終章
緑と白の色彩を基調とした殿内は暗い。わずかに灯した燭台の微かな香煙を目で追いながら、壇の人物は広い玉座の上で
「
声を掛けると、下段に
「……あなたさまには恩義がありますから。おろそかにはできません」
「心にもないことを言う。寡人をその牙で食いちぎらぬのはまだ殺せぬと思っているからにすぎないだろう?ところで、あの子は?」
「
「なんだ、会いたかったのに」
「
ふふ、と笑う泉主は片眼鏡を
「ああ、そうそう。門だが、果たせる
惜しみつつも、声音には初めからそれを予見していた雰囲気を
「さて――――私などには分かりかねますが」
「本当に?」
玉紐を
「あなたさまに分からないものがこの私に分かろうはずがございません」
「謙虚さは必ずしも美徳ではないし、
面白くない、と
「教訓としましてはいくら豪気であっても必ずしも運を引き寄せるわけではないということでしょう。今回の件でよく学べました。大雑把に事を運ぶのは私には向きません。ひとつひとつ、確実にします」
「期待させてしまったか。楓氏をとどめておいたほうが汝は嬉しかったかな」
「滅相もございません」
期待など
「かつて汝がここへ辿り着いた時には全てに絶望した
「私の企みをお見通しでそれでも好きにさせてくださる……あなたさまに頭が上がるはずもありません」
「それで、
問えば一転、傷ついたように俯いた。
「……やはり一度
「そう。それでもあちらには良い手土産ができたろう。今回はそれで満足しなさい。ああ、霧界の
「承知しております」
「まあ、寡人にとっては汝のほうが万倍価値があるがな、
呼び掛けられた彼はまた笑みを浮かべてみせた。
ふいに軽やかな足音が近づいてきて女が踊り込み、客人の姿を見つけるや歓声をあげる。
「あらあ、
すぐに距離を縮めて覗き込み、裹頭の布を下げ頬を撫でる。「相変わらず綺麗なお顔ね。飾っておきたいわ」
「姉上、それは今しがた寡人がもう言いました」
「あらそう?ところで、噬犬ちゃん、お土産は?」
白い小さな両手を差し出され、瘋狗は上体を起こす。黒い睫毛を震わせ、閉じたままだった瞼をゆっくりと開いていき、視線を壇上に向けた。
そして、
「九泉主。どうか
ひどいわ、と湶后は大げさに
「随分機嫌が悪いようだ。それほど激することがあったのか」
問いには、いいえ、と額を床につけた。
「万事、
宮が陰鬱に見えるのは花が少ないからだ。木々ばかりが張り伸び、
感慨なく見つめていれば
「待たせた。入れ」
「ここでいい」
断られて宮の主は嘆息する。黒衣を掻き合わせた。
「
「軟弱。そんなことではすぐ死ぬぞ」
返しに、
それには鼻を鳴らし、背を向ける。わずかに沈黙が満ち、女は内院に降りてくる。
「角公。どうであった、八泉は」
「……どうもこうも。今はそれどころじゃねえって感じでな。こっちは変わらずで安心したぜ」
韃拓は
むしろ年を追うごとに水量がますます増えている。
「うむ、我が国はとりあえず安定した。じき泉主もいらっしゃる。顔を見せてやってくれ。まさかそなたに
「骨を折らせた、葛斎。
葛斎は細い指にかろうじて
「気遣いは無用。国内各州もようやく落ち着きを取り戻してきた。…………あれから、もう四年か…………」
寂しげに梅の花を見遣った。しかしそのままさらに落ち込んでいきそうな心を
「それはそうと、
「ああ。今のところ大きな病もない」
「――――
問いには無言が返る。そうか、と了解して息を吐いた。
「やはり、王統と泉外民では無理なのか……いっそのこと、暗々裏で他の者に
「失言だ。取り消せ」
すかさず低い声を出され、悪かった、と扇をかざした。そうして別の何事かを思い出す。
「そういえば、西の噂を聞いたか?」
「噂?」
「
「――――
「牙族の姫が
韃拓は驚き、そして呆れた。
「なんとも大それたことをするな。反発が起きないのか。一体どこの国だ」
「
聞いて今度は得心して頷く。
「ああ――――死泉な」
「聞いたのか」
「あそこは
「なまじ寿命が長いゆえかもしれんの」
さようか、と
「まだそんなことを言うておるのか。妾は決して賛成しているわけではないぞ」
咎めれば手を振った。
「俺はあの日からなにも諦めてないし、変わってないぜ。それに、
「どうしておられると?」
「ずっと宮に籠ったきり出てこねえんだよ。一回無理やり押し入ったがいなかった」
葛斎は額に手を当てた。
「よもやあちらでもそんな手荒な振る舞いを。
「平気だろ。八泉の後宮なら俺は出入りし放題だ」
だといいが、ともう一度息を吐いた。
「……それで、族領へ戻るのか」
「
予想通りの返答に頷いて懐から文を取り出した。
「……
「おうよ」
ぞんざいに受け取ったところで呼ばわる声がして顔を上げると、年若い王が駆けてくるのが見えた。
いまや神勅を持たない名ばかりの一泉主は、自らが王兄と目した男が手を挙げたのに
白い息をたなびかせて歩き出す。人の少ない石畳を進んでいれば、いつの間にか隣にはいつもの影が並ぶ。
「先ほどの件、面白いな」
「どの件だ?」
「四泉と牙族の同盟だ。いったいどうやって話をつけたのか詳しく知りたいところだ」
「そういやお前は昔から興味があったもんな」
「ああ。しかし降嫁ではなく入内ときた。こちらよりよほど根回しがあったろう。
そんなものか、と生返事をすれば甘い香りを纏った彼は目配せしてくる。
「さて、見ものだと思わないか、韃拓?」
「なにが?」
「大泉地じゅうで餌を嗅ぎ回っている牙族が俺たちの同盟と
「
「のみではないと俺は思う。それだけで波風の立つそんな大業をするだろうか。なにか裏で企んでやしないだろうか」
韃拓は立ち止まって見返した。
「どういうことだ?」
「――――もし、牙一族の族主も、お前と同じく『選定』の幻を
「……天門のことを知ってるってのか?」
ひそめた声には小首を傾げる。
「さあ。全ては憶測でしかないが。でももしそうなら、あちらはあちらなりに
「なるほどな……気に留めておくか」
韃拓は顎を一撫でして暫時考え、なんにしても、と身を
「時はない。だが、まだこれで終わらせない」
「お前は救世者だからな」
冗談めかして
「すぐにこの腐った
逝水捲土 合澤臣 @omimimi
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