五十八章



 もう少しで矢は尽きる。韃拓はわらった。弓だけ持っていても攻撃など出来まい。駆けながら地面に刺さった敵矢を全て破壊した。新たに飛んできたものを腕でね返す。一瞬、何梅の姿を視界から逸らした。その隙に消える。


 ――――どこだ。


 中腰で剣を構えながら全方位を警戒する。舞う木の葉が円を描いてひろがるような錯覚をおぼえた。目に痛い赤の庭で静かな声がどこからともなく降った。


「なぜ葛斎を人質に取らない?私は己よりもあれが殺されては困る」


 八方から聞こえる。片足を軸に弧をつくりながら体を捻る。蟀谷こめかみから汗が散る。


「彼女の首に刃を突きつければ私はすぐに殺せるぞ」

「これは何梅、てめえが始めたことだ。俺たちの果たし合いに泉人を巻き込むな」

 高笑いは頭上から聞こえた。そう返すのを確信していた声音だ。「甘いのね。瑜順に似たのかしら」

「気安く呼んでんじゃねえよ‼」


 叫んだ刹那、頬をかすめたのは細い棒、枝葉が付いたままで軌道が読めない。化物はお前のほうだと韃拓は歯噛みして旋回した。射ながら樹上を移動しているのに気配がまるで分からない。ふいに、笛の音が聞こえてさらに悪態をついた。ちぎりの九子をんだのだ。


 はじめに躍り出たのは二頭のサイはやい。うなる鱗尾が韃拓の体を吹き飛ばし幹に叩きつける。打ちつけられて息を詰め、痺れた手で剣柄たかびを握りなおした。これを放せば終わりだ。


饕餮とうてつを喚ばないのね……いいえ、喚べないのね」


 くつくつと笑う声がした。振り返り、造次ぞうじ、横に転がると今しがたもたれていた幹が木っ端を散らしてえぐれ、低い唸りが響いた。

 倒木の地響きに紛れた虎のような喉鳴りに慄然と目を凝らす。赤い暗がりから鋭い鉤爪で襲いかかってきたのは黒いハク。姿につい、かつて自らが従えていたものと重ねて思わず避けた。


「狛は殺せないか?だがやらねばお前が消えますよ」


 長い尾の毛房を箭猪やまあらしのように尖らせ振りかぶって来る。棘棒は顔を庇った片腕を容易に刺し貫いた。

 さすがに鋼兼ハガネでは肉は炸裂しなかったが、無理やり針から引き抜いてわずかに血沫を散らし、咄嗟に剣を盾にして次なる攻撃を受ける。間合いを取る暇がなく勢いを止めようと踏ん張った足は落葉で滑った。


 体勢を崩し、しまった、とすがみ、剣で体重を支えようとした。しかし次には握った甲にしたりと小気味よく矢が当たり、反射で思わず開く。愛剣は勢いよく回りながら背後の幹に突き立った。


 仰向けに転げて狛の尾針の斬撃をかわしすぐに距離をとる。剣に近づこうと踏み出した直後、とうとう、今まで隠れていた母が降り立ち阻んだ。


「勝負はついたよう」


 微笑んだ何梅はゆっくりと弓弦を引く。他三方を豺と狛に囲まれ、韃拓は荒い息を吐いた。

「殺しはしません。今お前に死なれては困りますからね。ひとまず動けなくしますよ」

「……はっ。俺がおとなしく捕まるとでも」

「人を生けるしかばねにするのは容易いことなのです。安心なさい。痛みも苦しみもくしてあげます。必要なのはお前の血と饕餮ですから」

 巫師であり薬師の何梅はその方法を知っている。

「俺が天門でどうやって扉を開いたか知らないくせに」

「話には聞いた。別に何らかの存在と意思を通わすわけではない。なら必要なのは『お前』ではなくお前が得た『特権』と『実体』です。自我はこのさい棄ててもらいましょうね」

 きり、と白い矢の先が向けられた。


「さようなら、韃拓」


 言って、何梅は息子の背後に、はたり、と現れた影に思わず気を取られ動きを止めた。

 向かい合う韃拓は母親の放心した顔を生まれて初めて目にした。



「俺は母上さまを愛していたのに」



 静かに響いた声に惴恐ずいきょうした。



「さようなら、何梅さま」



 韃拓は振り返ろうとした。しかし目の端に黒が延びる。刹那、急に体が浮遊し揺れた。どん、という衝撃に光が消失する。薄く瞼を開けるも何も見えない空白、何の感触もせず漂い、――――やがて悟り、ふっ、と息を吐いた。


「俺にやらせろ」


 呟けばぱちりとひらけ、もとの赤い景色に戻った。地面に投げ出されていた身を起こす。寸暇の暗転の合間に豺も、狛も消えた。がさがさと音を立てつつ起き上がり、そうしてすぐ近く、木の根元にわだかまる塊を見下ろした。


 赤いふうの森、無風無音にか細い喘鳴ぜんめいがひとつ、いやに耳に大きく聞こえる。四肢を失った端から噴きで流れる赤い鮮血が同じく赤い葉に染み込んでゆく。白い肌を自らのもので汚し、黒い瞳孔を激しく揺らして怯えた。


「…………あ…………」


 もはや意味を聞き取れる言葉もない。顫動せんどうした白い唇と眼睛めだまだけが爾今爾後いまからを必死に止めようとする。韃拓は転がった大弓と最後の一矢を拾い上げ、ゆっくりと引き絞り、深く息を吸い、


 ――――吐くのを止め、離した。





 くびを貫かれ木の幹に射止められてなお女は息があった。その類稀たぐいまれな天与の力ゆえに。しかし韃拓は背を向けた。必死の形相で駆けてくるもう一人の女が肩を突き飛ばして死体になりつつある塊に泣き縋る。

「何梅、何梅‼…………角公‼なんと、なんと愚かなことを‼」

 衣が水を吸ってみるみる黒くなる。友の名を呼び続け傷を押さえたが、なんの意味もない。

「何梅なくして泉地の統合など出来はせぬ!貴様、なんということをしてくれた‼」

「出来る。俺がいれば」

 葛斎は幼子のようにかぶりを振る。「無理じゃ、無理じゃ!この恩知らず!」

 虚ろな目を開いたまま冷たくなっていくのを抱きかかえ、矢を抜こうとしたがかなわなかった。

「おのれ!であれば妾も殺せ!もう生きる理由もない‼」

「あんたはまだ殺さない。使えるからな」

 吐き捨て、見守っているものに近づく。彼は無表情に、


「お見事」


 と言った。韃拓は襟首を掴み上げる。額に立てた太い青筋が脈打った。

「てめえ…………‼」

「なぜ怒るんだ?」

 無感動に問うた声に叫ぶ。

「余計なことしやがって!殺されたいか!」

 唾を飛ばしてがなればようやく容貌が一変した。

「瑜順どのを食べてはいけないとは命ぜられておりませんでした」

 同じ顔で莞爾にっこりと微笑んだ下僕に間髪入れず拳を振る。人そのもののように鼻血を垂らした。

「――――ひどいな、韃拓。殴るなんて」

「やめろ‼」

 折りきれるほど細い首を両手で掴んで馬乗りになり地に押しつけた。


 まるで呼吸の仕方が分からない。吸えども吸えども苦しく、胸が腐り落ちるように痛んで焼けつく。

 すう、と伸びてきた白い腕が顔を包んだ。

「お前に死なれては困る」

「ゆる……さねえ……‼」

「それでもいい。俺を呪うといい。だが俺は見捨てない。なぜなら俺はお前の唯一の味方だから」


『瑜順』は微笑む。以前とひとかけらも変わらない、黒い瞳で。


「言ったろう。俺は全てを暴き、取り入れられると。思考も、経験も、記憶さえも。俺は瑜順そのものだよ韃拓。おまえは死なせたくないと望んだ。それが分かったから下僕おれに出来る最上のことをした」

「…………もう、黙れよ…………」

 腕から力が抜け、身を屈めてくずおれた。心の中がひしゃげて潰れ、もはやどう考えていいのか、どう納得すればいいのか分からない。ただ張り裂ける痛みに呻き声を上げ、懐かしい甘い匂いのする胸の中で幼子のように丸まった。





 ちぎれた腕の片方だけが転がっていた。韃拓はその指からひとつ指環を引き抜くと、母親だったものの上でいまだいている女に投げて寄越した。

「泉主のことはあんたに任せる。今ごろ国内は水が濁って混乱してる。早くなんとかおさめろ」

 うるさい、と力なく言ってきたのに冷たい視線を投げ、それから半双かたわれに向きなおる。

罔象もうしょう、太后を泉宮まで送り届けろ」

「主どのは?」

「このまま帰る」

 また知らない青年の姿に変わっている妖は大仰にかしいだ。

「先代のことはどうつくろいます?」

「お前はなんて言って出てきたんだ?」

「寒県に降りてくると」

 韃拓は頷き、自分の剣を木から引き抜いた。母親の大弓も再び取り上げたが、握った端からひびが入って粉々に砕けた。

「……なるほどな。持ち主が死んだら賜器しきも壊れるのか……」

 改めて葛斎を見下ろした。

「先代は不慮の事由で死んだと広める。だが同盟主は俺だ。これから先も角族と一泉は協力し続ける」

 言えば怨みをこめて睨まれた。

「我らの大望が、ますます遠くなった……」

「それは思い込みだ。結果、一泉は黎泉の支配から逃れることになった。あんたらの目論見どおりにな。そんでこれからのことも引き継いでやろうと言ってんだ。文句はねえだろ」

「何梅を、実の母親を、そなたは……‼」

「こいつの唯一で最大のあやまちは瑜順を殺したことだ」

「死なせてなんとする!何梅が持っていたほどの知識と立てていた計画を全く知らないそなたが、この先残りの国の天門にそう易々と関われると思っておるのか‼」

 叫ぶ葛斎に、だから、と指を突きつけた。

「あんたを生かしたんだろうが。それほど重要なことをこいつがたったひとりで黙って抱えるわけがない。叩扉にはあんたの立場と権力が必要不可欠だったなら計画の半分くらいは聞いてんだろ?こいつにどれほど心酔してたか知らねえが、あんただって何も知らずに頷くような馬鹿じゃないはずだ」

「おぬしと手を携えるなど、反吐へどが出る」

「それはお互い様だな。そっちだって瑜順を利用したのは同じだ。だが今まで泉人どうほうあざむいて俺たちに協力してくれてたのは少なからず恩義がある。これからも手を貸してくれる。だろ?」

 そうするしかないはずだ、と殺伐とした顔で笑まれ、葛斎は不気味な相好を怯えた目で凝視した。

「まずあんたが今やらなきゃいけないことは分かるだろ」

「妾にまた……王を殺せと言うのか……」

「でなきゃ一泉は滅ぶ。いいぜ、九泉に行って解決法がないか慈悲を恵んでくれと縋ってやっても。だがそうしているうちに民は腐った水の中で死ぬ。一泉国民五百五十万と、泉主ひとり、どっちをる」


 葛斎は屍に助けを求めるように視線を落とす。しかしもう答えてくれることはない。苦渋に満ちた時が経ち、ようよう息を吐いた。


「…………承知、した…………」

「罔象を貸してやる。冬騎とうきが使えなきゃこいつでなんとかしろ」

「それは出来かねます」

 予想外に拒否のいらえ。「他ならいくらでも主の名のもとに。しかし私にはほふることはです。これは太后陛下にやって頂かなくてはなりません」

 葛斎は憔悴した顔で首肯しゅこうし、それで恭しく礼をした妖は瞬く間にけてサイの姿に変じた。



 雄常樹ゆうじょうじゅの根元に遺骸を横たえ、上から色褪せのない落葉を被せる。いまだ震える手でおざなりの弔いをし、獣に跨った。族主は後ろを向いている。めくれて固まった木の皮を、なにかを考えるように眺めている。去り際の言葉などあるものか、と俯いたところでそちらは動かないまま問うてきた。


「あんたは別の楓氏ふうしを知ってんのか?」

「……何度か、会った」

 肩越しに狩人かりゅうどの双眸で射抜いてくる。

「なぜ楓氏だと?」

「……あちらが、そう名乗って接触してきたからじゃ。一度だけ、顔を見たことがある。恐ろしいほど整った面立ちと、赤い眼をしていた」

「そいつは何者だ」

「おそらく……妾たちとは相容れぬ敵だろう。何梅はいたく警戒していた。瑜順も九泉に赴く際に襲われたと話していた。睚眦がいさいられた、と」

 韃拓は爪を噛んだ。「そいつが同じく叩扉で死んでる可能性もあるよな」

 それはない、と葛斎は力なく言った。「妾があの豎子こぞうと見知り得て少なくとも四年は経つ。はじめから眼は赤かった」

 まるで分からない、と韃拓は首を振る。「そいつらはどれほどいるのやら。待っていれば、そのうちまた新たな楓氏が生まれるってことか?」

「可能性はあるが、そう頻繁に現れるものではなく、限りなく低い。楓氏が天啓なく天門に入れるのは分かった。だが我らは誤った。彼らの使い道は振り出しに戻った…………。角公、これから他国の不徳門を開くつもりでも、泉主と泉根を殺してまわっていたのでは到底成功などせぬ」

「だが他に策はない。天啓をけた俺はいつ鋼兼ハガネの力が失くなって獣の九子とちぎれなくなるかわからない。そうなれば継承者が必要で、こんな大層なことを一から説明しなきゃならねえなんて、面倒くさい。二の足を踏んでる余裕はない」


 葛斎は涙混じりの溜息を吐いた。白い煙がどんよりと濁った空に昇っていく。絶望しきって悲愴と疲労のくまを浮かべた瞼を閉じる。

「……角公。落ち着き次第、八泉へ行くといい」

 韃拓は瞬く。突然何を言い出したかと問いかけようとしたが、さらに遮られた。



「おぬしの祖母は生きている」



 どうにでもなれと自暴自棄に上向いた。

「角一族から騂髪せいはつの君と尊ばれ、おぬしと同じく饕餮を下して最初に叩扉を試みたあの方は今、八泉におられる」

 この血楓林けっぷうりんの庭ように、毒々しいまでに赤い髪をした面影が脳裡によみがえる。こちらの名を呼んだ声までも。

「八泉宮を訪ねよ」




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