オルゴールと時計工

米山

オルゴールと時計工

 僕が通るその道は決してスタンダードなものではなかった。自転車一台がやっと通れるくらいの狭さで、大昔に舗装されたっきりの忘れられたような路地だ。右手には少し大きな川が流れ、左手には僕の上背と同じくらいのコンクリートが商品棚みたいにきっちりと並んでいる。時々、この路地に面した住宅の裏口からその家庭の営みが垣間見えることもなくはなかったが、誰かがこの道を通ることで困る人なんてほとんどいないように思えた。

 一日に数度、決まった時間ではないけれど僕はその道を散歩した。そのまま買い出しに出かけたり、外食をしてきたりすることもあったが、それは基本的に意味を持たない習慣化された歩行だった。眠る前に歯を磨いたり、朝食にバタートーストを作るようなことだ。川のせせらぎを聞きながら、鼻歌でも歌って、取ってつけたような考え事をする。



 一月ほど前からだろうか。路地に面した何処かの家から、ピアノの音が聞こえてくるようになった。かなり有名な曲のはずだったが、名前は知らない。冷たい雨の日の朝に世界の美しさを遺書に綴るような、そんな感じのクラシック音楽だった。

 僕が不思議に思ったのは、毎日決まった時間(恐らく夕方の五時頃)に決まったフレーズが聞こえてくることだった。一分程のフレーズを弾いて、二三分の休憩をはさみ、また一分間の演奏をする。それは一音もずれることなく機械みたいに繰り返される。僕にはどうしてそんな弾き方をしているのか見当もつかなかった。普段、僕はそのコンクリート壁の向こう側を気にしないようにしているのだけれど、その奇妙なピアノの演奏だけはどうも気になってしまった。

 演奏が終わって少ししてからのことだった。

「ねえ」と壁の奥で女の子の声がする。「あなた、いつもそこを通っているのね」

 この場を去るのも随分冷たく不誠実な行為な気がしたし、勝手に演奏を聴いていて後ろめたい気持ちもあった。「迷惑だったかな」と壁越しに伝える。

「いえ、構わないわ。そこは誰の道でもないもの」と声の主は言う。「そんなところで立っているくらいなら、どう? こっちに来ない?」

 どうしたものかと僕は思案するが、結局彼女に促されるまま古い木の裏戸を開く。僕が少し屈んでそこをくぐると、先は小さな庭のようになっていて、四角い窓枠の側に幾つかの園芸道具と小さなベンチが拵えられていた。家はレンガ造りで、その窓は唯一の窓だった。随分と手入れが行き届いていないらしく、大小様々な蔦植物が外壁と庭を覆っている。

 僕はベンチに腰掛ける。

「綺麗な演奏だね」

「どうも、ありがとう」少女はピアノ椅子に座ったまま言う。四角い窓枠はまるで額縁にようにその奥の景色を平らなものにさせていた。

 少女は十五、六歳くらいに見える。日本人ではないようなので、年勘定をするのが難しい。彼女の肌は白く、髪は果実の断面のように明るい金色だった。浅い海底のような色を帯びた彼女の眼は異国の情緒を湛えている。青と白のストライプ柄のワンピースが良く似合っていた。

「どうしていつも同じフレーズを弾いているんだい?」僕は言う。「演奏会とか、そういうもののための練習?」

「いいえ、違うわ。ただこのフレーズが好きなだけ」

「飽きないの?」

「飽きるとか、飽きないとか、そういうものじゃなくて。もっと、原始的なものなの」

 原始的。僕はその言葉の意味が理解できなかった。彼女も自身の感情を表す適切な言葉を見つけられないように見える。

「とにかく、君はこのメロディーを気に入っているわけだ」と僕は言う。「曲名はなんていうんだろう。かなり有名な曲だと思うんだけど、ほら、大多数の人間は有名なクラシック音楽のタイトルなんて知らない」

「サティの『ジュ・トゥ・ヴー』。一般教養とまでは言わないけど、それくらい知っておいた方が良いかもね」

「ジュ・トゥ・ヴー」

「気に入った?」

「とても」

 ふふ、と彼女は笑う。彼女としては知性的な笑みを浮かべたつもりなのかもしれないが、どうにも顔の造りが幼かったため、それは誰かから褒められて満足げな表情をこぼす少女にしか見えなかった。



 僕は随分と優秀な時計技師だった。仕事が正確であることは、この職業において最も必要とされたことだし、おまけに手も早かった。納期を過ぎたことなんて一度もないし、ましてクレームが入ったこともない。家は曾祖父の代から続いてきた平凡な町の時計屋だったが、そういった理由で、僕に対する修理やメンテナンスの依頼は後を絶たなかった。どれだけ数をこなしても、当分先まで予約が埋まってしまっている。僕にはそれだけ時計技師としての技術と才能が備わっていた。

 僕も割合この仕事が好きだった。自分で一から時計を作ることよりも、修理やメンテナンスの方が得意だったので都合も良い。また、ひとりで気楽だったし、精密な時計の機構を眺めるのは楽しかった。ずっと座ったままの作業なので首や腰が痛くなることを除けば、僕にとってほとんど完璧に近い職業だと言えそうだった。金に興味はない。

 ただ、じっと一点の時計と向き合って、一つ一つ歯車を丁寧に取り外し、手入れをし、またその部品を組み立てる。それを繰り返す。何度も、同じことの繰り返し。再び組み立てた時計を見ると、僕の存在が希薄になっていくような感じがした。その行為は、僕の中の何かを奪い取って、いずれ枯れた井戸のように空っぽにしていく。

 長い間仕事をして集中力を切らす。そうしたら僕は砂時計をひっくり返すみたいに散歩に出かけて、再び同じ旋律に耳を傾ける。



「仕事はしていないの?」彼女は僕に問う。「毎日暇そうだもの。何かを思いだそうとしてるみたいに散歩してる」

「家が工房でね、時計工をしているんだ。だから、いつ仕事をしようったって僕の勝手だし、誰かの言いなりになって仕事をする必要もない。でも、ずっと一人で家に籠りっきりでいると、年寄りの亀みたいな気持ちになるから、たまにこうして散歩してるんだよ」

「ふうん」と彼女は自身の指を見つめながら興味なさげに言う。そして、その細く長い指は滑らかに鍵盤を撫でていく。僕はその心地よい旋律に背をあずける。

「思ったんだけどさ」演奏が終わったタイミングで僕は言う。「弾き始めの方、半音ズレているところがあるんじゃないかな。CDで聞いたものと、少し異なる気がする」

 彼女は少し時間をかけて鍵盤から指を離す。

「そうでないと、意味がないの」彼女はそっぽを向いて言う。「そうあるべきでないのは分かっているのだけれど。気を悪くしたなら謝るわ」

「とんでもない。それにしたって君の演奏は綺麗だ」

「そう」と呟いて彼女は時計を見る。その時計には長針と短針の他に三本の針が独立して存在していた。一本は秒針であるように思えたが、他の二本が何なのかは僕でも分からない。そしてその奇妙な二本の針だけが心臓みたいに小さく揺れ動いている。

「変わった時計だ」

「気になる?」

「職業柄ね」

「ねえ、もし私がこの時計を直してほしいって言ったら、あなたは直してくれる?」彼女は言葉を捻りだすように言う。「お金は払えないけど」

 僕は彼女が差し出した時計を眺める。それはかなり年代物のフランス製の置時計だった。文字盤に記されたローマ数字はほとんど剥げ落ちており、木製のフレーム部は焦げたベーコンのようになってしまっている。

「随分古いものみたいだし、部品の交換が必要なら難しいかもしれない」と僕は言った。「でも、一度視てみるよ。友人の頼みだからね」

 彼女は今にもほどけてしまいそうな笑顔で言った。

「それじゃ、お願い」



 そこに彼女はいなかった。もとより存在していなかったと言った方が正しいのかもしれない。

 僕は庭のベンチに時計を置く。かつてそこに存在したはずの窓を触ると、経年劣化したレンガがボロポロと崩れ去っていった。壁一面に張り付いた蔦や葛はその建物が倒壊してしまわないよう支えているみたいに見える。

 すべては僕の幻覚だったのだろうか。

 再び時計に目をやると、その隣に時計と同じくらい薄汚れた箱が置いてあることに気付く。僕はその小さな箱を手に取って上下に開く。

 中には時計の内部と同じくらい精密な機構が備わっていた。中央の筒はゆっくりと回りだし、冬の朝を模ったみたいな旋律を奏でる。

 水端の音は半音だけ低いようであった。

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オルゴールと時計工 米山 @yoneyama

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