不浄を運ぶもの
遙夏しま
不浄を運ぶもの
ゴミ置き場を熱心に洗う父の背中を見ている。
「梅雨が明けた直後がいちばんいいんだよ」父がいう。梅雨明けのあと一週間は晴れ間がつづくから、びしょびしょに濡らしてもすぐ乾くのだそうだ。父はホースから水をじゃぶじゃぶと出し、大小さまざまなブラシで土間やら排水溝やらを懸命に磨いている。ゴミ箱まで拭きあげている。布巾を使って蓋の汚れを丹念にとりのぞき、古い歯ブラシで小さな溝に詰まった泥を落とし、ひっくり返して裏側まできれいにする。私はそれをただ見ている。
青空に夏雲が流れる。
南風が頬にぼうぼうと当たる。
ゴミ置き場は実家の外に設けてあるスペースだ。勝手口からすぐ出たところにあり、駐車場と隣接している。コンクリート土間を打って、
でも父はそこを年に一回、熱心に洗う。梅雨明けに必ずやる。晴れ間を見るとそうだと思い出したかのように、急に取り憑かれたみたいに熱心になって掃除を始め、みごとにサッパリ清潔にする。それが判を押したように毎年、繰り返される。まるでこの慣習は縄文時代からつづいている人類の本能なのですといわんばかりである。
「こういうのって男の仕事だろ?」少し鼻の穴をひろげている父。これをやると母が喜んでくれるのだと説明したあと「水で濡らしたまんまで終わると、来年が億劫になるからね。意味、わかるかい?」と得意げな声で質問までしだす。おいおい、なんのプレゼンテーションだよと私は心のなかに吐き捨てる。父が張り切っているのはおそらく私に見られているからだ。娘に見てもらえるのが、それが嬉しくて、ついつい風呂敷をひろげて解説までやっているらしいのだ。「ゴミ置き場は乾きやすさも踏まえていてね、あえて西側にしたのだよ」と父の掃除節がはじまる。
父いわく午前中に掃除をしたら、昼に太陽が南中して午後の西日が完璧にその場を乾かして、一日で現状復帰までしてくれるのだという。さっぱりと乾いたゴミ置き場を見れば、達成感で充実して終わることができ、そうすると次の年、腰が重くならないで済むそうだ。あーそーですかである。あまりに関心がわかない。興味なし。しかし無碍にするほどのことでもないので、かろうじて私は黙ってそれを聞いてやっている。別に興味ないけどといった感じの顔で。へぇ、ふーん、はぁといった感じの顔で。
話を聞くついでにぜんぜん関係ないけれどカキ氷を食べたいなぁと考える。小学生だった頃とか、母がよく作ってくれた。カキ氷機は台所のどこかにまだ置いてあるはずだ。水色のやつ。ちびまる子ちゃんとかに出てきそうなやつ。それでデッカイ氷をがりがりとやるのだ。ガラスの器にシャラシャラとした氷をたっぷり盛って、そして上から真っ赤ないちごシロップをかける。もしくはあまりに緑色なメロンシロップもいい。うわぁたまらないな。もう少し暑かったらブルーハワイもいいかも。風鈴もだしたらいいな。
目の前のことを差し置いて、カキ氷の妄想に夢中な私のリアクションが、どう考えたってそっけないことに彼は気がついていないのだろうか。それとも娘に見られてさえいれば、返ってくる態度などどうでもいいのか。とにかく父はこちらのことなどお構いなしに喋りつづけ、掃除をつづけている。
ゴミ置き場なんぞ、嬉々として掃除する父の背中は汗だくで、Tシャツがべったりと張りついている。私はその姿をなぜかものすごくダサいと思い、そういえばそれもいつの頃からか、毎年、毎年つづいている感情だなと考える。はは、縄文時代からの慣習だ。しかし年々、その気持ちは薄まっている。今年はいよいよ、ほとんど何も感じなくなってきた。父と娘の邂逅は近いのか。今、父のベッタリとした背中に対する率直な感想は、正確な言いかたをすれば「無」である。無。なにも思わない。それは大量のカキ氷が溶け出すなかで、限りなく薄まっていったシロップのような感情だ。いやちがうか。薄まったなら無ではないもんね。シロップみたいに甘くもないし。
カキ氷かぁ、カキ氷作るかぁ。なんか妄想したら一周まわって面倒だなぁ。食べたい気もするけど。父の背中よりマシか。うん、間違いなくマシだな。でも体がカキ氷作りを完璧に面倒くさがっている。うわ、これがかの有名な現状維持バイアスってやつだ。なにいってんだ、私は。っていうか、なぜ、私はこんなことをしているのか。
***
社会人になって3年目。東京暮らし。転職は今のところ考えてない。それくらいな感じ。実家帰省が必要になると金曜に午後休、月曜に午前休をとり、土日を挟んで実家帰省している。なぜそうしているのか。まぁ会社での過ごしかたにおいて、多少、効率が良いのだ。なにかと休みがとりやすい。仕事のまわりかた的に上司が怒りにくい。会社がよくできているのか部署が有能なのか、私のチームは月曜ゆっくり始まるし、〆切は木曜が多い。なんていい会社だろう。
そもそも私はあまり実家に帰らない。仕事を始めてみて気が付いたのだが、私は何かやりはじめると多少、ワーカホリックになるところがあって、仕事に追われる生活をなんだかんだ楽しんでいた。それと、なにもない田舎の実家より、いろいろな楽しみごとがある東京の生活のほうが休日も楽しいから、なんとなく実家に帰る必要が思いつかなかった。
そんなわけで、いざ実家に帰ると、たいしてやることがない。だから私はずっと手持ち無沙汰に過ごしていた。母は働きもので有能な主婦といわれる類の人間だから、娘の私が実家でぼんやり畳やソファなんかに寝そべっていようと、家のことをやれなんてひとことも言わない。朝から晩までものすごい能率のもとテキパキと家事をこなしていくのを生きがいとしているから、邪魔してくれるなといった具合なのだろう。むしろやろうとすると「いいわよ」とやんわり拒否されるし、お願いごとをすると「え〜」とかいって喜んでやりはじめる。犬かと思う。良妻犬母、うんうん、いい母だよ。あんたは。はいはいと私は思ってエアコンの効いた部屋で扇風機を回す。べつに私のほうだって実家まできて家のことなんて手伝いたいと思わないし、それで向こうも手伝ってくれるなと思っているのだから、完全に利害は一致している。わが実家は平和である。
退屈だ。
実家から出ていったあと、あっという間に納戸がわりにされた自分の部屋を意味もなく片付けては、卒業アルバムを見返してみたり、残っているマンガを読みあさったり、昔のゲームをまたやってみたりして、そして、それに飽きると車で行ったほうが早いコンビニまで、わざわざ近所を散歩しながら煙草やアイスを買いにいっては時間を潰した。
誰かに会うかもしれないと思うが、会わない。道に人がいない。地元はけっこうな田舎だから同年代はほとんどみんな東京で就職していて、連絡をとってみても実家帰省では会えないことが多い。むしろ東京で同窓会をやるほうが人が集まる。こちらで友達に顔を合わせるというのは、天然記念物のなんちゃらと出会うくらいの確率になってくる。
かわりに顔を合わせるのは、いつのまにか皺と白髪だらけになった小学生時代の友達の親御さんたちで、コンビニで行き合っては「あらー美人になっちゃって」とか「いくつになったの? そっか娘と同じね笑」とか「結婚した? しないの?」とか、そんなどうでもいい声かけをしてもらい、愛想笑いを返すのが実家帰省のルーティンワークになりつつある。
私こそあなたたちの娘に「えぇ! 〇〇ちゃん久しぶりー!」とかやりたいのに。なぜ、それはできないのだ。人口密度が低すぎるせいだ。知ってる知ってる。ウワサ話だけは二日で広まるけれど、物理的に見ればこんなにも人のいない土地なんだから、ばったり人になど会えるわけがない。
唯一、実家は散歩をするのが、いい気晴らしになる。家を出ればすぐに杉林に囲まれた道に出る。その先には田んぼの畦道がつづき、道沿いに生えた柳の木々は緑が美しく、休耕田にはセイタカアワダチソウがすこし寂しく背を伸ばしていて、トンボの飛び交う水路を見たり、電柱の向こうの青空を見たり。いつのまにか住民が消えて雑草に囲われてしまった廃屋を見つければえもいえぬ切なさが胸をよぎるし、誰が管理しているのか小さな神社にくれば幼い頃に湧き立った不思議なワクワクを思い出す。道々の名も知らぬ草花を観察したり、塀の上で昼寝する猫にちょっかいを出したり、メジロの群れの小さな声に耳すませたり……エトセトラ・エトセトラ。とてもいい。
写真だとか映像にしたら味が出そうな、ゆっくりとしたノスタルジックな時間が流れるなんとやら。広告で使われていそうな景色がいくつもあって、気晴らしとしては申し分ない。私は煙草に火をつけて、くわえ煙草で、そういったいくつかの景色を小さな子供だったときの記憶と比べ歩く。
しかし、それだって半日もすればいい加減に飽きてくる。こんなに雑多な魂をもった人間が、そんなにずっとノスタルジックに浸っていれてたまるかとなってしまう。そうなると、仕方なく、もう家に戻ってただただ家族が生活するのをぼんやりと観察して、そして今、退屈の成れの果てに、父がゴミ置き場を掃除する背中なんぞを見ている次第だ。くるところまできた感がある。自分の親の掃除姿を見て、いったいどうするのだ。私はもはや退屈でないのならなんでもいいところまで来ている。私の脳みそを少しでも退屈から遠ざけてくれるなら、よもや脂ぎった57歳、父の背中でもいいのである。なんてことだ。
時に退屈は、どこまでも人を予期せぬ方向へ向かわせる。退屈とはまるで樹海のようだと私は思い、その喩えすら、おそらく退屈によってどこかおかしく捻じ曲がっているなと自嘲する。
***
さすがにいい加減、ゴミ置き場掃除をみるのにも飽きてきて、ポケットに手をつっこんで煙草をふかし、カキ氷のことばかり考えて、いよいよ台所へカキ氷器さがしに行くかと決断しようとしていると、右から左へ抜けつづけていた父の掃除節の一節が急に頭に飛び込んできた。
「……で、この掃除のことをね。君のおばあちゃんは不浄運びと呼んでね……」
ふじょうはこび。
不浄運び。
不浄運び?
「不浄運び?」
思わず質問を返してしまったことを後悔するも今や遅し、くるりと振り向いてこちらを見た父の顔は小学生が夏休みの工作で金賞をとって褒められたときのような
「なにが違うの?」
「いや、べつに」
父方の祖母とは会ったことがない。私が生まれてすぐに死んでしまった。正確にいえば生まれたばかりの私は対面したことがあるらしいし、生後半年になるくらいまで何度も家にきて孫の世話をしてくれたらしい。でも当然、私の記憶には残っておらず、私が1歳半になる前に祖母は死んだ。もともと血圧が高かったとかなんとかで、それで急に見つかった大腸癌の手術をしたら予後がとても悪く、どうしようかと思っていた矢先、心臓にできていた
小学校低学年の頃――あれはおそらく七回忌だろう――父から祖母の死因を説明されたことがあった。けれどそのときは「なんだか病気のオンパレードだな」と思うくらいで言葉の意味もわからなかった。今なら多少は祖母の体になにが起きていたか想像はつく。うちは歳がいくと血管系が悪くなりやすいから気をつけろよと父はよく私に言う。おそらく祖母からくるものだろう。まぁ言っている当の本人は、唐揚げを頬張っているようなタイプの人間なので、説得力はあまりないのだけれど。でもそういうことなのだろう。
ともかく、なにぶん祖母が亡くなったとき、私はとても幼かったので、祖母が死ぬという現象に興味がわかなかった。そして自分の自我や記憶が成り立つころには、すっかり祖母は遺影のなかの人として認知が固定されており、それは絵本に描かれたお話の世界の住人と感覚としてはさして変わらず、形式的なところ以外はほとんど他人のように思っていた。
だから突然、父の口から出てきた「君のおばあさん」という台詞に、私は不意を打たれてしまった。なんというか、おまえは実は私の娘じゃないんだの逆バージョンというか。あの遺影のおばあさんは、ただの写真じゃなくて、実はおまえと本当に血が繋がっているんだよ、と告白されたみたいな。実際、繋がっているんだけれど。しかし血を繋げておいて、今度はおばあさんがゴミ掃除のことを「不浄運び」と呼んでたなんて意味深なことを言われたら、そりゃあ聞き返すでしょうよ。なんですか、不浄運びって。べつに不浄運びとやらに直接、興味があるわけではないんですよ。ふーん、へぇ、はぁ、くらいではあるんですよ。でも気になるでしょう。
そう私は心のなかで言い訳したけれど、一度、気になってしまったものはどうしようもない。ここはひとつ負けを認めて、どんなものか聞いてみようと心を入れ替える。入れ替えついでにポケットから携帯灰皿をだす。煙草の火を消し、新しい煙草に火を点けようとする。
「煙草、吸いすぎると体に障るよ? なんかお父さん、心ぱ……」
「いいの」
煙草に火を点ける。「……まぁ、絶対ダメとは言わないけれど」と父が付け足すように言う。私は無視する。
「それで?」
「それでって?」
「不浄運びっていうんでしょう? おばあちゃんが。ゴミ置き場掃除のことを」
「あぁ、そうそう」
「それでね」と父はまた話を再開しようとする。どうやら娘が本腰で興味をもってくれていると認識したらしい。父は掃除をピタリとやめて、汗だくのままこちらを向いた。でっぷりとした下腹と腰回り。冬場は着痩せするからかそこまで気にならないけれど、夏になるとやっぱり父の中年太りは目立って気になる。汗でくっついているともなればなおさらだ。これで禿げていたら絶望的だったなと思う。血管系がうんぬんとか言うならば、揚げものばっかり食べてないで、もう少し運動したらいいのに。そんな私の思考など知る由もなく父が嬉しそうに話しだす。
「君のおばあさん、つまり僕のおふくろ、
「ふーん」
「不浄ってわかるかな?」
「清浄でないこと」
「おぉっ……たしかに。その通り、です」
即答したら父がたじろいだのがわかった。娘の対応が予想とちがったのだろうか。わからないふりでもして、えぇっとーふじょーってーなんですかぁーとか言ってモジモジでもしてもらえると思っていたのだろうか。そんなわけないだろう。さっきまでの態度でわからないものか。
そのまま黙ってつづきを待つ。
「不浄っていうのは、そう、清浄でないこと、つまり汚いことを指す言葉なんだけど、僕ら日本人のなかでは
「うん。で?」
「土岐さんはね。ただきれい好きってわけでもなくてね。不浄さに対してすごく鋭敏な感性をもっていたんだよね」
「……霊感があったってこと?」
「あぁ、いやいや、ちがうんだ」
はははと父が笑う。
「なんていうのかな、すごく細やかなものが見えていたんだね。小さな小さなもの同士の
「ミクロ的視点?」
「うん、間違ってはないね。極めて小さなものたちの動きを同時的に、大局的に見るっていうかね。それで土岐さんはね。世の中っていうのはすべて物の移動なんだって、ことあるごとによく言っててね。人生っていうのかな、生きてるってことは、ただ物が移動して自分の体もその枠組みのなかで移動したり、移動させたりをつづけることなんだって説いたわけだよ」
「どっかの社長が言ってそう」
また、はははと父が笑う。
「土岐さんはそのなかでも、不浄さを運び出すってことに、家の奥方である自分の使命を感じていたみたいだね」
「不浄さを運び出す」
「そう、不思議な感じがするだろう? 不浄さって目に見えないもののように思えるから。でもね……」
そういうと父はまだゴミ置き場の洗っていない隅の方を指さして「ほら」という。そこには黒っぽく泥だとか苔だとかがごちゃ混ぜになった汚れがこびりついている。
「ほこりなんだよ。土岐さんがいうには」
「なにが?」
「不浄だよ。
よくわからないと表情で返す私に、ふたたび父がはははと笑う。そんなにおかしいかと私はつまらない気分になる。しかし、
「つまり、こういう
そういうと父はホースをつかみ、口をぎゅっとつぶして、勢いよく水を放出した。隅に溜まっていた汚れが水の勢いで流れ落ちる。
「不浄っていうものには特に良いも悪いもないんだって。土岐さんが言うにはね。でも雑多なものがごちゃ混ぜになっているが故に、そこには良くないものが乗っかりやすい。霊的なものじゃないよ?」
「例えば?」
「例えば……ばい菌だとか、ウイルスだとか」
「あぁ」
「でも土岐さんはそれだけを良くないものとしていたわけじゃないみたい。僕や君にもわからない。それはいつか解明されるのかもしれないけれど、まだまだわかるには長い年月がかかる何か。そういうものも含まれていたみたいだよ。不浄には」
「へぇ」
「不浄が溜まればよくないことが起こりやすくなる。だから、こんな風に定期的に掃除をして、不浄を移動させる。汚れを排水溝に流したり、ゴミにまとめて捨てたりして、自分の家にはとどまらないようにする。別の場所へ移動させるわけだね」
「それでどこか別の場所に、不浄を押し付けるわけね」
父は笑顔のまま何も言わず、ブラシを拾いあげ、汚れていた場所をガシュガシュとこする。すぐに泥汚れは落ちて、元のきれいなコンクリートの肌が見える。泥たちが水とともに側溝へ流れていく。「ほら、不浄が移動した」といって父が笑う。
「そういう捉えかたをすれば、たしかに人は不浄さを押し付け合っているといえるかもしれない。不浄は常に世の中を漂って、とどまる場所を探しているんだと土岐さんは言った。だからこの世で人々が健康に生きるには、とどまろうとする不浄を各自が動かしつづける必要があるんだと。君の言っていることと、だいたい同じかな?」
「そうかもしれない」
「不浄っていうものは小さく小さく、それひとつではさして気になるものでないから、人は塵や埃を気付かぬうちに溜めこんでしまう。汚れてくると手を伸ばすのを避ける。不浄の集まりやすい場所には淡々と不浄が集まる。彼らは急ぎも慌てもしない。ただ淡々と同じペースで積もっていく。つもって、つもって、然るべきタイミングで決壊する。病が起こり、事故が起こり、災害が起こる。人はそれを見て、突然の災厄だという。しかし……」
「それは起こるべくして起こっているものだ、と」
「……うん、そうだね。土岐さんは、そういうものであると考えたみたいだね」
父の表情に寂しさが宿った気がした。自分のお母さんのことだから、思い出して懐かしい気持ちになっているのかもしれない。私は父の表情に気が付かないふりをしてあげる。かわり「なんか、昔によくある迷信って感じだね」と茶々をいれてみると、父は一瞬、なにか言いたげな顔をしたけれど、それをやめて笑っていた
***
「結局、人はいろいろな不幸を他人に押し付け合いながら生きているのかな」
数十秒ばかりの間があいて、私はふと思いついたことを言葉にしていた。父に思いついたことを(一切の思案を抜きに)そのまま伝えるのは、ずいぶん久しぶりな気がした。父はうまく聞き取れなかったらしく、私の言葉に「え?」とだけ返した。
「つまりこういうこと。不浄は運ぶものだとおばあちゃんは言った。不浄は移動させられこそすれ、失くすことはできない。だから私たちは自分が安全に幸福でいられるため、不浄を、よくないものごとを、どこか
父は私を見て、妙にやさしい顔をしている。
「そういうのってすごく不毛だと思う」
「そうだね」
なにを言ってるんだろうと自分をおかしく思う。退屈がいよいよ私の頭をあらぬところにまで運び去ってしまったのかもしれない。でも父はなにもおかしくないと思っているようで律儀に口をひらく。
「例えば
「どういうこと」
「君は不浄を押し付けあって生きることを不毛だと言った。たしかに見方によっては、そうかもしれない。人々は不毛な押し付け合いのうえに幸福を求めて生きている。でも実際のところ不浄がない状態、つまり君の話でいう清浄であり、幸福な状態っていうのは、現実には存在しない」
「絶望的ってこと?」
父が、はははと笑う。またその笑いかた。祖母もそのように笑ったのだろうか。「いいや、むしろそこに希望があるのかもしれない」と父は胸元で手をこねくり、ろくろを回しだす。「つまりね……」あぁこりゃ、いよいよ大演説かもしれない。
「不浄っていうのは積もりあがることで、そこに含まれたよくないものを体積させ、場合によってある種の厄災をもたらすことがある。しかし不浄さには本来、そもそも良いも悪いもないのだと君のおばあさんは言っていた。それは彼女に先天的に備わった感性で見た、この世の事実なのだと思う。つまりね、不浄さには本来、よくないもの以外のものもたくさん乗っているんだと思うんだ」
「よくないもの以外のもの」
「彼女は不浄の場所をたしかに熱心に掃除したけれど、そこを忌み嫌っていたわけではない。むしろ、僕が見ているかぎりでは、そういった場所へ愛着をもってさえした」
「トイレの神様」
「ははは、そういう歌も流行ったね。でもそれだと思うよ。何が言いたいかというと……」
そういうと父は水を出し、ホースの先を強くつまんで上を向け、水を勢いよく真上に拡散させた。水は噴水の霧のように拡散して、その場に薄く虹をつくり、地面と父を濡らした。
「清浄なんていう幻想ではなく、現実の、実際の人は不浄によってのみ生きているんだ。不浄さを見つめて、不浄の上に立ち、不浄をやりとりして生きている。それはたしかに積み重なれば、災厄となりうるのかもしれないけれど、バランスすることで、今度は僕たちそのものができあがる」
「私たちそのもの」
「うん」
「私たちは不浄によってできている?」
「そういうことなのかもしれない。僕はクリスチャンじゃないからよく知らないけれど、ほら、聖書にそんなこと書いてなかったっけ。人は塵をこねて作られたみたいな」
「旧約聖書、創世記、第二章の七節。神は土の塵で人をつくり、命の息をその土塊に吹きいれた」
「……なにかと詳しいね」父がまた挙動不審な動きをする。
「だからね。僕はこう思うんだ。不浄を運ぶっていうのは、もらった不浄を自分に必要な分だけ取り入れて、あとは世界に返してあげる、別の誰か、なにかに送ってあげるってことじゃないのかと。不浄を持ちすぎることで、たしかに災厄は起きることもあるけれど、だから一見して不幸を押し付けているように思えるかもしれないけれど。しかし本来は必要なだけもつことによって自分をかたちづくってくれるものだ。不浄は。それを自分以外の何かへむけて送り出すってことは、世界の他者に存在のきっかけを与えていることになるんじゃないかって思うんだよね。ただ不幸として押し付けようしなければ、適正ななにかを想像して送り出しさえすれば、それはギフトになるんだよ。不浄運びは。流転させて、与えている。そして君自身もその流転によって変化する。つまりそれが生きている証になる」
「ね」という父に、私は「不浄を運ぶことで生きている証を得ているの?」と問う。
「いや、証なんていらないんだ。生きていることそのものだから。そして君がどれだけ自分のために生きたとしても、不浄を外に運んだとしても、結果的に何かのために生きることにはなっているってことが大切なんじゃないかな」
「……そうかもしれない」
でも、でもどうだろう。
「じゃあこの泥を、たとえば隣のお家に押し付けて、それが正しいというの?」
「ワザとやるのはどうだろうね。自分の家の汚れを他人の家にまくようなこと、人はわざわざやらないから。要は必然性なんだと思うよ。人は清浄を好み、夢見ている。でも自分にできる精一杯の範囲で、自分の周りの不浄をなるべく動かしてやって、結果的に他人の家に汚れが運ばれたとしても、つまりわが家の埃が風に乗って隣のおうちにたどり着くようなことは、この世のことわりとして不浄運びなんだ。そういうものはそれぞれが自分にできる範囲で運び出しつづければいい。そうしていれば、いつのまにか自分の一部と思えるものの範囲は広がっていく。体から衣服や持ち物へ、部屋へ、家へ、家族へ、他人、集団、国、星、宇宙、この世界……。いや別にそこまで広がらなくてもいいな。自然とでいいんだ。僕たちはあくまで自分のために動き、そして結果的に、自分以外の得体の知れないなにかのために、不浄運びをつづけているんだと思うよ」
そうなのだろうか。
「大事なことはね。僕たちが生きるこの世界そのものは、あまりにも果てしなく大きいんだってこと。それを前提として踏まえておく必要があるんだ。たとえ宇宙のサイズがわかって、強靭な望遠鏡で宇宙の端っこを見通せるようになったとしても、それはこの世界の全体に対して、まだとてもわずか、些細なことを理解したにすぎない。でもこの世界では僕ら以外の何かだって、同じ条件を生きている。しっかりと目を見開き、頭を動かして感じとれば、それはきちんとわかる。僕たちは得体は知れないけれど、よくできた大きなシステムのなかで役割を司っている存在なんだ。これを端々で思い出すと、いろいろなことが楽になる」
楽に、ねぇ。
***
「お父ちゃん」
「僕のことお父ちゃんなんて呼んだっけ」
私はそのツッコミを無視する。
「じゃあさ……、人は、死んでいいの?」
なぜか父にどうしても聞きたかった。父に問うと、私たちのまわりに、さっきよりも強い風が吹いた。父はやはりうまく聞き取れないようだった。
「ん……? なんだい?」
「人は、死んでいいの?」
ふたりのいる場所を風が包んだ。ぼうぼうと騒ぐ風の後ろで、蝉がじわじわと夏の空間を埋め尽くした。しばらくの時間をおいて、父は「……うん、いいんだよ」とみじかく答えた。
「いいの? 死んで?」
「勘違いしてほしくないんだけど、もちろん僕は、君が死ぬなんて絶対、絶対、絶対、絶対にイヤだし、無理だし、実際に死なれたらもう、悲しくて悲しくて立ち直れなくて、本当に自殺だって考えるし、いっそ君が生まれ変わったときに、君の子供として生まれて先に死んでやろうかと恨めしく思うくらいに、当然、君には死なずに生きていてほしいと思っているよ。でも」
「でも死んでいいの?」
「ものごとの原則でいえば、死んでいい」
「死んでいい」
「原則としては」
「原則」
「そう。僕としては非常に残念ではあるのだけれど。どうやらこの世界は死というものを許容している。特に複雑な機構をもつ生命体の世代交代に関していえば、手っ取り早いと推奨さえされているみたいだ」
「推奨」
「お父さんはね、君がおそらく死にたいと思っていたのだとしたら、ここで嘘をついた。人は死んではいけないものだ。死ぬなんてとんでもない。生まれてきたからには生きることは義務だ、とでも言っただろう。でもそれは今、どうでもいいことだ。なぜなら君は今、純粋に知りたいと思ってそう言ったから。人は死んでいいのか。純粋に疑問がわいた。なぜ、そんな疑問がでてきたのかまではわからないけれど、今、抱いている君の心のありようくらいは顔をみればわかる。僕は君のお父さんだもの。だからひとつの真実として答えた。人は死んでいい。命をムダにすべきじゃないと僕は思うけれど、原則は死んでいい」
「死んでいい……」
頭のなかに何か明快な一本の線が通ったような気がした。そうか、死んでいいのか。人は死んでいいものだったんだ……。明快な線は暗闇を突き抜ける光のように(それはまるで大海原を照らす灯台の灯りのようだった)私の頭のなかのあまりに暗くて、よく見えなかった部分を鋭く照らした。するとなぜだかわからないが、今まで抱え込んできた複雑怪奇、巨大で柔らかい謎のようなものが次々、瓦解し始め、私の頭のなかを冷たく颯爽な風が吹抜け始めた。なにが起きているのかわからない。しかし、私はその風を止めることができない。
死んでいいのだ。死はこの世界で許容されている。許されているのだ。私も父も母も旧友たちも、職場の同僚も、上司だって、幼い子供から高齢になった男女、そして祖母だって。
だから祖母は死んだのだ。
私はゴミ置き場へ近づくと、父のホースを奪いとって掃除をはじめてみる。じょばじょばと水を流し、まだ洗っていない壁面の汚れをブラシでこする。泥が浮きあがり、一瞬、水を染め、そして流れていく。不浄が流れる。どこかへ。ふたたび留まる場所を探して。
これもなにかのためになっているのだろうか。
懸命にコンクリートをこすっているうちに、だんだんと涙が溢れてきた。泣きたいわけでもなかったのに、どんどん流れ始めた。終いには嗚咽すら始まって、私はわけもわからず号泣した。父は私をただ見ていた。私はしゃくりあげながら「そっか」と言って「死んでいいんだ」と言って泣きつづけた。
涙はあとからあとからあふれてきた。まるで雨上がりの川のようだった。止まることを知らず。私はぼんやりと春のナイル川について考えた。
涙は記憶をもたなかった頃の私が流したものだった。すぐに理解できた。小さな1歳の私は長いあいだ、祖母の死を理解することができず、悲しむことを保留していたのだ。そうか、私は祖母を知っていたのだ。祖母を知っていて、慕っていて、そして彼女にいなくなって欲しくないと思っていた。そして死を知らぬうちに突然、祖母がいなくなってしまい、私はどうしていいかわからず、祖母をあらかじめいなかった人にしてしまっていたのだ。悲しんでいいとわかってしまった小さな私は今、とてもとても、とても悲しんでいたのだった。
あぁ、あぁ。
泥を落とすたびに生きていた祖母が私のなかに取り戻されていく感覚が芽生えた。私と手を繋いだ祖母の手の骨格や、抱き上げられたときの胸の温かさ、衣類から届く香り、揺れるリズム、呼吸、声色、心拍、いくつもの断片がアウトラインを作るようにして彼女の存在をかたちにした。そして同時にそれがもはや失われてしまい、二度と私のまえに現れることがないのだという事実が私を打ちのめした。あぁ、あぁ。私は呼んだ記憶もないのに「おばあちゃん」と言って泣いた。
泥が、流れていく泥が。運ばれていく不浄が、私の前から永遠に去っていく祖母であることがわかった。不浄を運ぶことで、得体の知れないなにかのために私は動いていて、その得体の知れないなにかも、巡り巡って私のために動いている。祖母は世界と私のあいだにたって、おぼろげに私を愛している。そして今、彼女は形を変えて、どこかに収まっている。私は私のなかにあった祖母の存在を送った。目の前の不浄さのなかに愛が含まれていることを私はそのとき、たしかに理解したのだった。
結局、泣きながら私はすっかりゴミ捨て場をきれいに掃除してしまった。わけもなく泣いたこと、いきなり父から奪い取るように掃除を始め、全部やってしまったことなど、あまりにバツが悪くて、私はしばらくどうしようかと黙って突っ立っていた。太陽は正午に近づき、地面をじりじりと焼いた。気温は上がりつづけた。濡れたゴミ置き場を気持ちよく光と風が乾かしていた。私はいつか目の前にいる父や母も、こうやって送るのだろうかと考えた。おそらくそうなのだろう。そしていつか私もそうなるのだ。この世界は死んでいいから。死んでいい世界なのだから。とても悲しく、怖いと思った。初めて私は自分や自分の肉体が生きたいと思っていることを自覚した。汗が拭き出すように流れた。あれだけ涙を流しても、私からはこんなにも水が溢れてくるのだ。
言葉を探してもいいものが思い浮かばず、結局、思いついたまんま「なんか、これがお墓参りみたいだった」と私は言った。しばらくの沈黙のあと、父が、はははと笑い、しかし笑ってよかったのか掴みかねた顔をして、今度は「お墓参りが終わったら、みんなでカキ氷でも食べたいね」と言った。
それを聞いて、私もつい、ははと笑ってしまった。
不浄を運ぶもの 遙夏しま @mhige
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