……さ」

 少女の言葉は、かすかに妖しい笑いをふくんでいるように感じた。

「すばるも来る?」

 轟――と、これまでにない強い風が、廃屋の後ろから前へ吹きぬける。

 身体中に鳥肌が立った。少女の言葉は、とろけてしまうほどに甘く、そして何かしらぞっとさせるものをふくんでいた。とうていはかり知ることのできない、深い深い……ぞっとするような何かを。

(いっしょに……行く?どこへ……?)

 ものすごく魅惑的な考えだった。

 廃屋自身が意思を持っているかのように、ぎしぎしと家鳴りした。

 轟――!

 ほんのわずかな間に、さらに深い暗闇が広がっていた。

 さっきまで見えていた少女の姿、屋内の様子すら、濃くなった夜気につつまれて、いくら眼をこらしても見えない。膝をついている縁側の感触だけが、かろうじて上と下とを判別することができる。

 轟――!

「あたしといっしょに、すばるも来る?」

 また声がした。轟音の中、今度は耳元でささやくように近くに感じた。

 何か得体の知れない圧倒的に大きな何かが、近づいてくる気配がする。 迫っている。

 何かが来る――いや違う。何かが去ろうとしていた!

 轟――!

 もう正気でいられないほど、闇に轟音が響きわたる!

 何もかも呑みこむ暗い風が吹きぬけていく!

 答えられない。

 何と答えたらいい?わからない。

 答えなければいけないのに、答えがわからない。何も考えることができない。絶望の悲鳴も助けを求める声も、暗闇に呑みこまれていく。

 轟――!

 すさまじい轟音に支配された完全な闇の中のどこか遠くで、誰かがすばるの名を小さく呼んだ。

 その瞬間――身体中の力をふりしぼって、すばるは心の奥底から、世界を引き裂くように絶叫していた。

 すばるの何もかもを、颶風がまるで一枚の木の葉を軽々と呑みこんでいくように、巨大な夏の夜気が世界を圧して、轟々――と駆けぬけていき、そして……


 何も聞こえなくなった……


 夜気は相変わらず濃い。

 でもこの静けさは何だ?まるで……何か大きなものが通りすぎてしまったかのような……

(ばか……)

 姿は見えないが、また耳元で声がした。

 あぁ……そばにいる。

 暗黒の中、何も見えないが、すぐそばにあの少女はいる。背中がふれているのは縁側だから、自分は今、仰向けになっているんだなぁと考える。

「---?」

(……帰りなよ。みんな待ってるんだから)

「……うん」

 すばるは素直に小さくうなずいた。自分が何を選択したのか、あるいはしなかったのか、わかっている。身体中の力がぬけていき、意識が遠くなっていく。

「もう、夏が終わるんだね?」

 すばるが訊ねる。

(そう、もう会わないよ……)

 少女が答える。

 頬を何かが撫でさすって、去っていった。あの夏のにおいのする笑顔が、想いうかぶ。

(ばいばい)

 少女の声。おそらく、すばるが最期に耳にするあの少女の声。

 とうてい伝えきらないだろう想いをすべてこめて、すばるも別れの言葉を口にした。

「ばいばい……」

 夜気は薄くなっていく。淡くなっていく。何かが遠ざかっていく。それを感じつつ、眼を閉じる。

 ……深い眠りがおとずれた。


(つづく)

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