五十七章
黒い枯葉が折り重なる湿原に下り立ち、前方のもう一頭の
「こっちです」
後続を待っていた彼女は森に囲まれた新たな岩棚の裂け目を示し、まだ登るのか、と見上げた。岩の
「体は平気ですか、葛斎」
呼びかけられて頷く。疲れはあるが格別不調はない。問うた何梅は瓶の蓋を抜いた。
「上はさらに由霧がきつい。念の為飲んでおくといい」
「そうだな」
無色透明の薬水を一口飲み干す。何梅も獣の背から下りて手を差し出した。
「ここから先は狭くて
「ああ。もう近いのか?」
「もうすぐよ」
それで二人でおどろに暗い坂を登っていく。「何梅……明かりを」
「すぐに抜ける。必要ありません」
手を引かれ、歩きにくく滑りやすい狭道を進みながら、冷たい手だ、と俯いた。おそらくそれは北風の為だとは分かっていたが、それでもまるで彼女の心を表したかのように温度のない、鉄のような手だった。
何梅は強い。少なくとも自分の前では弱々しく振舞ったことなど、出会ってから一度もない。母親譲りの堅い意志を持った瞳と、彼女特有の謎の微笑の裏で、いったい何をどう考え思ってきたのか、知りようもない。ただ感じられるのは、苛烈なまでの己の一族への忠誠だ。何梅の頭の中では今も昔も角族に水の地を与えることという目的で一貫している。その為にはどんな手を使ってでも成し遂げると覚悟を決めている。
そう、たとえ盟友と誓い合った相手にさえも隙を見せぬほどにその確固とした信念は強く揺らがない。上手く利用されているとは分かっているのだ。だが、それでもいいと思っている。自分は
何梅だけが唯一、本心を語れる相手だった。息の詰まる宮の奥で胸中など吐露すればすぐにつけ込まれ、こきおろされ、足許を
間違いなどあろうはずもない。何梅を信ずれば事は成り、救いがもたらされる。何梅はこの自分こそが救いだと言ったが、それは違う。この世界の
「葛斎?どうしたの?」
握る手に力を入れてしまっていた。上向けば微笑む顔が前方へと促す。
「着きました」
光の漏れ射す出口へと抜け、葛斎はしばらく言葉を失う。
一面の赤だった。鮮やかに染めあがる木の葉、それは枝に付いたものももちろん、散ってしまい地べたを埋めたものも色褪せずに
「ここが…………?」
葛斎は見渡して目を
「驚いた……霧が、ない」
いつの間にか禍々しい紫雲はなりを潜め、さらには木々に遮られているのか凍てついた風も止んでいる。むしろ暖かいくらいだ。
「不思議なところだな」
「私が見つけたのはほんに偶然だったのか……それとも見つけるべくしてそうだったのか、今となっては分からない」
何梅は体に斜めに掛けた
葛斎も頷く。
「あの方はあの方で別の使命を帯びた。これは何梅、そなたしか成し得なかったこと。そして出来うる限りの務めをやり遂げた……」
言ったが、伏せた顔に怪訝になる。
「どうかしたか?」
いえ、と何梅は再び前を向いた。「行きましょう」
歩けども歩けども鬱蒼と続く森は悠然と、目に痛いほどの赤色だ。そういえば、鳥の声も全くせずあたりは静謐に包まれている。まるで
「……あなたには心から感謝しているわ、葛斎」
「……どうした、急に」
赤い落葉を踏みしめながら、何梅はいつもと変わらない語調で言う。
「あなたがおらねば大望は成されなかった」
「そうか?
「それはそうだけれど、このように穏便にいったかは分からない」
穏便にか、と葛斎はふっと笑った。今までのことをそんなふうに言う者など何梅だけだろう。彼女にとっては犠牲は少ないほうだったということだ。
「ひとまずは、大波を越えた。だが妾たちはまだ
「……そうね。まだ帆は畳めない。私の天命は、この命尽きようと終わらない」
急に立ち止まり振り返った。すいと掲げた腕、指は前方を指す。
「あれです」
示されて初めて、葛斎はその存在に気がついた。あまりの大きさにまわりの木々の風景として紛れていて分からなかったのだ。
「なんと……これは……」
もっと近づくとさらに不可思議な樹だった。根はぐねぐねとうねって所々地中から飛び出、かなり遠いところまでに及んでいるのが分かる。そして幹に
「これは?」
「この木の皮に包まれて生まれてくるのがつまりはあれだ」
「これが……話していた?」
真に反芻出来ないうちに、突然、何梅は声を張った。
「いるのは分かっていますよ。出てきなさい。私は逃げも隠れもしない」
え、と葛斎が驚きに身を強ばらせると、上から降ってきたのは黒い塊。
「…………角公⁉」
赤い木の葉を撒き散らしてゆっくりと立ち上がった韃拓は母親を睨み据えた。対する何梅は傲然とその視線を受け止める。
「よくここが分かりましたね」
「……俺を誰だと思ってる」
距離を置いたままの息子に低く返され、そうですね、と色のない声で返した。
「なにか火急の用でも?」
「…………本題の前にひとつ、ずっと確かめたかったことがある。
「お前は私が過程を語らねばならないほど察しの悪い子ではないはずです」
「――――やっぱり
葛斎は痛ましげに目を逸らし、何梅は首を
「なにをそれほど怒っているのです。獣で試したとて人に効くのか分からないでしょう。あの者たちはもともと、
「おかげで
「それは申し訳ないことをした。可敦はご気分を害されておられるか?」
「なんでよりによって
「ああ。なら、逆に幸せだったでしょう。息子の訃報を聞く前に同じところへ逝けた」
「…………ふざけているのか?」
茫然と、理解出来ない、と首を振る。「皆の依り
「いくらでも
「………………」
韃拓は
「人を身分と出生ではっきり分けて、心持ちさえもそれに準じるんだな…………謝罪の一言もない。強いわけだ。人の心が無いんだからな」
「一体どうしたというのです?なにかもっと
話がみえない何梅が問うて、沈黙が降りた。やがて、韃拓は瞬きもせず再び口を開く。
「瑜順が死んだ」
「……なんと?」
聞き返したのは葛斎、己の耳を疑う。それには一瞥を返される。
「死んだと言ったんだ」
「なぜ。どうして」
「鳥をもらいました」
冷静な友の言に葛斎は動揺した。「待て。妾は、何も知らされてはおらぬ。どういうことだえ。なぜ瑜順が死んだ?病か?怪我か?」
「この泉人に何も教えてないのか」
さらに
「葛斎。
「――――は?」
「
大樹に近づき、手を当てた。
「――――やはり、無理だったか」
それには韃拓も目を
「やはり?なんだそれは。それはつまり、失敗するかもしれないと思っていたのか?」
「そんなはずはない。瑜順は
震えが――今度は寒さではなく絶望によって抑えられない。叫べども、友は白い顔で無感動に黙っている。
「
「だが実際に瑜順は死んだんだぞ!」
「い、いつから。どうして」
「春に倒れてそれから徐々に弱っていった。あれは由霧にあてられた奴とそっくりの死に方だった。体中に
葛斎は座り込み口を覆う。
「嘘だ……何梅!では、なぜ、なぜあちらの楓氏は死んでいない⁉あれも瞳は赤かった。ならば
「それは私にも分からない。しかし、瑜順が叩扉に成功するか失敗するかは、いずれにしてもやってみなければ分からないことだった。なにせ我らが得られた楓氏など瑜順以外に過去にひとりもいないのだから」
「……全て話せ。俺に黙っていたことを全て明かせ‼」
怒声に女二人は険しい顔をした。ようやく、何梅が向き直る。
「……韃拓、まず、ここは神聖な場所です。気を
「俺はいっとう機嫌が悪い。いいからさっさと話せ」
這うような殺気が伝わり葛斎は
「……何から、話せば良いか。まずなぜ私が楓氏の存在を知っていたか、ですね。いいえ、それを含め、天門に関わることは全て、これは私の母の知恵に
「
「お前も聞いているでしょうが、母は数百年ぶりに生まれた『
しかし、彼女の青年期は角族にとっては辛苦の時代だったのだ。長年掘っていた
「幼い頃、少なからず私も経験しました。毎朝毎夜の祈祷も功を奏さず、獣の生き血を
それでも危機とは常に隣り合わせだった。石が採れるようになっても、それは真実安寧をもたらす解決方法ではない。やがてはいつかまた枯れ、この絶望は繰り返される。一族は緩やかに確実な死へと向かっているだけだと彼女は気がついた。それで、根本としてこの事態を解決する方法を求め始めた。
「その解決法として探り当てられたのが、大泉地を治める黎泉に介入すること。母は『選定』、つまり
「前にも聞いたが、それだっておかしな話だ。なぜ姥姥が『選定』に行けた。姥姥は先々代の
「無断で九子を下したからにほかならない」
韃拓は懐疑の念で呟く。「無断……?」
「そうです。母は許されて『選定』へ赴いたわけではない。なぜなら当主候補ではなく、すでに当主の妻で次代の継承者を生み出す役目の者だったから。しかし、『選定』を誰に挑戦させるかの推挙はあくまで一族の間で定めた
「露見せずに『選定』に成功したってのか」
「ええ。彼女にはその力があって、本人も自分のほうが夫である当主よりも能力が高く強いと自覚していたからです。しかしながら母は当主になりたくて罪を犯したのではない。目的は
葛斎が
「何梅と出会ったのは幼い頃。妾が
「なんだと……楓氏という存在がいるというのも、姥姥は知っていた?」
頷き、何梅は大木を見上げた。
「――――これは
韃拓は拳を握り締めて二人を睨みつけた。
「初めから、
何梅は飄々と見返し、葛斎はやはり顔を背けた。
「それでどれほど
仲間と巻き込まれた民の
「お前たちが、全て仕組んでいやがったのか────‼」
全部、
「確かに誤算はあった。最後の掠奪で予想以上に被害を出してしまったし、私が
何梅はわずかに眉をしかめたが、その内なる怒りが顔の動きに比例せず激しいことは察せられた。
「
「それでもどうせ瑜順は死んだろう!」
「他にめぼしい方法がない以上、遅かれ早かれ試さねばならなかった。私とてあれが天門から帰ってきたのを見届け、閉門は成功したのだと思っていたの。しかし、ぬか喜びに終わった。それなら今後はむしろ後手に回りそれだけ状況は悪化する。全てを知って協力してくれる葛斎が死んでみなさい、我々は昇黎することさえ難しくなるのです。叩扉において葛斎の立場と力は絶対に必要なもの、それに私さえもう時は残されていない」
「試した、だと?俺は警告した。瑜順に危険なことをさせたら許さないと」
「お前はいつもあればかりを気にかける」
私とて、と言った顔が今度ははっきりと、ようやく、韃拓が知るかぎり初めて侮蔑に歪んだ。
「好きでお前を『選定』に行かせたわけではない。あのおぞましいほど美しい人の
到底許容できない言葉に頭の中が焼き切れる感覚をおぼえ額を押さえる。
「使っただ……?あんたは、俺を、俺たちをなんだと思ってる。いったい、本当は何の目的のためにこんなことをした。水を得るためだと言う、確かに一泉とは同盟を結べた。だが、天門に関わるなんてことは、方法も不確かなままやることだったのか?早まったんじゃねえのか。泉主がいれば少なくとも水は腐らず、同盟は続いていく。一族が水を失う未来は回避されたはずだ。なのに」
「我々の望みは一時凌ぎのそんな
何梅は葛斎を立たせて手を握った。
「全ての目的はひとつ。――――封じられた神を
言葉を発せない息子に確固として続けた。
「大泉地から由霧の
「な……にを言ってる。そんな夢物語、出来るわけが」
否定を口にしながら、心の隅で自分の予想は間違っていなかったのだと愕然とした。
「お前こそなぜそれほど信じられないのです。今まで何を見て、何をしてきたのか。大泉地とはそもそもが
何梅の表情がさらにこれまで見たこともないほど苦渋に満ちる。
「
「途方もなく馬鹿馬鹿しい。天の九重門は九子がいなきゃ開けられない。この上俺を使ってまた天啓を
「饕餮がいればそれは必要ない。初めと終わりの九子、饕餮と
韃拓は舌打ちした。「ああ、そうかよ。だがたとえそうだとしても、徳門の『
何梅はひとつ息を吐き無感動に見つめたが、言い返さず葛斎に向きなおった。
「葛斎、瑜順が死んで失敗した今、一泉の天門は均衡が崩れ水は濁っているでしょう。かくなる上は最後の手段を使うしかない」
だめだ、と間髪入れず叫んだ。
「もう三度目だ!これ以上泉主を使い潰さぬために骨を折ってきたのだぞ⁉」
「……どういうことだ」
「開いている徳門を閉ざす最も確実な方法は泉根を絶つこと。つまりは泉主を失わせればいい」
韃拓は二人を見比べる。「……だが、王太子がいる」
「昇黎していないのであれば黎泉は
両門が開いているこの状況はすなわち不均衡であり水は腐る。ならばどちらかを閉ざすしかない。しかし内門である不徳門を一度開けてしまえば、閉ざす為にはおそらく用いることが出来るとすれば椒図が必要だが現状不可能。しかしそもそも、徳門ならまだしも開けることで神の復活を誘発する不徳門を開いてしまった。再び閉められるのかも定かでない。
不徳門は、本来閉める必要のないものだからだ。
ならば外門を閉めて均衡を取り戻すしかない。――――泉主を
「くそ……
「騙したつもりは無い。お前は瑜順さえいれば納得した。己でよく考えもせず母の願いに乗ったはお前の責です」
「いい面の皮だな‼どの口が言ってやがる、あいつを死なせたくせに‼」
憤りで喉が詰まって語尾の
「ではお前ならあれを救えたとでも?」
瑜順に真の存在意義を与えてやれたのか。何梅は超然と言い返した。
「あれはな、仲間を愛しすぎた。そして同じものが返ってくることを望んだのよ。愛すれば、きっと愛されると信じたのです。けれど、どれほど人のふりをしようと無理だった。己の身を粉にして全てを捧げれば、受け容れてもらえるのではないかと夢見て、とうとう諦められずに命まで
「黙れ‼」
韃拓は背に負った大剣を抜き放った。
「鬼だろうがなんだろうが知ったことか!瑜順は瑜順だ!俺はてめえを許さない‼」
「お前はあれの人の姿しか見ていないからそんなことが言えるのです。私が初めて見た時、あれは正視に耐えない吐き気をもよおす醜い妖でした」
何梅は弓を取る。「天門に必要だったにせよ、あれのことで随分と皆を掻き乱した。それでも育ててやったこの私に刃を向けるのですか。韃拓、自分のやっていることが分かりますか」
ああ、と咆哮を吐いた。
「今までになく
「ならぬ!」葛斎が声を上げたが、何梅は彼女を突き飛ばす。
「気に入らねえが瑜順が信じた道だ。
「……その通り。けれど、一泉の不徳門が開いたのならば、逆に言えばもう饕餮は絶対に必要なものではなくなった。むしろ七頭を支配下に置く私は有用です。それとも、お前はこれから残りの門を全て独りで開き、天門
「他の国なんて知らねえよ。だが、一泉が黎泉の支配から逃れるなら、これからさき水を汚せば浄化する奇跡の力はもうアテに出来ないってことだ。それは心許ない。使える水が失くなればまた一族は締め出されるかもしれねえからな。なら、大泉地の統一はやったほうがいいってことだ」
「見ものですね」
「心配ない。母上どのは目にすることはない」
言うやいなや間合いを詰める。振りかぶった刃を鉄の弓で受け止めた何梅は鼻で
「兄のみならず、母まで手にかけるか」
「子殺しのクソッタレに言われたくねえな!」
何梅は風を裂く轟音を伴い横に
――――瑜順の
韃拓は長剣、獲物に近寄れば断然有利であり、何梅が矢をつがえ狙いを定めるまでには一足飛びに斬りかかれる。近づき離れ、また接近する鉄が激しくぶつかり合うのを葛斎は木の根に縋ってただ見ていることしか出来ない。どうして、と
あの日、あの時、もし何梅と出会っていなければ、何かが変わったろうか。むしろ変わらなかったろうか。しかしたとえ自分たち二人が邂逅しなかったとしても、何梅がやることはひとつだった。角族が真に本気を出せば、一泉宮に乗り込み、
しかし大泉地を統合しようと目論む何梅が残りの泉国を同じようにただ力だけで
そしてあらゆる可能性を探り、吟味して試してきたのだ。今度こそと葛斎さえ思った。しかし望みは
ここで拾った当初から、何梅が楓氏についてどれほど知っていたのか、母親からどこまで聞いていたのか葛斎は知らない。しかし早い段階から彼女は瑜順の利用価値に気がついた。由霧に
なにも葛斎とて彼を失わせたいと思っていたわけではない。むしろ貴重な『錠』として、泉主を殺さず徳門を閉じる現状唯一の方法だと考えてきたのだ。
何が間違っていたのか。いずれにしてもおそらく無理だろうと分かっていてこちらに忠告さえ与えてくれなかった九泉主には怨みが募るが、あちらも天について全てを知っているわけではないということなのかもしれない。それに彼は特段、志を共にする仲間ではない。だから瑜順のこともぎりぎりまで隠していた。たとえ初めから知らせこちらが一方的に詳細を聞き出そうとしても、素直に
分かっていた、分かっていたはずなのに、長年の付き合いや書簡のやりとりで少しは情けをかけ協力してくれているのではないかと錯覚した。冷静になれば有り得ないことだ。こちらは天域に介入するという禁忌を犯そうと企み、そして実行したのだから。
瑜順は指示したとおり九泉主に己が楓氏だと明かした。そして王はこちらのやろうとしていることを把握した上でそれでも請願されるまま椒図を貸し与えた。が、それだけだ。あとは知らないということだった。
結局は、自分の考えが浅すぎたのだ――――。
葛斎は苦悩に打ちひしがれた。何梅はこの計画がもしかすれば失敗するのではないかという予見をすでに持っていた。自分は、全くと言っていいほどそんな憂いがなかった。完璧に完遂したと踊り上がった。なんと滑稽だったことだろう。
かつての叩扉の儀は
(もう、そんな、つまらないことしか、思い浮かばない)
茫失して眼前の光景をただ瞳に映していれば、
…………もう、うんざりだ。血も、汗も、泥も、毒も。
たとえ自ら手を汚していないとしても、もう体も魂も
「太后陛下。それはまだ駄目でしょう」
密やかな
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