油すまし(下)
目を覚ますと少年はベッドに寝かされていた。
全部夢だったんだ――安心した少年は、ベッドから起き上がって、リビングへと向かう。
廊下は埃一つなく、綺麗に掃除されている。
(良かった、全部夢だったんだ)
少年が自室を出てリビングに向かうと、叔父と叔母がいた。
二人は優しくて、お土産にケーキを買ってきてくれることも多い。
だというのに、少年は無性に嫌な予感がした。
何故だろう――二人の浮かべる笑顔が少々ぎこちないだからだろうか。
「良かった……仏間で気を失っていたからね」
叔父が普段より優しい声でそう言った。
「叔父さんが運んでくれたんですね、ありがとうございます」
少年は丁寧な言葉でお礼を言って、頭を下げた。
お土産をもらった時やお年玉をもらった時に、何度もそうやってお礼を言ってきた。
「ところで、パパとママはどこに行ったんですか?」
リビングにいるのは叔父と叔母の二人だけだった。
少年の言葉を聞いて、二人の笑顔が崩れる。
冷房がよく効いていて、部屋は涼しい。
なのに、少年のシャツは汗でじわりと湿っていた。
「……ああ」
叔父は悲しそうな顔をして、なんと言うべきか迷っているようだった。
何も言えなかった叔父の代わりに、叔母が答えた。
「あのね……あなたのお父さんとお母さんは一ヶ月前――」
一ヶ月前、この言葉を聞いただけで少年は吐きそうになった。
胸を突き破りそうなほどに心臓の鼓動が速い。
「ご両親はいつだって貴方を見守っていますからね」と叔母が言った。
「なるべくきみが以前と変わらない生活を送れるようにするからね」と叔父が言った。
声を出そうとしたが、出せなかった。
自分の中のどっしりと重いものが、言葉も心も全部巻き込んで踏んづけているようだった。
言葉の代わりに涙がどんどんと溢れ出た。
何もかもが自分の知らないところで、起こったことになったのだ。
まるで、今までの一ヶ月が全部夢になってしまったようである。
ぽん、と少年の両肩に後ろから手が置かれた。
冷たい手だ。
叔父と叔母は少年の目の前にいるし、手を伸ばしても少年には届かない。
「わあああああああああ!!!!」
悲鳴を上げた。
叔父が真っ先に立ち上がり、少年の元に駆け寄った。
少し、遅れて叔母が向かう。
二人とも、心の底から少年を心配しているようである。
少年の耳元で生暖かい声がした。
夏の夜に吹く風のような、暖かくて湿っている声だ。
「ここには昔、きみの叔父さんと叔母さん、あと色んな人を殺した油すましが出たらしいよ」
少年の視界がぐにゃりと歪んだ。
「今もいるぞ」
恐ろしいことというのは、こんなにあっさりと起こってしまって良いのだろうか。
少年はまた気を失ってしまった。
目を覚ますと、リビングの電気が消えていた。
床にはうっすらと埃が積もっていて、ずいぶん長い間掃除されていないようだった。
少年は立ち上がり、明かりをつけようと照明スイッチを何度か触ってみたが、明かりはつかなかった。
暗いリビングルームに窓から夕焼けの赤い光だけが入り込んでいる。
少年は仏間に向かい、仏壇を見ようとした。
しかし、そもそも仏壇が無かった。
いや、仏壇だけではない――リビングルームに戻ってみれば、椅子もテーブルもテレビも無かった。
自分の部屋に入ると、ベッドも勉強机も本棚も全部無くなっている。
家中を歩き回った。
キッチンも、書斎も、寝室も全部だ。
家中のほとんどの家具が無くなっていることがわかった。
奇妙に家の中ががらんとしていた。
「なんで……?」
少年は玄関にへなへなと座り込んだ。
「なんでだろうねぇ」
「うわああああああ!!!!」
背後から声がして、少年が思わず悲鳴を上げる。
逃げようとしたが、腰が抜けて立ち上がることは出来なかった。
ゆっくりと歩いて、声の主は少年の前に姿を現した。
何度も見た、怪しい男だ。
「未来は自分の努力で変えられるっていうよねぇ、人間は今しか動くことしか出来ないからねぇ」
「えっ、えっ……」
「じゃあ過去が変えられれば、過去にとっての未来……つまり今を変えることが出来るよねぇ」
三日月のような笑みには、少年に対するはっきりとした悪意があった。
「今はどんどん悪くなるよ……パパいなくなったねぇ、ママもいなくなったねぇ、叔父さんも叔母さんもいなくなったねぇ……次は誰がいなくなるかなぁ……」
ずい、と少年に顔を近づけて男が言った。
「よぉく考えてみようか……次は」
「つ、次は……?」
「きみが考えたみんなの番」
少年は何も考えないようにした。
目をつむって、耳を両手でふさいで、わぁと叫んだ。
だというのに、男の声ははっきりと聞こえた。
「ここには昔、みんなを殺し続けてきた油すましが出たらしいよ」
***
「多分、油すましがいる……近いとわかるんだ」
走りながら八雲が言った。
その目は、既におばけを捉えているようである。
「油すまし?」
駆が尋ねる。
「えーっとね、簡単に言うと、昔このあたりに油瓶を持った妖怪がいたらしいぞ、って噂話をした時に今もいるぞ!って出てきた妖怪だよ」
「出てくるだけ?」
「だけ」
「しょうもない妖怪だなぁ」
「けど、イツマデがそうだったみたいにおばけは油すましを真似ているだけ、そうですよね八雲さん」
正は八雲を見上げるように言った。
八雲はこくりとうなずき、そしてある一軒の寂れた家を指差した。
入口に売家看板が掛かっている。
「売家ですけど」
躊躇なく向かっていく八雲と並走しながら駆が尋ねる。
「今はね」
「えーっと……本当は人が住んでる家ってことですか?」
足を早めた八雲に少し遅れながら、正が尋ねた。
「過去が変わると、普通の人間はそれに従って今も変わることになるんだけど、私達みたいにおばけを知っているか、今まさにおばけに憑かれている人間は、その影響を受けない……だから、過去が変わって自分の家が空き家になっているのに気づかないまま、中にいる……なんてことになっているのかもしれないね」
「……駆みたいに、その憑かれてる人が消えたりはしないんですか?」
「多分、大丈夫。おばけは取り憑いた人間を追い詰めるために手段は選ばないけど、手を下すのは最後の手段なんだ」
「最悪だな!おばけ!」
話している間に三人は家にたどり着いた。
ドアノブに手をかけると、ぎいと音を立てて玄関の扉が開く。
夕日と生暖かい空気と一緒に三人が家に入り込む。
玄関には八歳ほどの小さい少年が倒れていた。
「これがおばけに憑かれている子ですか?」
駆が少年に寄り添って、八雲に尋ねる。
「うん……間違いないね」
「けど、さっき俺がやられたみたいにあの頭にバーってやる奴じゃダメなんですよね?」
「……うん、それだとおばけは退治出来るけど、過去は変えられたままだからね」
「「じゃあ、どうするんですか?」」
駆と正の声が重なった。
「とりあえずは、油すましにお越し願いたいんだけど……」
「だけど……どうしました?」
八雲は腰から下のない駆を見た。
「その足じゃ、その子が驚くから駆くんは家の外で待ってて」
「俺、ここまで来たのに!?」
「まぁ、正くんが駆くんを助けるって言ってるんだから、ここは私と正くんを信じて外で待っててよ」
正が八雲の言葉に応じるように、親指を立てた。
「こんな微妙な距離で勝利を願うことってあるんだ……」
ぶつぶつと言いながら、駆が家の外へと歩いていく。
駆が家を出るのを見て、八雲は正に声を掛けた。
「じゃあ、正くん……その子を起こしたらやってほしいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「まぁ、なんていうか……君、早押しクイズは得意?」
***
目を覚ますと、少年の側には背の高いお姉さんとメガネを掛けた上級生のお兄さんがいた。
何がなんだかわからない少年に、お姉さんは八雲を名乗り、上級生を指して「こっちは正くんだよ」と言った。
そして、自信たっぷりに自分の胸を叩いてみせた。
「きみを助けてあげる」
八雲が言った。
今まで会ってきたどんな人よりも信頼できそうに思えたが、今までのことを思い出して少年は恐ろしくなってきた。
そんな人もあっさりと目の前から消えてしまう。
「友だちが……ピンチなんだ。どうか怖がらずに僕たちに助けられてほしい」
少年の肩に正が手を置いた。
怪しい男とは違う。
小さく、しかし温かい手だ。
肩から正の思いがじんわりと身体に入り込んでくるようだった。
恐ろしいのは変わらないけれど、信じてみようと少年は思った。
「きみは何もする必要はないからね」
玄関に少年を座らせて、八雲が言った。
「ただ、怖がらないで欲しい……おばけはそれを喜ぶから」
そう続けて、その手を少年の頭の上に置く。
「……なんで、安心してるんだろうねぇ」
その時、少年の背後から声がした。
あの怪しい男の声だ、僅かに怒りが滲んでいる。
「ヒッ」
少年が小さく悲鳴を漏らして、身体を縮こまらせた。
「きみ、助けを求めても無駄だからね。きみが助けを求めた相手もぜーんぶ消えるからね……」
怪しい男がそう言って、八雲を睨みつける。
男の視線を受け止めて、八雲が涼やかに笑う。
「やってみろ」
「……ここには昔」
八雲がそう言った瞬間、男もまた少年に言葉を聞かせ始めていた。
だが、それに被さる声があった。
「誰にも何も影響を与えられなかった油すましがいたらしいよ」
正の声だ。
瞬間、少年の視界が白く歪んだ。
「今もいるぞ!」
恐ろしい声がした。
少年は気を失いそうになったが、リビングからテレビ番組の音が聞こえて、懸命に意識を保った。
いつも母親の見ているテレビ番組、そして機嫌の良さそうな鼻歌。
――ママが戻ってきたんだ!
玄関に明かりが灯り、うっすらと積もっていた埃は消え去った。
少年は立ち上がり、恐ろしい声の主を見ようとした。
だが、そこには誰もいない。
「このおばけの本質は、恐ろしい油すましという存在の噂話なんだ……直接、人間を襲わない分、こういう手段に弱いねぇ」
八雲の手が、少年の頭の中に入り込んだ。
怪しい男が慌てたように少年に向かって叫ぶ。
「昔、ここには……きみを助けようとしたみんな――」
「――に何も出来なかった油すましがいたらしいよ!!」
男の言葉を奪うように正が大声を出す。
それと同時に、八雲が少年の頭の中の何かを握りつぶした。
「そして、今はもう何もいない……さよなら」
八雲が少年の頭から手を抜きさると、男の姿は消えていた。
油すましは現れなかった。
***
二人が家の外に出ると、もう日が暮れて外は夜になっていた。
二人の姿を見て、駆が駆け寄る。
両足ともしっかりと見えている、何もかもが元通りになったらしい。
「とりあえず今日二度目ですけど、本当にありがとうございました」
駆が八雲に向かって頭を下げる。
「正もマジでありがとな」
そして、正に対しても頭を下げた。
「いいって、いいって、お互い様だから」
正が慌てたように両手を振る。その顔は照れで赤くなっていた。
「正……」
「ん?」
「お前、本当におばけ退治の手伝い、やるんだよな」
「うん、やるよ」
真剣な口調で正が言った。
簡素な言葉の中に覚悟がこもっていた。
「それ、俺もやるよ……いいですよね、八雲さん」
「……ん、ありがとね」
八雲を見上げて、駆が言った。
八雲がゆっくりと頷く。
「じゃ……スマホの通話アプリなんかやってるかなぁ、交換しよっか」
三人はスマートフォンを取り出し、通話アプリのグループチャット機能を利用して、三人の部屋を作った。
おばけ退治――八雲が部屋名を打ち込む。
名前はこれで良いのか、駆も正も首をひねったが、後から修正すればいいと思った。
油すましは退治された。
見慣れた道を通って、家へと帰っていく。
「……あれ」
「どうした?正」
正がある家を見て、足を止めた。
「こんなところに家なんてあったっけ……?」
「……あれ?そういえば、そうだな」
記憶を探ってみると、どうもここは空き地だったような気がする。
家に戻る途中にそんな違和感が何度もあった。
イルミネーションの数、電灯の数、屋根の色、表札の名前。
自分たちの知っている今のはずなのに――どこか、おかしい。
「八雲さん!油すましは退治されたんですよね!」
「うん、間違いなく退治されたよ」
「じゃあ……なんで、こんなにおかしいんですか?」
「んー……」
八雲は額に手を当てて少し考え込んだ後に言った。
「油すましは退治されて、全部元に戻ったよね」
「はい」
「つまり、君たちが知っていた今も既に油すましの影響を受けていたものだった、ってことなんだろうね」
「えっ……」
「まぁ、大丈夫。すぐに慣れると思うよ?」
心臓が高鳴る。
やたらにうるさく蝉が鳴る。
蝉はミンミンと鳴いているが、図鑑に乗っているその蝉の名は自分が知っている名前だろうか。
正しいと信じていたものが、そもそも間違っていたのかもしれない。
もしかしたら、全く知らない人間が母親や父親の代わりに家にいるかもしれない。
「……ぜーんぶ、僕らの知ってる感じに戻してくれる都合の良い油すましというおばけがここにいたりはしませんかな?」
「もういないよ」
放課後、おばけを退治する 春海水亭 @teasugar3g
★で称える
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