幾分か美しい蒼
藤咲 沙久
猫の鳴く部屋で
男は絵の具を絞った。それも、もう何度目かわからない。
目の前には小脇に抱えられる程度の小振りなキャンバス。左手に握った筆を繊細に動かす男の周りには、同じような色味の絵が壁や床を覆い尽くすほど積み上げられていた。
「どうしてそんなにも蒼いの?」
何の前振りもなく、少女が男の背中に問い掛けた。子供らしい高い声に聞き覚えはなく、それが誰なのか、絵の具を絞った回数と同じくらいわからなかった。
しかし誰であれ興味はない。男は構わず筆を動かした。
「私、青も、碧も、蒼も好き。でもここにある絵はどれも蒼いのね」
「……はは。音で聞くとまったく判別がつかんな」
アオ、アオ、アオ。同じにしか聞こえない可笑しさに思わず言葉を返す。久しぶりに出した声は少し掠れていた。
男が部屋を見渡すと、この空間は絵によって青く──少女の表現を借りるなら、“蒼”く染められているようだった。足元に散らばる空のチューブも蒼色ばかりだ。
「どうしてそんなにも蒼い、か」
蒼い桜。
蒼い金魚。
蒼い東京タワー。
物だけでなく背景までも蒼い。深く、それでいて薄く緑を孕んだ暗い色味をしている。
「あんたは、青にどんなイメージがある」
男はそう言うと、目の前にある絵の上にサラサラと「青」の字を書き込む。キャンバスの中で描きかけだった猫が不満げな顔をしたように見えた。
「赤の反対色。いろんな青の総称でありながら、それでいて一番明確な色ね。三原色のひとつだもの」
声から想像するより遥かに大人びた答え方に惹かれて、男は少しだけ振り返った。腰掛けている男よりもまだ背の低い、なんだか特徴の薄い女の子だった。
僅かな戸惑いを誤魔化そうと頭を搔く。すると、知らないうちに髪が肩に乗るほど伸びていたことに気づいた。
「……それなら、碧は」
どう返ってくるのか気になり、男はまた絵に「碧」と書き込んだ。今度こそはっきり不満を主張しようと、キャンバスの中から蒼猫がナァンと鳴いた。
「ミドリともアオとも読める、またそのどちらも意味する色よ。でも私は海を思い出すわ。美しい
「じゃあ蒼」
字を書こうとしたが、蒼猫に睨まれたため、男は渋々その猫を指差した。
「仄かに暗い、灰を含んだ色。でも鬱蒼とした植物を示すように緑も併せた複雑な色だわ。ただ、暗さゆえに夜や月も似合うの」
少女の回答はやはり子供とは思えない言い回しだった。不思議と懐かしい気持ちになりながら、男は筆を置いた。コトン、と静かに響く。
「俺はな、涙を蒼色で塗るんだ。俺が持つ蒼のイメージは涙。絵が蒼いのは、涙越しに見て描いてるからなんだよ」
深く、暗く、繰り返し濡れることで苔むしたような色。確かに男の目は潤んでいた。零れない涙が膜のように瞳を包み込んでいた。
「貴方は悲しいの?」
「悲しいのかもしれんな」
「何が悲しいの?」
口を開こうとして、しかし男は沈黙した。何が悲しいのか思い出そうとしているみたいに目を閉じる。じわりと
「……俺の絵を」
「貴方の絵を」
少女は静かに男の言葉を繰り返す。
「俺の絵を、唯一好きだと言った人が、いなくなった。もうどこにも居ない。それから絵が蒼くなって、皆は俺の気が触れちまったと思ってる」
淡々と説明しているのは自分自身なのに、男はまるで誰かの話を聞いている気持ちになっていた。改めて体ごと少女の方を向く。男の背中がミシリと音を立てた。
「貴方が涙越しに見た世界は、蒼くて、ガラス玉の中にあるみたい。とても綺麗ね。貴方の悲しみは綺麗なのね」
少女がコツコツと靴音を奏でて描きかけのキャンバスに近づく。小さな足は、幼い容姿に不釣り合いなハイヒールで飾られていた。男はこの上品な音を知っている気がした。
男の横へ並ぶように立ち、キャンバス越しに猫を撫でる少女。互いに慣れているのか、蒼猫もゴロゴロと喉を鳴らす。男は少女を見つめながら言った。
「悲しみが綺麗。それは、いいことなのか?」
「さあ、私は知らないわ。それがいいのか、悪いのか、そんなことわかりっこないもの」
「……そうか」
これまでの明確な返答と違い、ふわりと躱されてしまう。突き放された気持ちがますます男の視界を蒼くした。
「でも、私は好きよ」
コツコツ。ハイヒールの音がする。男は俯きかけていた顔をあげた。もう少女は猫を撫でていなかったし、男の目の前にも居なかった。
「好き、か」
「ええ。いいとか、悪いとか、上手いとか、下手とか。わからないけど、私は貴方の蒼い絵が好きだわ」
姿を無くした少女は、それを最後に声さえも聞こえなくなった。
「貴女は、
ほとんど無意識だったのだろう。自分がその名前を口にしたことに、男は驚いていた。誰も返事はしなかった。
ナァン。足元から声がする。男が見下ろすと、蒼くない猫がフンッと鼻を鳴らした。ようやくこちらに気づいたか、とでも言いたそうな顔つきだった。
「お前、さっきまで蒼くなかったか」
「ナァン」
「キャンバスが真っ白になってる。お前、もしかしてここから出てきたのか」
「ナァン」
猫は答えるように鳴くが、男にその意図は汲み取れなかった。仕方なく辺りに視線をやる。相変わらず蒼い絵だらけの部屋だ。だが窓とドアが目に入ると、それらはさっきまで存在していなかったことに気づいた。
自分は今までどこに居たのか。そう考えたが、一歩も動いていないのに移動しているわけもない。男は戸惑いながら頭を搔いた。先ほどと変わらず、髪は長かった。
「絵を、描くか」
呟くと、男はチューブを絞った。蒼い絵の具だ。左手に筆を持ち、迷いもせず動かしていく。
ガラス玉のような蒼い絵を描いていた男は、蒼いガラス玉の絵を描いた。そして、その内側に女性が一人。陽射しを受けて輝く球体の中、和やかな笑顔を浮かべている。その姿は少女とは程遠く、豊かな軌跡が柔らかく肌に刻まれていた。
「貴女を描いたのは、いつぶりだろう」
会うことの叶わない大切な人は、答えない代わりにキャンバスの中から男に微笑みかけた。
男の目は今でも潤んでいる。涙越しに世界を見ている。だが、この新しい絵の蒼色は、これまでよりも幾分か美しかった。
幾分か美しい蒼 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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