五十八章
もう少しで矢は尽きる。韃拓は
――――どこだ。
中腰で剣を構えながら全方位を警戒する。舞う木の葉が円を描いて
「なぜ葛斎を人質に取らない?私は己よりもあれが殺されては困る」
八方から聞こえる。片足を軸に弧をつくりながら体を捻る。
「彼女の首に刃を突きつければ私はすぐに殺せるぞ」
「これは何梅、てめえが始めたことだ。俺たちの果たし合いに泉人を巻き込むな」
高笑いは頭上から聞こえた。そう返すのを確信していた声音だ。「甘いのね。瑜順に似たのかしら」
「気安く呼んでんじゃねえよ‼」
叫んだ刹那、頬をかすめたのは細い棒、枝葉が付いたままで軌道が読めない。化物はお前のほうだと韃拓は歯噛みして旋回した。射ながら樹上を移動しているのに気配がまるで分からない。ふいに、笛の音が聞こえてさらに悪態をついた。
はじめに躍り出たのは二頭の
「
くつくつと笑う声がした。振り返り、
倒木の地響きに紛れた虎のような喉鳴りに慄然と目を凝らす。赤い暗がりから鋭い鉤爪で襲いかかってきたのは黒い
「狛は殺せないか?だがやらねばお前が消えますよ」
長い尾の毛房を
さすがに
体勢を崩し、しまった、と
仰向けに転げて狛の尾針の斬撃を
「勝負はついたよう」
微笑んだ何梅はゆっくりと弓弦を引く。他三方を豺と狛に囲まれ、韃拓は荒い息を吐いた。
「殺しはしません。今お前に死なれては困りますからね。ひとまず動けなくしますよ」
「……はっ。俺がおとなしく捕まるとでも」
「人を生ける
巫師であり薬師の何梅はその方法を知っている。
「俺が天門でどうやって扉を開いたか知らないくせに」
「話には聞いた。別に何らかの存在と意思を通わすわけではない。なら必要なのは『お前』ではなくお前が得た『特権』と『実体』です。自我はこのさい棄ててもらいましょうね」
きり、と白い矢の先が向けられた。
「さようなら、韃拓」
言って、何梅は息子の背後に、はたり、と現れた影に思わず気を取られ動きを止めた。
向かい合う韃拓は母親の放心した顔を生まれて初めて目にした。
「俺は母上さまを愛していたのに」
静かに響いた声に
「さようなら、何梅さま」
韃拓は振り返ろうとした。しかし目の端に黒が延びる。刹那、急に体が浮遊し揺れた。どん、という衝撃に光が消失する。薄く瞼を開けるも何も見えない空白、何の感触もせず漂い、――――やがて悟り、ふっ、と息を吐いた。
「俺にやらせろ」
呟けばぱちりとひらけ、もとの赤い景色に戻った。地面に投げ出されていた身を起こす。寸暇の暗転の合間に豺も、狛も消えた。がさがさと音を立てつつ起き上がり、そうしてすぐ近く、木の根元に
赤い
「…………あ…………」
もはや意味を聞き取れる言葉もない。
――――吐くのを止め、離した。
「何梅、何梅‼…………角公‼なんと、なんと愚かなことを‼」
衣が水を吸ってみるみる黒くなる。友の名を呼び続け傷を押さえたが、なんの意味もない。
「何梅なくして泉地の統合など出来はせぬ!貴様、なんということをしてくれた‼」
「出来る。俺がいれば」
葛斎は幼子のようにかぶりを振る。「無理じゃ、無理じゃ!この恩知らず!」
虚ろな目を開いたまま冷たくなっていくのを抱きかかえ、矢を抜こうとしたがかなわなかった。
「おのれ!であれば妾も殺せ!もう生きる理由もない‼」
「あんたはまだ殺さない。使えるからな」
吐き捨て、見守っているものに近づく。彼は無表情に、
「お見事」
と言った。韃拓は襟首を掴み上げる。額に立てた太い青筋が脈打った。
「てめえ…………‼」
「なぜ怒るんだ?」
無感動に問うた声に叫ぶ。
「余計なことしやがって!殺されたいか!」
唾を飛ばしてがなればようやく容貌が一変した。
「瑜順どのを食べてはいけないとは命ぜられておりませんでした」
同じ顔で
「――――ひどいな、韃拓。殴るなんて」
「やめろ‼」
折りきれるほど細い首を両手で掴んで馬乗りになり地に押しつけた。
まるで呼吸の仕方が分からない。吸えども吸えども苦しく、胸が腐り落ちるように痛んで焼けつく。
すう、と伸びてきた白い腕が顔を包んだ。
「お前に死なれては困る」
「ゆる……さねえ……‼」
「それでもいい。俺を呪うといい。だが俺は見捨てない。なぜなら俺はお前の唯一の味方だから」
『瑜順』は微笑む。以前とひとかけらも変わらない、黒い瞳で。
「言ったろう。俺は全てを暴き、取り入れられると。思考も、経験も、記憶さえも。俺は瑜順そのものだよ韃拓。
「…………もう、黙れよ…………」
腕から力が抜け、身を屈めてくずおれた。心の中がひしゃげて潰れ、もはやどう考えていいのか、どう納得すればいいのか分からない。ただ張り裂ける痛みに呻き声を上げ、懐かしい甘い匂いのする胸の中で幼子のように丸まった。
ちぎれた腕の片方だけが転がっていた。韃拓はその指からひとつ指環を引き抜くと、母親だったものの上でいまだ
「泉主のことはあんたに任せる。今ごろ国内は水が濁って混乱してる。早くなんとかおさめろ」
うるさい、と力なく言ってきたのに冷たい視線を投げ、それから
「
「主どのは?」
「このまま帰る」
また知らない青年の姿に変わっている妖は大仰に
「先代のことはどう
「お前はなんて言って出てきたんだ?」
「寒県に降りてくると」
韃拓は頷き、自分の剣を木から引き抜いた。母親の大弓も再び取り上げたが、握った端からひびが入って粉々に砕けた。
「……なるほどな。持ち主が死んだら
改めて葛斎を見下ろした。
「先代は不慮の事由で死んだと広める。だが同盟主は俺だ。これから先も角族と一泉は協力し続ける」
言えば怨みをこめて睨まれた。
「我らの大望が、ますます遠くなった……」
「それは思い込みだ。結果、一泉は黎泉の支配から逃れることになった。あんたらの目論見どおりにな。そんでこれからのことも引き継いでやろうと言ってんだ。文句はねえだろ」
「何梅を、実の母親を、そなたは……‼」
「こいつの唯一で最大の
「死なせてなんとする!何梅が持っていたほどの知識と立てていた計画を全く知らないそなたが、この先残りの国の天門にそう易々と関われると思っておるのか‼」
叫ぶ葛斎に、だから、と指を突きつけた。
「あんたを生かしたんだろうが。それほど重要なことをこいつがたったひとりで黙って抱えるわけがない。叩扉にはあんたの立場と権力が必要不可欠だったなら計画の半分くらいは聞いてんだろ?こいつにどれほど心酔してたか知らねえが、あんただって何も知らずに頷くような馬鹿じゃないはずだ」
「おぬしと手を携えるなど、
「それはお互い様だな。そっちだって瑜順を利用したのは同じだ。だが今まで
そうするしかないはずだ、と殺伐とした顔で笑まれ、葛斎は不気味な相好を怯えた目で凝視した。
「まずあんたが今やらなきゃいけないことは分かるだろ」
「妾にまた……王を殺せと言うのか……」
「でなきゃ一泉は滅ぶ。いいぜ、九泉に行って解決法がないか慈悲を恵んでくれと縋ってやっても。だがそうしているうちに民は腐った水の中で死ぬ。一泉国民五百五十万と、泉主ひとり、どっちを
葛斎は屍に助けを求めるように視線を落とす。しかしもう答えてくれることはない。苦渋に満ちた時が経ち、ようよう息を吐いた。
「…………承知、した…………」
「罔象を貸してやる。
「それは出来かねます」
予想外に拒否の
葛斎は憔悴した顔で
「あんたは別の
「……何度か、会った」
肩越しに
「なぜ楓氏だと?」
「……あちらが、そう名乗って接触してきたからじゃ。一度だけ、顔を見たことがある。恐ろしいほど整った面立ちと、赤い眼をしていた」
「そいつは何者だ」
「おそらく……妾たちとは相容れぬ敵だろう。何梅はいたく警戒していた。瑜順も九泉に赴く際に襲われたと話していた。
韃拓は爪を噛んだ。「そいつが同じく叩扉で死んでる可能性もあるよな」
それはない、と葛斎は力なく言った。「妾があの
まるで分からない、と韃拓は首を振る。「そいつらはどれほどいるのやら。待っていれば、そのうちまた新たな楓氏が生まれるってことか?」
「可能性はあるが、そう頻繁に現れるものではなく、限りなく低い。楓氏が天啓なく天門に入れるのは分かった。だが我らは誤った。彼らの使い道は振り出しに戻った…………。角公、これから他国の不徳門を開くつもりでも、泉主と泉根を殺してまわっていたのでは到底成功などせぬ」
「だが他に策はない。天啓を
葛斎は涙混じりの溜息を吐いた。白い煙がどんよりと濁った空に昇っていく。絶望しきって悲愴と疲労の
「……角公。落ち着き次第、八泉へ行くといい」
韃拓は瞬く。突然何を言い出したかと問いかけようとしたが、さらに遮られた。
「おぬしの祖母は生きている」
どうにでもなれと自暴自棄に上向いた。
「角一族から
この
「八泉宮を訪ねよ」
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