第10話 【胸がもやもやしてしまう】

 翌週の月曜日、廊下で井崎さんとすれ違った。


「こんにちは」


 挨拶すると彼女はこくっと頷き、歩いていく。一方的に仲よくなったような気でいたが応対はあいかわらずだった。


「潮野くん」


 その場を離れようとしたところ、井崎さんがわざわざもどってきて俺に声をかけた。彼女はきょろきょろと周囲に目をやってから小声で言う。


「読んだ?」

「え?」

「『冬のドアの向こう』」

「あ、いや、まだ序盤だけ。SFっぽい描写がやっぱり苦手で」

「そのあたりは斜め読みでもいい。人物名と会話を追えば話は分かるから」

「そっか。――なんか意外だな」

「なにが」

「読書家って、もっとこう……、にわかには厳しいと思ってた」

「そういう時期もある。そこを脱すると逆に読書沼に引きずりこむようになる」

「妖怪みたいだな」


 ぶっ、吹きだし、口元を手で押さえる井崎さん。


 ――今、笑った?


 しかし顔から手が離れたときにはふだんのポーカーフェイスにもどっていた。


「とにかく、難しい描写にめげずにストーリーを味わってみて」

「あ、ああ」

「じゃあ」


 井崎さんは去っていった。


 ――……あれ? いま『じゃあ』って言ったよな?


 まともに挨拶されたのは初めてだ。


「ははっ」


 嬉しくて笑いが漏れた。





 その後、井崎さんとちょくちょく話をするようになった。クラスが隣であることもあって出くわすことも多いのだが、彼女は周囲に誰もいないときでないと応じてくれない。本が好きであることをバレたくないのだろうか。


 いつ貝守さんに井崎さんの話をしようかな、などと考えながら、放課後の図書室へ赴いた。


 貝守さんは本を読んでいた。邪魔をしないようにそっと席について様子を窺う。いつもならころころと表情が変わるのに、なんだかその日は終始心ここにあらずといった顔で、ページの進みも遅い。


 ――……?


 ちょっと気になったが、いつまでも凝視しているわけにもいかず、俺はスマホをとりだして電子書籍の『冬のドアの向こう』を読み進める。


 翻訳された文章ということもあり、三人称が多かったりして文意がすっと頭に入ってこないことも多いが、飽きずに読むことができているのは井崎さんのアドバイスがよかったからだろう。順調に読書沼に引きずりこまれているのかもしれない。


 鐘が鳴る。図書室が閉まる時間だ。俺はスマホを鞄にもどし、貝守さんに声をかける。


「帰ろうか」

「あ、すいません。今日は……」


 貝守さんは顔を伏せ、搾りだすような声で言った。


「そう……? じゃあ、先に帰るよ」

「はい……」


 なんだか思いつめたような様子だ。


「なんか問題があるなら遠慮なく言ってくれていいからね?」

「……ありがとうございます」


 一体どうしたのだろう。後ろ髪を引かれるような思いを感じながら俺は図書室を出た。結局、彼女が顔を上げることは最後までなかった。




【小野山くんが女の子と楽しそうに話していた。相手はたしか図書委員の黄川田きかわださんだ。わたしに気づき、彼は声をかけてくる。


「よかったら君の意見を聞かせてくれないか。この前読んだ本でさ――」

「あ、ごめん。あまり時間がなくて……」

「そう、残念」


 わたしは会釈してその場を去った。


 嘘をついてしまった。彼の優しい眼差しが、ほかの女の子に向けられているのがつらくて、逃げてしまった。


 ――そっか。


 わたしは立ち止まった。


 ――これ、嫉妬だ……。】





 井崎さんとの会話が増えたのと入れ代わりのように、貝守さんとの接点が減ってしまった。当然、忙しい時期もあるだろうと頭では分かっているが、胸に大きな空白ができてしまったような虚無感が生まれ、ぼんやりする時間が増えた。


 明日、少し離れた祖父の家に頂き物の野菜ジュースをお裾分けしに行くと母が言ったので、俺が代わりに行くと申し出た。


「どういう風の吹き回し?」


 ありがたがられる以上に不審がられた。ふだんの行いのせいだろう。俺がおつかいを志願したのは、明日は休日だというのに予定もなく、閉じこもっていては気分がくさくさしそうだったからだ。


 小説のほうは飽きずに読めてはいるが、そもそも読書慣れしていないから進行は遅く、ようやく半分に到達するところだ。祖父の家に向かう電車の中でも読み進めるが、胸の虚無のせいではかどらない。


 祖父の家では、ゆっくりしていけ、あれを食え、これを飲めの大歓待を受けた。俺が来ると知り、祖母が朝から買い物に出かけて料理やら菓子やらを用意したらしい。気持ちは嬉しいが、野菜ジュースよりかえって高くついたのではないだろうか。


 昼食やらデザートやらをたらふく食った満足感でいくらか気がまぎれた。帰り際、今度はいつ来るんだとしつこく聞かれ、また近いうちにとお茶を濁して祖父宅を出た。あまり頻繁に訪れるとぶくぶく太ってしまいそうだ。


 ぶらぶらと駅のほうへ歩いていると、アーケード街にある古い映画館の前にちょっとしたひとの群れができているのが目についた。


 入り口付近には『冬のドアの向こう』の立て看板が設置してあった。


 ――もう封切りされたのか。


 上映スケジュールを確認すると、あと二十分ほどで上映されるらしい。席はまだ空いているようだ。母からもらった電車賃兼お駄賃もある。


 俺はちょっと迷ってから映画館に足を踏みいれた。チケットを買い、劇場の席につく。ストーリーの本線はラブロマンスということもあってかカップルの客が多く、肩身がせまい。俺と同じ一人客は斜め前の席に座ったフードを深くかぶった人物くらいしかいない。仲間がいてちょっとほっとする。


 やがて暗くなり、新作映画の宣伝映像が流れたあと、いよいよ本編が始まった。


 物語の大筋は把握していたが、映画となるとまた見え方が違った。心理描写などは小説のほうが詳細だが、俺が飛ばして読んだSF的なギミックは、ビジュアルが分かるため映画のほうが理解しやすい。


 俳優たちの熱演もあって、いつの間にか映画の世界に引きこまれていた。が、そんな俺よりも斜め前のフードの客のほうがのめりこんでいるようだった。


 軽妙な掛けあいの場面では肩を揺すって笑い、大きな音が鳴る場面ではびくりと身体を震わせ、緊張感のある場面では食い入るように身体を前のめりにする。


 映画を全力で味わっている。本を読んでいるときの貝守さんを見ているようで、気持ちがほっこりしてくる。


 その人物が座りなおしたとき、フードがはらりと落ちた。


 ――……え!?


 俺は思わず二度見した。


 長い髪、整った顔立ち、そして大人っぽい泣きぼくろ。


 井崎さんだった。


 スクリーンでは主人公とヒロインの別れの場面が流れている。涙を堪え、笑顔で別れを受けいれるヒロイン。しかし笑顔だからこそ、より彼女の悲しみが伝わってくる。


 そんなヒロインの代わりとでも言わんばかりに井崎さんはぼろぼろ泣いていた。口に手を当てて嗚咽を押さえこんでいるが、ときおり「んぐ……!」と声が漏れてしまっている。


 こうなるともう井崎さんが気になって映画どころではない。ストーリーが進む→井崎さんのリアクションを見る、の繰り返しだ。目的が井崎さんのほうになってしまっている。


 そして映画はついにピリオドを迎えた。井崎さんは恍惚とした表情で、流れていくスタッフロールを見つめていた。


 劇場が明るくなる。


 ――やべ。


 俺が見ていたと知ったら気まずい思いをさせるだろう。とっとと退散しようとしたが、左右のカップルがだらだらと帰り支度をしてなかなか席を立たない。


 ――早く! 早くしろ!


 じりじりしながら待っていると井崎さんが立ちあがり、何気なくといった様子でこちらに顔を向けた。


 ほくほくとしていた表情が青ざめた。


「ちわっす……」


 とりあえず挨拶してみたが返事はない。口を半開きにしたまま固まってしまっている。


「あ、あ……」


 やがて、うめき声をあげたかと思うと、座席の背もたれを超えて身を乗りだし、俺の肩に手を置いた。その仕草、鬼気迫る表情は、まるでテレビの画面から這いでてくる系の亡霊みたいで、俺は思わず「ひっ」と喉を鳴らした。両隣のカップルもそそくさと席を離れていった。


「潮野くん」

「な、なんでしょう」

「映画館の裏に来て」


 ――ヤンキー……!?


 カツアゲされたあげく、ぼこぼこにされてしまうのだろうか。


「わ、分かりました……」


 俺は震える声でそう返事をするのが精一杯だった。



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