第4話 【彼はどうして照れたのだろう】

 貝守さんともっと仲よくなりたい。彼女との時間を増やしたい。


 でも俺が一方的に好意を持っているだけで彼女はなんとも思ってないだろうし、あまりぐいぐい行ったらきっと迷惑になるだろう。


 などと思い悩みながら一週間がたち、水曜日となった。俺は図書室の扉の前に立っている。


 とてつもない緊張感。しかし逃げだしたいという思いは少しも湧いてこない。今まで感じたことのないアンビバレンスな気持ちを抱えながら、俺はドアを静かに開いた。


 カウンターで貝守さんが読書している。本と顔の距離が近い。まるで本の中に飛びこもうとしているかのようだ。


 こちらにはまったく気づいていない。邪魔をしては悪いと思い、俺はカウンターの見える席に静かに腰かけた。


 貝守さんは目をきらきらさせている。よほど面白い本なのだろうか。


「ふふっ……」


 小さく笑った。かと思えば、ちょっと怒ったみたいに眉間にしわを寄せたり、納得いかないみたいに口をへの字にしたり、ページを繰るたびに表情がころころと変わる。


 横顔を見つめはじめて三十分くらいたっただろうか。貝守さんの眉尻が下がり、目に涙がにじむ。いよいよクライマックスだろうか。


 頬を伝う涙をハンカチで拭いては、ハイペースでページをめくる。


 ほっとしたような気が抜けたような表情になる。山場は超えたようだ。そして次に、


「……」


 かすかな吐息が聞こえた。顔が紅潮し、耳まで赤くなっていく。山場のあとに色っぽいシーンでもあったのだろうか。


「あ、あの……」


 貝守さんはか細い声で言う。


「そんなに、見ないでもらえないでしょうか……」


 と、横目でこちらを見た。赤面は、俺の視線に気づいたからだったらしい。


「ご、ごめん。つい」

「いえ、あの、わたしのほうこそ、気づかなくてすいません……。退屈だったでしょう……?」

「それは大丈夫」


 見てて飽きなかったから。貝守さんは不思議そうな顔をした。


「それにしてもすごい集中力だな」

「いえ、そんな」

「俺、集中力なくてさ。なんかコツとかない?」

「コツ……」


 首を傾げ、視線を漂わせる。


「本を、開いて……」

「うん」

「気づいたら、集中しています」

「……そう」

「お役に立てず、すいません……」


 と、縮こまる。


「音楽をかけたりしてるんだけど、すぐに集中が途切れちゃうんだよね。貝守さんは音楽をかけたりしないの?」

「なにか音がしていると、集中できませんし、集中したら、聞こえなくなるので……」

「そっか」


 そのとき天啓のように閃くものがあった。


「勉強とかもさ、場所を変えると集中できるって言うでしょ? 図書館とか、カフェとか。そういうところには行かないの?」


 おすすめのスポットを尋ねて、うまいこと一緒に出かける流れにすればいい。そうすれば図書室以外でも一緒に過ごす理由ができる。


 と、思ったのだが。


 貝守さんはぶるぶると首を横に振った。


「絶対に行きません……!」


 思いのほか力強い返事が飛んできて面食らった。


「声も、人目も気になって、まったく没頭でないので……」

「そ、そうなんだ」


 俺の閃きは一蹴された。


「じゃあ、休みの日はなにしてるの?」

「家で、本を読んでいます……」

「でも、ちょっとくらいは出かけるでしょ?」

「いえ」

「少しも?」

「はい」

「一歩も?」

「……すいません」


 貝守さんはしゅんとしてしまった。


「べつに責めてるわけじゃないから!」

「家が、一番安心します。次に、ここ」

「たしかに静かでいい場所だと思うけど」

「外は、危険が一杯です」

「そうか?」

「事故に遭う多くのひとは、外に出かけています」

「ま、まあ、そうだけど」


 筋金入りのインドア派だ。


「え、ええと、服とかは? 買いに行くでしょ?」

「あまり出かけないので、必要ありません……」

「なんかごめん」

「服屋さんは、話しかけてくる店員さんが、怖いです……」

「ちょっと分かる」

「気にかけてくれるのは、ありがたいんですが……。買わないと、申し訳ない気持ちになってしまうので……」


 俺は単純にウザいと感じてしまう。申し訳ないと思う貝守さんはすごく優しいと思う。ともかく、彼女をデートに誘うのは困難を極めそうだ。


「あ、本屋さんには、行きます」


 本屋デート。その手があったか。


「そのお店独自の企画やランキングが、すごく興味深くて……」

「そ、そう。俺も――」

「誰にも邪魔されず、時間も気にせず、陳列されている本を――。すいません、遮ってしまいました。なんでしょう……?」

「い、いや」


『誰にも邪魔されず』と強調されてしまっては、一緒に行きたいとは言いづらい。


「でもちょっと安心した」

「なにがでしょう……?」

「外では本を読まないんだろ? さっきみたいに周りが見えなくなってたら危ないもんな」

「……」


 貝守さんは気まずそうに視線をそらした。


「え、だって、集中できないんだろ?」

「ふだん行かない場所では……」

「つまり?」

「登下校は、結構読みます……」

「歩きながら?」


 こくっと頷く。


「いやいやいや、危ないだろ」

「慣れてますので……」

「階段から足を踏みはずしそうになったこととかは」

「それは……」


 なにか思いだしたような顔をする。


「ほら!」

「で、でも、今まで一度も落ちたことはありませんし……」

「いつかそうなるかもしれない。いやそれより変な奴にいたずらされたり……!」

「変な、奴?」

「痴漢とか!」


 貝守さんはきょとんとしたあと、口元を押さえて吹きだす。それだけではとどまらず、肩を揺すってくつくつと笑いだした。意外と笑い上戸なんだろうか。


 彼女を笑わせることができてとても嬉しい。しかし問題があった。それは、俺がまったく冗談を言っていないということだ。


 貝守さんはひとしきり笑ったあと、


「大丈夫ですよ」


 と、妙に自信あり気に言った。


「誰もわたしなんか、狙うわけがありませんから」

「……なんで?」

「もっと可愛い子が、たくさんいますので」

「そんなことないだろ!!」


 思いのほか大きな声が出た。貝守さんは目を丸くしている。


「あ、いや、違くて……」


 貝守さんだって可愛い、なんて恥ずかしくて言えるわけがない。


「……そう。痴漢は大人しそうな子を狙うって言うだろ。大声出したり、逆らったりしなさそうな」

「……」


 少し怯えるように眉をひそめる。


「決して脅かすつもりはないけど、どんなやばい奴がいるかも分からないから」

「ど、どうすればいいでしょう……?」

「まず本を読みながら歩くのはやめたほうがいい。それから、もっと自信ありげに振る舞う」

「自信……。どうすればそう見えますか……?」


 と、自信なさげに尋ねる。


「背筋を伸ばすとか」

「背筋……」

「こう、ぎゅーん! と」

「ぎゅーん、ですか……」

「ちょっとやってみて」

「は、はい……」


 貝守さんは顔を赤くして、


「ぎゅ、ぎゅーん!」


 と、やけっぱちみたいに背筋を伸ばす。


 ――な……!?


 俺は目を見張った。彼女が背筋を伸ばしたとたん現れたそれに。


 制服の上からでも分かる、胸の豊かなふくらみ。どちらかと言えばスリムに見える貝守さんには不釣り合いな隆起。猫背に隠れて今までまったく気づかなかった。


「逆効果!」

「ぎゃ、逆……?」

「いったんやめよう」


 目のやり場に困る。


 貝守さんは元どおり背を丸めた。俺はせき払いをして言った。


「胸は張らないほうがいい」

「はあ……」

「でも自信は持っていい!」

「矛盾しているように思いますが……」


 と、怪訝な顔をした。


「とにかく、歩きながらの読書はやめて、周りに気をつける。分かった?」

「善処します……」


 貝守さんは不承不承といった様子で頷いた。



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