無口な図書委員の貝守さんは小説の中で密かにデレている
藤井論理
プロローグ 【気づいてほしいような、ほしくないような気持ち】
【「誰かに用事?」
彼は柔らかな笑みでそう話しかけてきた。
「え、あ、はい」
と、わたしは返事をした――と思う。もしかしたらしていないかも。急に声をかけられてびっくりしたから、正直そのときのことは覚えていない。
「吉岡さんに……」
わたしが言い終わるよりも早く、彼は教室に顔を突っこんで、
「吉岡さん、いる?」
と、教室のざわつきにも負けない声量で言った。
「なに?」
壁際で駄弁っていた女子グループのひとり――吉岡さんが怪訝な顔をしてこちらにやってきた。
「なんか用事だって」
彼にそう言われて吉岡さんは初めてわたしに気づいたみたいな顔をした。
「ああ、委員会の。ええと……」
名前は覚えてもらえていないようだ。
「じゃ」
彼は明るく手を振って去っていった。ここのクラスのひとではなかったらしい。にもかかわらず、教室の前でまごまごしているわたしを見かねて取り次いでくれたらしかった。
離れていく彼の背中を目で追う。今になって、お礼も言っていないことに気がつき自己嫌悪する。
それがわたしと彼が初めて言葉を交わし】
わたしはキーボードを打つ手を止めた。今しがた書いた回想シーンを読みなおす。
筆が乗り、我を忘れて執筆してしまったが、さすがに事実どおりすぎるか?
――いや……。
大丈夫なはず。わたしにとっては特別だけど、この出来事自体はそれほど特殊なものではない。舞台や登場人物の名前、キャラクターも変えてある。仮に潮野くんが読んだとしても、わたしが書いているとバレることはないと思う。
わたしは執筆を再開しようとしたが、言葉が浮かんでこない。
――もし、バレてしまったら?
そんな考えが頭の中に居座って邪魔をする。顔が、身体がかあっと熱くなって、とてもじゃないが小説を書けるような状態じゃない。
この小説――『古書店サボテン堂』は何百万とあるネット小説の中のひとつだ。執筆していること自体誰にも言っていないし、身近なひとの目にとまるなんてことあるはずがない。杞憂だ。もし読んでいたとしたら、それはもはや運命と言えるだろう。
――運命……。
その言葉に、わたしはかえって心をかき乱された。
今日はもう書ける精神状態じゃない。わたしはノートパソコンの電源を落とした。
◇◇◇
俺は視線を感じたような気がして顔を上げた。
放課後の図書室。カウンターでは
図書室には俺と彼女以外誰もいない。
――気のせいか。
俺は本を閉じた。そろそろ読むふりはいいだろう。
席を立ち、本を棚に戻してからカウンターまで移動する。
あのネット小説で、好きな本三冊が分かればそのひとのことも分かる、という話があった。だから今日は貝守さんのおすすめ本を尋ねるつもりだった。
「あのさ」
貝守さんは長い前髪の隙間から俺を見あげる。手元には山積みになった本。まだラベルは貼られていない。俺が図書室にやってきてすでに三十分はたっているはずだが、作業はまったくはかどっていないようだ。
「よかったら手伝おうか?」
貝守さんはびっくりしたように目を丸くして、ふるふると首を横に振った。
「どうせ暇だし。――これを貼ればいいの?」
貝守さんはこくりと頷く。そして虫の羽音みたいな高くか細い声で言う。
「上から順に……」
「了解」
俺は本を一山持ってカウンターのそばの席に移動した。番号の書かれたシールを背表紙の下のほうに貼っていく。
こういう単純作業は嫌いじゃない。どうすればきれいに、効率的にこなせるか、試行錯誤するのはゲームを攻略するみたいで楽しい。
「――す」
貝守さんがなにか言った。
「え?」
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
冷静を装って返事をしたものの、俺の心は小躍りしていた。気になっている女の子に感謝されて嬉しくないわけがない。効率化などしなくても、それだけで俺の作業のスピードは飛躍的に上昇した。現金なものだ。
「あの……」
貝守さんは搾りだすような声で言う。
「なにか、用事があったのでは……?」
「そうそう。聞きたいことがあって」
「聞きたい、こと……」
緊張したみたいに顔をこわばらせた。
「あ、そんなたいしたことじゃないから。――貝守さんのおすすめの本を聞きたいと思って」
「おすすめの、本……」
なぜか貝守さんの表情はさらにこわばった。
「駄目だった……?」
すると彼女はぶんぶんとかぶりを振った。
「たくさんあって……、どれにすればいいか……」
「あ、そういうこと」
俺は思わず笑ってしまった。貝守さんは顔を赤くする。
「借りていきたいからここにある本でなにかないかな」
貝守さんは頭の中のデータベースを見回すみたいに大きな瞳をぐるりと回し、おもむろにある棚に向かった。
そして俺に一冊の本を差しだす。山積みされた本に囲まれた男性の表紙。タイトルは『書の園』。
「どんな内容?」
「本の、紹介」
「本の紹介?」
「読書家の著者が、おすすめの本を。どれもまちがいありません」
「なるほど」
俺は本を受けとった。
「ありがとう。でも、貝守さんの好きな本も知りたいな」
「わたしの……」
またぐるりと目を回す。と、脇腹でも突っつかれたみたいにぴくんと震えた。
「なにか思いついた?」
「思い……、はい……、いえ」
なぜかしどろもどろになる。
「持ってきます」
そう断って、棚の森の中に入っていった。
ほどなくして貝守さんは三冊の本を携えて戻ってきた。なぜか顔が赤く、息が荒い。高いところの本でもとったのだろうか。
「まず、これ」
黒い表紙に濁ったふたつの目が描かれた禍々しい雰囲気の文庫本だった。
「『君を見てる』……。ホラー?」
貝守さんは小さく頷く。
「ちょっと意外だな。こういうの読むんだ?」
「たまに……」
うつむいて黙ってしまった。なかなかコミュニケーションがうまくいかない。
――まあ、そのためにおすすめ本を聞いてるんだし。
「え、ええと、次は?」
差しだされた本のタイトルは『ほうかご』。
「短編集……。児童文学ですけど……、読みやすくて、おもしろいです……」
「たしかに、まだ本を読み慣れてないし、こういうのもいいかも」
と、受けとる。
「もう一冊は?」
「詩集、です」
文庫サイズだがハードカバーの本だった。タイトルは『熱い思い』。
「へえ、詩集も読むんだ。幅広いね。おもしろいの?」
「おもしろい、というか……」
目を回す。
「……エモ?」
「エモ」
俺はぶっと吹きだした。貝守さんは恥ずかしそうに身体を縮める。
「ごめん、貝守さんからその言葉が出てくるとは思わなかったから」
「いえ……」
「でも俄然興味が湧いた。借りてくよ」
ひとまずラベル貼りの作業を終わらせたあと、貝守さんおすすめの本を借りる手続きをした。
「じゃあ、また」
「はい。――ありがとう、ございました」
「なんかお店みたいだな」
貝守さんは「あ」と短く声をあげたあと、口元を手で押さえ、はにかむように笑った。
その表情に目を奪われる。
俺の視線に気づき、貝守さんは首を傾げた。俺ははっとして、
「それじゃ!」
と、慌てて図書室を出た。
手のひらで顔をこする。
――危ね……。
あのままでは俺のだらしない顔を見られてしまうところだった。
バッグに借りた本を入れ、俺は玄関へ向かった。
◇
貝守さんが当番なのは毎週水曜日。実際はそれ以外の日も図書室に入り浸ることも多く、当番を肩代わりしていることもある。しかしせっかくなら借りた本を読んでおきたいので、次に会うのはやはり一週間後になるだろう。
ふだん読書をしない俺にとっては読書漬けといえる日々を過ごす。
児童文学はすらすら読めたし、ホラーは先が気になってのめりこんだし、本の紹介本は興味を引かれるものばかりだったし、詩集はたしかにエモかった。
どれもおもしろくて、五日目にはすべて読破していた。
詩集を閉じ、ベッドに横たわる。いい本を読んだあとは、なんだか身体が熱くなる。脳が刺激を受けるからだろうか。
時間を確認しようとスマホを見ると、通知欄に本のマークがあった。
――更新されたのか。
通知をタップする。アプリが立ちあがって小説が表示された。
『古書店サボテン堂』。ちょっと前から投稿されはじめたネット小説だ。
基本的には少女漫画っぽい恋愛もので俺の趣味には合わない。ではなぜ読んでいるかというと、登場人物の女の子が無口な文学少女で、もしかすると貝守さんを理解するヒントになるかもしれないと考えたからだった。まあ、相手の男の子のほうは爽やかなハンサムボーイで俺とは似ても似つかないのだが、ちょっと関係は似ているかもしれない。
今日は『文庫川柳』で遊ぶという内容だった。初めて聞いた言葉だったが、要するに数冊の本のタイトルをつなげて川柳を作るという、一時期SNSで流行った遊びらしい。
「ふうん……」
ふとベッドサイドに積んであった本に目が行く。身体を起こし、背表紙をこちらに向けて、適当に入れかえてみた。
そうして何回か入れかえたとき――。
「……え?」
その文章が浮かびあがってきた。
熱い思い ほうかご 書の園 君を見てる
川柳に造詣などありはしない。でも俺の脳裏には、放課後の図書室で本も読まずに想い人を見つめている――そんな情景がありありと浮かんだ。
つい五日前のことを思いだしていた。視線を感じたこと、ラベル貼りの作業がまったく進んでいなかったこと。
本を読んだあとよりも身体は熱くなっていた。
――いや、でも、まさか、そんな……。
たまたまだ。たまたまに決まってる。
本をシャッフルした。川柳は消え失せたものの、浮かんだ情景までは消えてくれない。身体を冷まそうと窓を開けたが、彼女の住むマンションが目に入り、余計に火照るばかりだった。
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