第十五夜

 しばらくして未花みかが目を開き、ぼんやりとれんを見つめる。

 蓮はその視線に微笑み返し、いつものトーンで話す。


「よお、起きたか?」


「蓮、お腹空いちゃった」


 未花は小さな声でそう言うとか弱く笑った。


「元気そうだな。

 詫びに所長に何か作ってもらおう」


 小さく二人で笑い合うと、未花は再び目を閉じた。

 それから所長が目覚める。


「未花がお腹空いたって言ってましたよ」


 蓮が所長にそう伝えると、所長はまだ上手く動かない顔で嬉しそうに笑って、ぎこちない体でキッチンに向かい調理を始めた。

 料理が出来上がる頃には未花も体が動くようになり、全員で食事することになった。

 うどんを口に運ぶ所長と蓮に未花が問う。


「ねぇ、どうして私の右耳が聴こえるようになってるの?」


 全員が黙りこくる中、所長が口を開く。


「それは……私の聴覚を未花にあげたからだよ。

 もう未花だけのものだよ」


「じゃあ、お父さんの耳が聴こえないじゃない!

 どうしてそんな事したの!」


 蓮が予期した通り、未花は聴覚を与えられたことに困惑している。

 父を責める未花に蓮は責任の一端が自分にもあることを伝える。


「未花、止めなかった俺にも責任がある。

 俺と所長は、未花にまた聞こえるようになって欲しいと思ってしまったんだ。

 俺たちのせいなんだ。

 未花は気を病まないでほしい」


「でも……でも……私のせいでお父さんの耳が……」


「いいんだ、私は耳が聴こえなくても。

 未花の耳が聴こえない方が悲しい。

 私が一番悲しいのは未花が幸せじゃないことなんだよ。

 未花が幸せに笑ってくれてさえいれば父さんは大丈夫。

 耳が聴こえないことくらいどうにかなるよ。

 だから自分を責めないで」


 未花は目に涙を浮かべて頷く。

 父の顔で未花に笑いかける白井稔しらいみのる

 娘にティッシュを渡して涙を拭いたことを確認し、蓮へと視線を移せば所長の顔になった。


「ところで、加納くん。

 君さえよければ、研究所に戻って来ないかい?」


「いいんですか?」


「うん、君のような人材はきちんと研究できる場所に居るべきだよ。

 ただね、私は君に加担していた者が研究所に居ると考えている。

 その者を明らかにしないことには復帰はさせられない」


「ああ、齋藤さいとうのことですね」


 蓮はあっさりとグルである齋藤を売った。


「いいのかね。

 情報提供者である彼を簡単に明かしてしまって」


「いいんです。

 俺、あいつ嫌いなんで」


 蓮は吐き捨てるように言った。

 彼はとあることを思い出していた。

 雑居ビルに来た齋藤が未花の足を覗いていやらしく笑った事だ。


「奇遇だね。

 私も彼のことは好かない」


 所長もそう言い捨てた。

 彼もとあることを思い出していた。

 健康診断の結果を届けた齋藤が未花をかわいいとにやつく様子だ。


「彼が研究所の情報を外部に持ち出しているのは大いに問題だ。

 すぐにでも解雇したいところだ。

 しかし加納くんが入れ違いに研究所に戻れば、彼の恨みを買ってしまうかもしれないね」


 頭を抱える所長に、蓮が助言する。


「あいつ一度俺のところに違う情報を寄越してるんで、たぶん俺以外にも情報を売ってます。

 齋藤を泳がせて証拠をいくつか押さえれば、問題なく解雇できると思います」


 後に齋藤は蓮が指摘したように多数の人間に研究所の情報を売っていたことが発覚し、解雇された。

 念には念をということで蓮は研究所には戻らず別会社を立ち上げ、白井所長の補佐をすることになった……が、これはまだ未来の話。

 

 未花が落ち着いた様子だったので、蓮が聞く。


「それで、記憶は全部戻ったのか?」


「ううん。

 全部というわけじゃなくて、ところどころ」


 残念そうにうつむく未花に所長が伝える。


「いきなり全ては思い出せないかもしれないが、徐々に思い出すさ。

 それに何かきっかけがあれば一気に思い出すこともあるだろう」


「ちなみに俺のことは思い出したよな?」


 蓮が当然と言わんばかりの態度で未花に聞く。


「えっと、それが、蓮のこと全然思い出せないの。

 ごめんね」


 未花が困ったような笑顔で手を合わせて謝る。


「嘘だろ?」


 蓮は相当なショックを受けたようだった。

 フッと所長はほくそ笑む。


「残念だったな、加納くん」


「それはどういう意味ですか?

 お義父さん?」


 ひきつった笑顔で未花の父に応戦する蓮。


「君にお義父さんなんて呼ばれる義理はないね」


「さっきそう呼ばせてくれましたよね!?」


「さぁ?

 気のせいじゃないかね?」


 何をやっているのやら、と未花は呆れてテレビをつける。

 テレビでは夜のニュースが始まろうとしていた。

 ここで未花にとっての非常事態が起きる。


『では、八月二十九日、日曜日のニュースをお伝え致します』


 未花がガタッと立ち上がり叫ぶ。


「え!?

 八月二十九日!?

 夏休みに出された数学の課題が終わってない!」


 娘が慌てふためく一方で、数学の課題と聞いた父は安堵していた。


「未花、大丈夫。

 私を誰だと思っているんだね。

 加納くん、君も手伝ってくれるね」


「いいですよ。

 任せてください」


 一流の研究者たちに教えられ、未花の課題はあっさり終わった。

 しかし、所長は落ち込んでいた。


「な、なぜだ。

 そんなに私より加納くんがいいと言うのか!」


「うん。だってお父さんより蓮の方が教えるの上手」


 父の面目を容赦なくつぶす娘。

 がっくり肩を落とす父。


「何なら、これからも教えてやるよ」


 先程の仕返しと言わんばかりに、得意げな蓮が家庭教師を買って出る。


「くっ。

 家に来て勉強を教えることは許すが、絶対に未花の部屋には入るなよ!」


 未花の学業を優先した所長が出したせめてもの条件だった。

 こうして夏が終わっても、蓮は頻繁に未花の家へ来ることになった。



 外からリリリ……と虫の音が聞こえる。

 蓮は所長との約束を守って未花の部屋には入らず、今もリビングで未花に勉強を教えている。

 未花が問題を解いている間、蓮はスマホをいじる。

 ニュースを流し見していた蓮だったが、今日の出来事というページが目に留まる。


「へぇ」


「ん? 何?」


課題を解いていた未花は、蓮の声で顔を上げて聞き返す。


「今日って中秋の名月なんだってよ。

 せっかくだから見てみるか?」


 言い終わる前に蓮は立ち上がり、リビングのカーテンを開けて空を見上げる。


「いまいち見えねぇな」


「外に出た方が見えるんじゃない?」


 未花の誘いで、二人は庭に出てみる。

 上を見上げれば、大きく真ん丸な月が二人を見下ろしていた。


「たしかに外の方がよく見え……」


 言いかけた蓮の声が途中で切れる。

 こてんと未花が蓮の腕に頭を寄せたのだ。

 未花はすぐ傍に居る蓮の香りを感じる。


(あ、この香り……)


 次の瞬間、未花は蓮とのことを全て思い出した。


「蓮……そんなことまでしたの……」


 未花は顔を手で覆うが、耳まで真っ赤だ。

 月明りが未花を照らす。

 蓮は、未花の肩を抱き寄せて優しく見つめる。


 まるで月の下で甘い香りを放ち美しく咲く花を愛でるように。

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月下美人よもう一度 戸織真理 @tori3mari3

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