第8話 【これってデート、かな】
『わたしの人生を変えた本 書店員が選んだ二十四冊』
POPにはそう書かれていた。什器にはハードカバーやー文庫本が並んでおり、つや消しの紙の帯にはぎっちりと推薦文が記されている。
聞いたことのあるタイトルもあるが、ほとんど知らない本ばかりだ。
「貝守さん、全部読んだことあるの?」
「さすがに全部は……。でも、ほとんど」
それでも充分すごいと思うが。
「人生は変わった?」
貝守さんはしばらく考えてから言った。
「……分かりません。でも、豊かにはなったと思います」
「なんかかっこいいな、その言い回し。俺も使っていい?」
「どうぞ」
口元を押さえ、くすっと笑った。
推薦文を読むだけでも選者の熱が伝わってくる。しかし俺には貝守さんの解説のほうがすっと胸に入ってくる感じがした。
結局、貝守さんは読んだことのなかった二冊を、俺は一番薄いやつを買い、店を出た。
休日もこうして並んで歩けるなんて、俺はついている。
貝守さんは両手でトートバッグを提げ、しずしずと歩いている。
「今日は読まなくていいの?」
「少し、暗くなってきたので」
会話は間欠泉みたいに途切れ途切れ。しかしそれが貝守さんの――いや、俺と貝守さんのリズムだ。余白は余白のままでいい。それが心地よい。ただもう少し貝守さんのことを知りたいなとは思う。
例の公園に差しかかった、そのとき。
「タケル!!」
女性の切羽詰まったような叫び声が聞こえた。俺たちはほぼ同時に振りかえる。
ジャージの女性が倒れて腕を伸ばしている。その先にはミニチュアダックス。キャンキャンと甲高い声で吠えながら、尻尾を振り振り、こちらに向かって猛然と駆け寄ってくる。
僕を撫でてください! そんな声が聞こえてきそうなはしゃぎっぷりだ。
「きゃあああ!!」
別の甲高い声が、今度は俺のすぐそばでたてられた。
貝守さんの声だった。いつもはウィスパーボイスとはほど遠い声量だ。
彼女は公園の中に逃げこんだ。ミニチュアダックスのタケルくんは一度立ち止まったあと耳をぴんと立てて、貝守さんを猛ダッシュで追走した。
「ああ……」
そりゃあ逃げれば追いかけられるに決まってる。習性だもの。
貝守さんはきゃあきゃあと叫びながらばたばたと逃げる。タケルくんはきゃんきゃんと吠えながらぴょんぴょんと追いかける。
あんなに大きな声を出し、アグレッシブに動き回る貝守さんはレアだ。もう少し見ていたい気もするが、さすがに気の毒になってきた。
俺は彼女らの進行ルートに立った。貝守さんをやり過ごしてタケルくんを止める。
貝守さんは意図を察したようで、俺の目前で進行方向を転換した。
いや、しようとした。
その瞬間、足がもつれた。
「きゃ……!」
もう体力が限界だったらしい。自分の足に自分の足が引っかかり、貝守さんはこける。
「っとお!?」
倒れこんでくる彼女を俺は身を屈めて右腕で受けとめた。
――え、ちょ……!
気が動転しているためか必死にしがみついてくる。貝守さんの匂いや体温、なにより腕や胸に押しつけられる柔らかな感触にこちらが動転しそうだ。
僕も! と言わんばかりにタケルくんが跳躍した。まさか払い落とすわけにもいかず、左腕でキャッチする。タケルくんは俺の頬を火でも吹きそうな勢いでぺろぺろと舐めた。
「すいません!」
ジャージの女性がようやくやってきた。
「タケル! 誰にでもそうやって!」
タケルくんは引きはがされた。
危機は去った。しかし貝守さんは俺にしがみついたまま動かない。
「か、貝守さん、そろそろ……」
「え? あ……!」
弾かれたように離れた。
「す、すいません……」
と、耳まで赤くしてうつむく。
「怖がらせちゃって、ほんとにすいません!!」
ジャージの女性は貝守さんに深々と頭を下げる。
「あ、だ、大丈夫、です。事故、ですから……」
「ほんとに、ほんとにすいません……!!」
「どうぞ、お気になさらずに……」
「彼氏さんにもご迷惑を」
「え!? いや違いますよ! 友だちです」
――まだ。
「え、ごめんなさい。仲がよさそうだったから」
「いえ」
なんだかもう、むしろありがとうを言いたい気分だ。
女性はぺこぺこと頭を下げながら去っていった。
「びっくりしたな」
俺は苦笑いをする。貝守さんはうつむいたままだ。
「すいません……」
「いや、犬の話。というか貝守さんって、犬、苦手なんだ?」
「あ、はい……」
「あんなに可愛いのに」
「見た目は。でも彼らは、粗野で、野蛮です……!」
憤然とする貝守さん。今日はいろんな珍しい表情が見れる日だ。
「子供のころに噛まれたとか?」
「いえ、直接は」
「どういうこと?」
「幼稚園のころ、お気に入りの絵本を、近所の公園で読んでいたんです。そうしたら、大きな犬がやってきて、絵本をめちゃくちゃにされました……。それ以来、苦手です……」
そのときのことを思いだしたのか貝守さんは悲しげに眉を歪める。まずい、話を変えよう。
「そ、それにしてもさ!」
貝守さんがちらと目を上げる。
「え、ええと……。――そうだ、占い」
「占い、ですか……?」
「この前、占っただろ? あれ、けっこう当たってたんじゃない?」
貝守さんは首を傾げる。
「どこが、でしょう……?」
「ほら、たしか……、『いつもより遠くに足を伸ばす』だっけ? 今日はいつもより遠い本屋に来ただろ?」
「そう、ですね」
「それから……、そう、『アミューズメント施設でわいわい騒ぐ』。公園も娯楽施設と言えなくもないし、貝守さん、さっきまで騒いでたし」
「お恥ずかしいところを……」
と、うつむく。
「まあ、最後だけ大はずれだけどな」
「大はずれ……?」
「だって、運気アップって書いてたのに、犬に追いかけられるし、こけるし」
「……」
「俺とハグする羽目になったし、果ては彼氏にまちがえられてさ。ははっ」
「……」
――無言……!
完全に顔を伏せてしまい表情はうかがい知れない。貝守さんがどう思っているのかを知りたくて鎌をかけてみたのだが、照れているのか、なんとも思っていないのか、嫌がっているのか、これではよく分からない。
「え、ええと……、帰ろうか」
貝守さんはこくっと頷いた。
帰り道、彼女はいつにもまして無口だった。
【靴擦れで歩けなくなったわたしを、小野山くんはおぶって歩く。
思ったよりも力強い腕、たくましい背中。ああ、男の子なんだな、と当たり前のことに今さら感動する。
小野山くん、こんな匂いなんだ。あ、うなじにほくろがあるんだ。
余計にどきどきしてきてなにも言えなくなり、わたしは彼の身体にしがみついた。
『いいことあるかもしれないよ?』
姉さんの言葉を思い出す。
そんなことあるわけがない。そう思っていた。
でも今は、ちょっとだけ信じてみてもいいかななんて、そんな気持ちになっていた。】
◇
次の水曜日、いつもどおり俺は図書室に赴いた。ドアを開けて足を踏みいれる。すると貝守さんは慌てた様子で読んでいた本をぱたんと閉じ、本の山の中に差しこんだ。
「こ、こんにちは……」
珍しく向こうから挨拶をしてくる。
「うん、こんにちは」
何事もなかったかのように貝守さんは別の本を読みはじめる。
しかし俺には隠した本のタイトルが一瞬ちらっと見えていた。
『占星術』
たしかにそう書いてあった。
――占いは信じてないんじゃなかったっけ……?
どういう心変わりなのだろう。
ともかく頭の中のデータベースを書き換える必要があるようだ。誕生日は十月二十一日、星座は天秤座。占いに興味はあるらしい。
今度はどんな本を話の種にしよう。俺は棚を眺めながら図書室を巡った。
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