第6話 【こんな気持ちになるなんて考えもしなかった】

 貝守さんのほうに振りかえる。彼女はきょとんとした顔でこちらを見ていた。


「ああ、偶然」


 などと繕うように微笑み、歩み寄った。


「知りあい、ですか……?」


 どう言えばいいだろう。貝守さんはまったく悪くない。ただ読書をしていただけだ。とはいえ世間には悪意を持っている人間もいるわけで、無防備でいるのもよくない。


 適切に怖がる。それがもっとも貝守さんのためになるはずだ。


「あのひとはまあ、ストーカー的な」

「ストーカー……? え、潮野くんの……?」

「いや違う! 貝守さんの」

「え……」


 と、青ざめる。


「でも大丈夫。きつく言っておいたし、もう二度と貝守さんの前に現れることはないから」


 笑顔を作ってそう言ったが、彼女の表情は晴れるどころ不安げに歪み、目尻にうっすら涙まで浮かんだ。


 ――しまった、怖がらせすぎたか。


 焦る。女の子を泣かせてしまった。必死にフォローする言葉を探すがなかなか見当たらない。


「分かりました……。もう、外では本を読みません……」


 今まで見た中で一番悲しそうな顔だった。


「それはちょっと待って!」


 俺は思わず止めていた。


「安心して本を読めない社会が悪いんであって、貝守さんが我慢することはない」


 さっきの自分の考えと正反対のことを言っている。


「でも……」

「じゃあ、――そうだ!」


 俺は思いついたままに言った。


「俺が一緒にいればいいんだ!」

「え……?」

「一緒に帰ればいいんだよ!」


 貝守さんはきょとんとしている。その顔を見て、自分が口走った言葉の意味がようやく頭に追いついてきた。


「な、な……」


 ――なにを言ってるんだ俺は……!


 貝守さんの不安にかこつけて自分の欲望を叶えようとしている。自分の浅ましさを恥じ入っていると、貝守さんが言った。


「でも、ご迷惑では……」

「まさか、そんなことは全然ないけど」

「本当に……?」

「ああ、むしろ――」


 むしろ、望んでいることだ。


「『むしろ』……?」

「い、いや……。貝守さんこそ迷惑じゃ」

「まさか!」


 貝守さんはすっとんきょうな声を出した。はっとしたように手で口を覆う。


「すいません……」


 謝るようなことじゃない。強く否定してくれて、かえって俺は嬉しかった。


 貝守さんは黙りこんでしまった。しかしその場を動こうともせず、ときおりちらっとこちらに目を向ける。俺の次の言葉を待ってくれているのだろうか。


 これは千載一遇のチャンスではないか。


「じゃ、じゃあさ――、時間が合う日は一緒に帰るか」


 貝守さんは頭頂部しか見えなくなるくらいうつむき、注視していなければ分からないほど小さく頷いた。


 俺は下っ腹に力を込めた。そうしなければ歓声をあげそうだったから。


 表情筋を引きしめて真面目くさった仮面をかぶる。


「さっそく帰るか。家はどっち?」

「あっちです……」


 と、指さす。


「よかった、俺もそっちだ」


 貝守さんはこくっと頷く。


 ふたり並んで公園を出て道を歩く。貝守さんはいつもどおり無口で、俺は緊張で言葉が思い浮かばない。


 沈黙のまま時間が過ぎていく。もっと彼女のことが知りたいのに。


 俺は会話をひねり出した。


「ええと……、そうだ、さっき読んでた本。どんな話なの?」

「あ、はい。あの……、まだ最初のところしか、読んでないんですが……。都会で、アパレルの会社を経営している女性が、南国にバカンスに行くつもりだったのに、なぜか極寒のロシアに……」

「凄まじい勘違いだな」

「それで、ええと……、そこで、自分よりも若い、バイカーの女の子と出会って……。その子の名前が……、なんだったかな……」


 鞄から本をとりだし、開く。


「ええと……、ええと……」


 ページをめくる手が止まる。目当てのページを見つけたのかと思いきや――。


「……」


 貝守さんは黙りこんでしまった。読書の世界に入りこんでしまったらしい。まるで催眠術にでもかかったかのような、とうとつな意識の切りかわりだった。


 彼女ははっと顔を上げた。


「す、すいません……。ええと……」

「いや、そのまま読んで」

「え、でも……」

「さっき言っただろ? 俺は貝守さんに安心して本を読んでほしいんだ。俺がいれば変な奴も近づいてこないだろうし」

「……」


 しばし考えるような顔をしたあと、


「ありがとう、ございます……」


 と、小さく会釈をし、本を開いた。


 すぐに没頭しはじめる。さすが貝守さん。その集中力には畏怖すら感じる。しかし、ひとつ疑問があった。


 ――そういえば、ひとがいたら集中できないんじゃなかったっけ?


 まあ、いいか。至近距離で横顔を見放題だし。


 俺は読書を邪魔しないよう声はかけず、隣を歩いた。


 貝守さんは本に集中しているのに歩道の段差などはしっかり認識しているようだし、赤信号ではちゃんと立ち止まる。かの二宮金次郎みたいだ。いや、金次郎がそうだったかは知らんけど。


 信号を渡ると、貝守さんは左に折れた。俺の家は右。ここでお別れのようだ。


「貝守さん」


 声をかけたが彼女は気づかない。


「貝守さん」


 肩を人差し指でつつく。ぴくんと背筋を反らせ、はっと振り向く。


「え、あ……。すす、すいません……」

「いや、楽しかった」


 ころころ変わる表情を近くで堪能させてもらったし。貝守さんはきょとんとしている。


「俺、こっちだから。ここから家までは読書を我慢して」

「あ、はい。すぐ、そこなので……」


 と、クリーム色のマンションに目を向ける。俺の家からでも見える建物だ。意外と近所だったらしい。


「じゃあ、気をつけて」

「あの、本当に、すいませんでした……」

「お詫びよりお礼のほうが嬉しいな」

「あ……」


 馬鹿丁寧にお辞儀をする。


「本当に、ありがとうございました……」

「うん、じゃあ、また」

「はい」


 もう一度ぺこりと頭を下げて、貝守さんは歩いていく。なんだか名残惜しくて、彼女の姿が建物の陰に消えるまで、俺はずっと見送っていた。





 日曜日の夜、『古書店サボテン堂』の最新話が投稿された。俺はベッドに寝っ転がり、小説を読みはじめる。


 倉庫の本を虫干しする茅乃。そこにやって来た小野山くんもその作業を手伝うのだが、開いた本の懐かしさに作業そっちのけで読書に集中してしまう。



【はっと我に返る。気づかぬうちに読みふけっていた。地面に引かれた新聞紙の上に、半開きになった本が何冊も立てられている。虫干しの作業のほとんどを小野山くんに押しつけてしまった。


 さすがに怒ってる……?


 恐る恐る、横目で小野山くんの顔を窺う。


 彼はそよ風に揺れる木の枝を、少しまぶしそうな目でぼんやりと見つめていた。


 その表情に、わたしの気持ちも穏やかになる。】



 ――嘘つけ!


 俺は心の中で毒づいた。


 ――茅乃の顔を見てたんだろ。で、バレそうになったから慌ててごまかしただけだ。


 そうに違いない。俺だったらそうする。いや、そうした。



【誰かと一緒にいるといつも、なにかしゃべらなければと焦っていた。なのに今はそんな焦燥感は少しもなくて。言葉がなくてもこんなに安らかな気持ちになれることを、わたしは初めて知った。


 わたしには落ち着ける場所がふたつあった。


 ひとつめはこのお店。ふたつめは自分の家。


 今日、もうひとつ増えていたことに気づいた。


 それは彼の隣だ。】



「くっそ……!」


 俺はベッドの上で悶えた。


 ――この小野山って奴、身体からマイナスイオンでも出てるんじゃねえか?


 いんちきだ。



【でも、穏やかな気持ちの中に、さざ波がたっているような、少しだけざわざわして、少しだけくすぐったい感じ。なぜか小野山くんの顔から目が離せない。


 ああ、そうか。わたし、彼のことが好きなんだ。】



 スマホを持つ手がぱたりとベッドに落ちた。聖水をぶっかけられたゾンビのように、俺は息も絶え絶えだ。


 ――もう勘弁してくれ……。


 恋愛ものの小説ってみんなこんな感じなのか? 恋心を切々と語りかけられるから、映像作品とはまた別の没入感があって、俺まで胸が苦しくなる。


「はあ……」


 ため息をつくと少しだけ胸が軽くなったが、今度は締めつけられるような痛みが増した。


 ――いいなあ……。


 寝返りを打つ。


 ――俺も、貝守さんとこんな風に……。


 また胸の苦しさがぶり返してきて、俺はことさら大きなため息をついた。


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