終章



 緑と白の色彩を基調とした殿内は暗い。わずかに灯した燭台の微かな香煙を目で追いながら、壇の人物は広い玉座の上でさかずきを傾けた。


寡人かじんの与えた名を使ってくれているようで嬉しいぞ」

 声を掛けると、下段にひざまずく影がさらに深く腰を折る。

「……あなたさまには恩義がありますから。おろそかにはできません」

「心にもないことを言う。寡人をその牙で食いちぎらぬのはまだ殺せぬと思っているからにすぎないだろう?ところで、あの子は?」

 裹頭ずきんの影は少しだけ頭を戻した。

泉外そとで待たせております」

「なんだ、会いたかったのに」

中天ちゅうてん泉主には、あの子をお譲りくださったことには感謝のしようもありません。これは偽りなく」

 ふふ、と笑う泉主は片眼鏡をきらめかせ、頬杖をついて見下ろす。

「ああ、そうそう。門だが、果たせるかな生粋の楓氏でも閉門は失敗したようだ。はて、何がいけなかったのだろうな。いずれにせよ勿体ないことをした」

 惜しみつつも、声音には初めからそれを予見していた雰囲気をかもす。

「さて――――私などには分かりかねますが」

「本当に?」

 玉紐をいじりながら泉主は可笑おかしげに問う。

「あなたさまに分からないものがこの私に分かろうはずがございません」

「謙虚さは必ずしも美徳ではないし、なれのそれはただの嘘だろう」

 面白くない、となじれば向こうも何も言わず微笑む。瞳は瞼に隠されて見えない。

「教訓としましてはいくら豪気であっても必ずしも運を引き寄せるわけではないということでしょう。今回の件でよく学べました。大雑把に事を運ぶのは私には向きません。ひとつひとつ、確実にします」

「期待させてしまったか。楓氏をとどめておいたほうが汝は嬉しかったかな」

「滅相もございません」


 期待などはなからしていないと微笑みの裏で聞こえて来そうだ。それはそうか、と盃の水面を眺めた。期待していれば九泉こちらに来る途中で強襲などしていないだろう。まったく、見限るのが早い、と肩を竦めた。


「かつて汝がここへ辿り着いた時には全てに絶望した雑巾ぼろきれのような小狗おさなごだったというのに、立派に育ったものよ」

「私の企みをお見通しでそれでも好きにさせてくださる……あなたさまに頭が上がるはずもありません」

 へつらいはもういい、と手を振った。

「それで、睚眦がいさいはどうだった?」

 問えば一転、傷ついたように俯いた。

「……やはり一度ちぎって繋がれた鎖は易々と断ち切れるものではありません」

「そう。それでもには良い手土産ができたろう。今回はそれで満足しなさい。ああ、霧界のいしもあまり採りすぎないように。泉外にあるものは全て貴重ゆえ」

「承知しております」

「まあ、寡人にとっては汝のほうが万倍価値があるがな、瘋狗ふうく。飾っておきたい」


 呼び掛けられた彼はまた笑みを浮かべてみせた。

 ふいに軽やかな足音が近づいてきて女が踊り込み、客人の姿を見つけるや歓声をあげる。


「あらあ、噬犬わんちゃん。お久しぶりね」

 すぐに距離を縮めて覗き込み、裹頭の布を下げ頬を撫でる。「相変わらず綺麗なお顔ね。飾っておきたいわ」

「姉上、それは今しがた寡人がもう言いました」

「あらそう?ところで、噬犬ちゃん、お土産は?」

 白い小さな両手を差し出され、瘋狗は上体を起こす。黒い睫毛を震わせ、閉じたままだった瞼をゆっくりと開いていき、視線を壇上に向けた。



 そして、青雘あおいしそのもののような蒼昊そら色の両眼で今一度微笑した。



「九泉主。どうか湶后せんごう陛下にむやみやたらに胡乱うろんな下民に近づいてはならぬとおいさめを。はえのように目障りで思わず叩き潰してしまいそうです」

 ひどいわ、と湶后は大げさにけ反り、夫のもとへと駆けてゆく。九泉主は受け止めながら大笑した。

「随分機嫌が悪いようだ。それほど激することがあったのか」

 問いには、いいえ、と額を床につけた。

「万事、つつが無く」







 宮が陰鬱に見えるのは花が少ないからだ。木々ばかりが張り伸び、内院なかにわを人目から隠す。しかし入ればまだ植えられて時経たない細枝の寒梅の小さな蕾がほころびはじめており、氷柱つららが垂れるほどに凍える曇天の下にも春の訪れを告げていた。

 感慨なく見つめていれば隔扇とびらのほうから声が掛かる。


「待たせた。入れ」

「ここでいい」


 断られて宮の主は嘆息する。黒衣を掻き合わせた。

わらわが寒いのじゃ」

「軟弱。そんなことではすぐ死ぬぞ」

 返しに、生憎あいにく、と扇をあおぐ。「おぬしのように鈍感な馬鹿ではないからの。少し風に当たっただけで寝込んでしまうのじゃ」

 それには鼻を鳴らし、背を向ける。わずかに沈黙が満ち、女は内院に降りてくる。

「角公。どうであった、八泉は」

「……どうもこうも。今はそれどころじゃねえって感じでな。こっちは変わらずで安心したぜ」

 韃拓は石筧かけいを流れる水を眺めた。「泉が濁ってないのが救いだ」

 むしろ年を追うごとに水量がますます増えている。

「うむ、我が国はとりあえず安定した。じき泉主もいらっしゃる。顔を見せてやってくれ。まさかそなたになつくとは思わなんだが」

「骨を折らせた、葛斎。大喪たいそうが終わる前に来るつもりだったがいろいろと忙しくてな」

 葛斎は細い指にかろうじてはまった武骨に不似合いな石の環を握り込んだ。

「気遣いは無用。国内各州もようやく落ち着きを取り戻してきた。…………あれから、もう四年か…………」

 寂しげに梅の花を見遣った。しかしそのままさらに落ち込んでいきそうな心を退しりぞけ、話題を変える。

「それはそうと、綺君きくんは達者にしておるか?」

「ああ。今のところ大きな病もない」

「――――継嗣ややこは?」

 問いには無言が返る。そうか、と了解して息を吐いた。

「やはり、王統と泉外民では無理なのか……いっそのこと、暗々裏で他の者に下賜くだしてはどうか」

「失言だ。取り消せ」

 すかさず低い声を出され、悪かった、と扇をかざした。そうして別の何事かを思い出す。

「そういえば、西の噂を聞いたか?」

「噂?」

西戎せいじゅうが泉国と同盟を組んだという」

「――――族が?」

「牙族の姫が入内じゅだいすると。我らとは逆じゃの」

 韃拓は驚き、そして呆れた。

「なんとも大それたことをするな。反発が起きないのか。一体どこの国だ」

四泉しせんじゃ」

 聞いて今度は得心して頷く。

「ああ――――泉な」

「聞いたのか」

「あそこは半双かたわれのことも忘れた国だと」

「なまじ寿命が長いゆえかもしれんの」

 さようか、ときびすを返す。「それなら都合はいいな。平和呆けした国なら攻略が簡単かもしれない」

「まだそんなことを言うておるのか。妾は決して賛成しているわけではないぞ」

 咎めれば手を振った。

「俺はあの日からなにも諦めてないし、変わってないぜ。それに、姥姥ばあさんともまだ会えずじまいだからな」

「どうしておられると?」

「ずっと宮に籠ったきり出てこねえんだよ。一回無理やり押し入ったがいなかった」

 葛斎は額に手を当てた。

「よもやあちらでもそんな手荒な振る舞いを。つまみ出されても知らぬぞ」

「平気だろ。八泉の後宮なら俺は出入りし放題だ」

 だといいが、ともう一度息を吐いた。

「……それで、族領へ戻るのか」

采舞さいぶかん県に寄る」

 予想通りの返答に頷いて懐から文を取り出した。

「……犍老師けんろうしにこれを。知人からのほんの心付けじゃ」

「おうよ」

 ぞんざいに受け取ったところで呼ばわる声がして顔を上げると、年若い王が駆けてくるのが見えた。

 いまや神勅を持たない名ばかりの一泉主は、自らが王兄と目した男が手を挙げたのに廓然はればれと嬉しそうに笑った。





 白い息をたなびかせて歩き出す。人の少ない石畳を進んでいれば、いつの間にか隣にはいつもの影が並ぶ。

「先ほどの件、面白いな」

「どの件だ?」

「四泉と牙族の同盟だ。いったいどうやって話をつけたのか詳しく知りたいところだ」

「そういやお前は昔から興味があったもんな」

「ああ。しかし降嫁ではなく入内ときた。こちらよりよほど根回しがあったろう。速耳はやみみの西戎が四泉の朝廷内にも『耳』を置いていないはずがないからな。うまくやりおおせた」

 そんなものか、と生返事をすれば甘い香りを纏った彼は目配せしてくる。

「さて、見ものだと思わないか、韃拓?」

「なにが?」

「大泉地じゅうで餌を嗅ぎ回っている牙族が俺たちの同盟と姜恋きょうれんさまの降嫁を知らないはずがない。ということは泉外人との間にまだ御子みこがいないのも承知のはず、それなのにあちらは一族の姫をあえて湶后せんごうへと推し上げた」

矜恃きょうじの高い奴らなんだろ」

「のみではないと俺は思う。それだけで波風の立つそんな大業をするだろうか。なにか裏で企んでやしないだろうか」

 韃拓は立ち止まって見返した。

「どういうことだ?」

「――――もし、牙一族の族主も、お前と同じく『選定』の幻をおぼえていたとしたら?」

「……天門のことを知ってるってのか?」

 ひそめた声には小首を傾げる。

「さあ。全ては憶測でしかないが。でももしそうなら、あちらはあちらなりにくびきから逃れる算段を立てているとも考えられる。それが俺たちがしたのと同じように、今回の泉国との同盟である可能性も否めないだろう?」

「なるほどな……気に留めておくか」

 韃拓は顎を一撫でして暫時考え、なんにしても、と身をひるがえした。

「時はない。だが、まだこれで終わらせない」

「お前は救世者だからな」

 冗談めかしておだてられ、そうさ、と虚無のかおで笑った。道の先、けぶって霞む春めいた砂塵に目をすがめる。


「すぐにこの腐った九穢土ぜんちをひっくり返してやる。ねぼすけの神とやらを叩き起してな」




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逝水捲土 合澤臣 @omimimi

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