土曜日(前編)

 昨日のものすごい夕立がうそのように、ぴんとはりつめたような青空だった。

 今日は別の所に行こうと云った少女の後をついて歩く。とっておきの場所だよと、自慢そうに笑った。

 森の中、下草と落ち葉が一面にしっとりと広がる誰が踏み登ったのかわからないかすかな山道が、上へと延びていた。

 すばるたちの息が荒くなっていく。先を歩く少女のシャツの背中が、いつの間にか汗で濡れていた。リュックを背負ったすばるも汗でびっしょりだ。

 登るにつれて、空気がだんだんと澄んでいくように感じた。最後は急に険しくなった、もう崖といってもよさそうな細い山道を、木の枝をつかんでほとんどはい上がるようにして登りきって、開けた場所に出るとそこは……

「うわあ……」

 思わず声がもれた。山の中腹の、ビルぐらいある大きな岩の上から、すばると少女は遠くの山々や谷を、はるかに見下ろしていた。 そこには、ただのひとかけらの人工物もない。

 どこまでいっても深緑色と淡くやわらかな黄色がかった緑が溶けあい、見たこともないぐらい山は遠く大きく果てがなく、谷は吸いこまれてしまいそうに深かった。何にもさえぎられることのない、真っ白な積乱雲。そしてうんと高い場所にある青い青い空。吹きぬけていく風は、山のものと云うより、もう空の偉大さに近かった。

 それは、すばるが生まれて初めて直に眼にした世界の広さ、大きさだった。

 不意に風景がぼやけた。涙が流れていた。

 何だこれ……と思いながら、でも少しも不自然に感じなかった。理由はわからない。哀しいわけではない。ただ止まらない。静かに流れる。

 ……ずいぶん長いこと、そうしていた。涙はいつの間にかとまっていた。少女が隣に座って微笑んでいる。すばるが座ると、水筒の冷たい麦茶を、無言で手渡してくれた。

 岩のはるか下からは、低く轟きながら風が吹き上げ、その風に乗って鳶が輪を描いている。特に何も話す気にはならなかった。ただ時々麦茶を飲み、この風景を眺めているだけだった。

 ここはきっと、自分が知っているよりずっと高い場所なのだ。多分、今自分はものすごく大切なものを眼にしているのだ。


* * *


 夏の空がかたむきはじめた。うっすらと夕方の気配がただよいはじめ、クマゼミやアブラゼミの、他を圧するような声にまじって、ヒグラシのものさびしげな鳴き声が聞こえる。

「帰ろっか?」

 少女がうながした。すばるもうなずいた時、少女が小さく声をあげた。

「ツクツクボウシが鳴いてる……」

 はじめは気がつかなかった。でも耳をすましているうちに、たしかに他の蝉たちにまじって、ボィッシュツクツク、ボィッシュツクツクと鳴き声がかすかに聞こえてきた。少女は無表情でじっと聞いている。その声はィヨロ、ィヨロ……と小さくなっていき、やがて山の気配の中に吸いこまれるように消えていった。

(――その次はツクツクボウシ鳴きはじめるの。そうなると、もう夏も終わり)

 少女の言葉を憶いだした。

(夏が終わるのか……?)

 すばるには信じられなかった。こんな大きなものが消えていくのか?

 すばるにとって夏が終わるってことは、いつの間にか夜、クーラーを使う必要がなくなるってことで、こんなに急激に終わるものではない。まだ何もかも夏の装いをしているというのに、すごく不条理な気がする。

 ふたりは行きとはまるで違って、言葉少なに山道を下った。廃屋にたどり着き別れた。例の小道を下りようとしたすばるに、少女が道の上から声をかけてきた。

「何?」

 振りかえって訊ねる。

「ばいばい」

 少女が笑いながら、小さく手を振った。かたむきつつある森の影に隠れて、表情はわからなかったが、すばるはその声の調子に、胸がざわざわするものを感じた。手を振りかえしたが、少女はもう何も云わなかった。

 そういえば、別れぎわに「また明日」と云わずに「ばいばい」と少女が云ったのは初めてだったと、もどる途中に気がついた。


* * *


 爺ちゃんの家にもどって夕飯を食べ終えたころ、来客があった。“のっぺらぼう”のお面をつけたふたりだ。母さんがすばるの名を呼んだ。父さんは何も云わなかった。

 爺ちゃんと婆ちゃん、父さんと母さん、それにすばるが座敷に座る。

 父さんと母さんが、爺ちゃんと婆ちゃんに何か話している。度々自分の名前が出るのはわかったが、大人たちが何の話をしているのかわからない。言葉はとどくのだが、自分の中に入ってこない。

 いつも笑ってる婆ちゃんが、ひどく心配そうに何か云っている。母さんが哀しそうなお面で、何か云っている。父さんは無表情のお面をしたままだ。爺ちゃんがしかめっ面をさらにしかめて、時々渋いお茶を飲むだけで何も話さない。

 虫の声がする。風の音も聞こえる。あぁ、あの虫何だろう?明日、彼女に訊かなくちゃ。ぼんやりそう思ったが、夢の中にいるように、現実感がなかった。すべてに、もやがかかったような感じだった。

 どれぐらいそうしていただろう。不意に母さんが立ちあがって、すばるを抱き寄せた。

 何か云っている。云っているけれど、何もわからない。何を云っているんだろう?

 他の三人も口々に何か叫んでいる。すばるを抱きしめる母さんの腕に、ぎゅうっと力が入る。痛い……母さんのその力に、すばるはうめき声をあげた。

 どこで風が吹いている?――風?どうして風が?

 疑問に思う間もなく、耳の奥で風がどよめき、無数の虫がささやき、もやの中から、誰かのあざ笑うような声が聞こえ――すばるの中で何かがはじけた。

「――やめろ!」

 叫んだ――ような気がした。身体の奥から暴力的な何かが湧きだし、抱きしめている母さんの身体を激しく突き飛ばした。それははっきり憶えている。

 誰かが叫ぶ声。急にもやが晴れ、いきなりたくさんのものが、すばるに流れこんでくるみたいだった。それに敗けないように、何かを叫んでいた。

 爺ちゃんと婆ちゃんの顔、父さんと母さんの貌。

 家の中がぐにゃりと歪み、いきなり明度が落ち、立っていられなくなった。

 轟――と、どこかで風の音がした。家がきしむように、悲鳴をあげた。屋内なのに闇が迫ってくる。

 叫びつづけて走りだした。靴をはいたかどうかも記憶にはない。走っていた。薄い墨のような宵闇の広がる中を、すばるは夢中で走っていた。

 カナカナカナカナ……虫の声。

 風がものすごい速さで雲を運び、すばるはその夜風に乗るように、闇の中をどこまでも走っていった。


(つづく)

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