五十七章



 こいのように丸く規則的に折り重なっている鱗は見た目に反して温かい。撫でながら急峻な岩場を登る。もう随分と高地まで来た。


 黒い枯葉が折り重なる湿原に下り立ち、前方のもう一頭の睚眦がいさいに乗る朋友の姿をみとめた。


「こっちです」


 後続を待っていた彼女は森に囲まれた新たな岩棚の裂け目を示し、まだ登るのか、と見上げた。岩の隧道すいどうは坂道になっている。

「体は平気ですか、葛斎」

 呼びかけられて頷く。疲れはあるが格別不調はない。問うた何梅は瓶の蓋を抜いた。

「上はさらに由霧がきつい。念の為飲んでおくといい」

「そうだな」

 無色透明の薬水を一口飲み干す。何梅も獣の背から下りて手を差し出した。

「ここから先は狭くてサイに乗っては進めない。歩けますか」

「ああ。もう近いのか?」

「もうすぐよ」

 それで二人でおどろに暗い坂を登っていく。「何梅……明かりを」

「すぐに抜ける。必要ありません」


 手を引かれ、歩きにくく滑りやすい狭道を進みながら、冷たい手だ、と俯いた。おそらくそれは北風の為だとは分かっていたが、それでもまるで彼女の心を表したかのように温度のない、鉄のような手だった。


 何梅は強い。少なくとも自分の前では弱々しく振舞ったことなど、出会ってから一度もない。母親譲りの堅い意志を持った瞳と、彼女特有の謎の微笑の裏で、いったい何をどう考え思ってきたのか、知りようもない。ただ感じられるのは、苛烈なまでの己の一族への忠誠だ。何梅の頭の中では今も昔も角族に水の地を与えることという目的で一貫している。その為にはどんな手を使ってでも成し遂げると覚悟を決めている。

 そう、たとえ盟友と誓い合った相手にさえも隙を見せぬほどにその確固とした信念は強く揺らがない。上手く利用されているとは分かっているのだ。だが、それでもいいと思っている。自分は鋼兼ハガネでもなければ泉根せんこんでもないただの泉民、取るに足らない女だ。本当なら彼女たちとは一生涯関わることなど有り得なかった。それが今ではこの大泉地の行く末に深く介入し、泉民と泉外民を繋ぐ役割を負った。それは自分にとってはほまれ以外の何物でもない。


 何梅だけが唯一、本心を語れる相手だった。息の詰まる宮の奥で胸中など吐露すればすぐにつけ込まれ、こきおろされ、足許をすくわれる。わずかな瑕疵かしをも見逃しはしないと目をすがめる女たち、取り入ろうとする下官たちは葛斎をえさせた。反して、霧界で自由に馬を走らせる何梅は憧れだった。幼い頃には一緒に暮らそうとまで言われた。嬉しかったし、そのまま行方をくらましたいとも思った。しかし葛斎もまた己に科した運命さだめを忘れることは出来ず、そうして逃げなかった褒美なのか、巡り巡って何梅と共に成し遂げるべき天命をけた。


 間違いなどあろうはずもない。何梅を信ずれば事は成り、救いがもたらされる。何梅はこの自分こそが救いだと言ったが、それは違う。この世界のつなに触れることが出来るのはそれに組み込まれていない、摂理ことわりの外にいる者のみだ。自分はただ信じ、従っていればいい。そうすれば素晴らしい結果がもたらされるのだ。


「葛斎?どうしたの?」

 握る手に力を入れてしまっていた。上向けば微笑む顔が前方へと促す。

「着きました」

 光の漏れ射す出口へと抜け、葛斎はしばらく言葉を失う。



 一面の赤だった。鮮やかに染めあがる木の葉、それは枝に付いたものももちろん、散ってしまい地べたを埋めたものも色褪せずに燦爛さんらんと、赫々かくかくと輝く赤い森だった。


「ここが…………?」


 、と何梅は足を踏み出す。「綺麗でしょう?」

 葛斎は見渡して目をまたたかせた。

「驚いた……霧が、ない」

 いつの間にか禍々しい紫雲はなりを潜め、さらには木々に遮られているのか凍てついた風も止んでいる。むしろ暖かいくらいだ。

「不思議なところだな」

「私が見つけたのはほんに偶然だったのか……それとも見つけるべくしてそうだったのか、今となっては分からない」

 何梅は体に斜めに掛けた彤弓ゆみを握る。「我ながら恐ろしいまでの天運だった。母上さまはたいそう喜んでいたがそれでも自らがあれを育てようとはなさらなかった」

 葛斎も頷く。

「あの方はあの方で別の使命を帯びた。これは何梅、そなたしか成し得なかったこと。そして出来うる限りの務めをやり遂げた……」

 言ったが、伏せた顔に怪訝になる。

「どうかしたか?」

 いえ、と何梅は再び前を向いた。「行きましょう」


 歩けども歩けども鬱蒼と続く森は悠然と、目に痛いほどの赤色だ。そういえば、鳥の声も全くせずあたりは静謐に包まれている。まるでときが止まっているように感じたが、たまに音もなく葉が落ち、枝が揺れた。

「……あなたには心から感謝しているわ、葛斎」

「……どうした、急に」

 赤い落葉を踏みしめながら、何梅はいつもと変わらない語調で言う。

「あなたがおらねば大望は成されなかった」

「そうか?わらわがおらずとも、そなたは別の手段を考えたろう」

「それはそうだけれど、このように穏便にいったかは分からない」

 穏便にか、と葛斎はふっと笑った。今までのことをそんなふうに言う者など何梅だけだろう。彼女にとっては犠牲は少ないほうだったということだ。

「ひとまずは、大波を越えた。だが妾たちはまだかいを漕ぐのを止めるわけにはいかないのであろ?」

「……そうね。まだ帆は畳めない。私の天命は、この命尽きようと終わらない」

 急に立ち止まり振り返った。すいと掲げた腕、指は前方を指す。

「あれです」

 示されて初めて、葛斎はその存在に気がついた。あまりの大きさにまわりの木々の風景として紛れていて分からなかったのだ。

「なんと……これは……」


 そびえるのは太い、あまりに大きなひとつの大木だった。視界の端から端までを埋める大樹は見上げれば天に両手を広げたようにこれまた太い枝を八方に張り、周囲と同じく赤い大ぶりの葉をこんもりと付けていた。


 もっと近づくとさらに不可思議な樹だった。根はぐねぐねとうねって所々地中から飛び出、かなり遠いところまでに及んでいるのが分かる。そして幹にわだかまるものに首を傾げた。あちこち皮がめくれ、その端は丸まって紙筒のようになっている。黒い表皮の剥がれた内側は毒々しく赤かった。人の臓腑の色だった。


「これは?」

「この木の皮に包まれて生まれてくるのがつまりはあれだ」

「これが……話していた?」

 真に反芻出来ないうちに、突然、何梅は声を張った。

「いるのは分かっていますよ。出てきなさい。私は逃げも隠れもしない」

 え、と葛斎が驚きに身を強ばらせると、上から降ってきたのは黒い塊。


「…………角公⁉」


 赤い木の葉を撒き散らしてゆっくりと立ち上がった韃拓は母親を睨み据えた。対する何梅は傲然とその視線を受け止める。


「よくここが分かりましたね」

「……俺を誰だと思ってる」

 距離を置いたままの息子に低く返され、そうですね、と色のない声で返した。

「なにか火急の用でも?」

「…………本題の前にひとつ、ずっと確かめたかったことがある。鴆鳥毒ちんちょうどくの薬は一体どうやって造った。答えろ」

「お前は私が過程を語らねばならないほど察しの悪い子ではないはずです」

「――――やっぱり奴婢ぬひを使ったんだな⁉」

 葛斎は痛ましげに目を逸らし、何梅は首をかたむける。

「なにをそれほど怒っているのです。獣で試したとて人に効くのか分からないでしょう。あの者たちはもともと、角族われわれになんの近縁えにし由縁ゆかりもない者たち。失われても大きな損害にはならない」

「おかげで胡市いちに住まわせる予定だった奴らが消えちまった。泉人と俺たちを取り持つ仲介が必要だったのに。それに、可敦カトンの為に分けておいた中にも欠けてる奴がいた」

「それは申し訳ないことをした。可敦はご気分を害されておられるか?」

「なんでよりによって蒼池ソーチの母親を」

「ああ。なら、逆に幸せだったでしょう。息子の訃報を聞く前に同じところへ逝けた」

「…………ふざけているのか?」

 茫然と、理解出来ない、と首を振る。「皆の依りどころだった先代当主がそんなことを言うなんて、そんなに薄情だったのか」

「いくらでもなじれば良い。しかし、あの者たちのおかげで効薬は完成し、一泉人と戦士たちを救ったのですよ。そう考えれば仕方のなかった称えられるべき犠牲です」

「………………」

 韃拓はくらい目で大木を見上げた。

「人を身分と出生ではっきり分けて、心持ちさえもそれに準じるんだな…………謝罪の一言もない。強いわけだ。人の心が無いんだからな」

「一体どうしたというのです?なにかもっとゆえあってここへ来たのではないの?」

 話がみえない何梅が問うて、沈黙が降りた。やがて、韃拓は瞬きもせず再び口を開く。

「瑜順が死んだ」

「……なんと?」

 聞き返したのは葛斎、己の耳を疑う。それには一瞥を返される。

「死んだと言ったんだ」

「なぜ。どうして」

「鳥をもらいました」

 冷静な友の言に葛斎は動揺した。「待て。妾は、何も知らされてはおらぬ。どういうことだえ。なぜ瑜順が死んだ?病か?怪我か?」

「この泉人に何も教えてないのか」

 さらに睥睨へいげいされてますます混乱した。すがるように何梅を見ると彼女は瞼を閉じ溜息を吐いた。

「葛斎。叩扉こうひは失敗だ」

「――――は?」

かんぬきが壊れた……徳門が、開いてしまう」

 大樹に近づき、手を当てた。


「――――やはり、無理だったか」


 それには韃拓も目をいた。

?なんだそれは。それはつまり、失敗するかもしれないと思っていたのか?」

「そんなはずはない。瑜順は楓氏ふうしじゃ。現に天門に入れた。失敗など、するはずがない!」

 震えが――今度は寒さではなく絶望によって抑えられない。叫べども、友は白い顔で無感動に黙っている。

九泉主くせんしゅだって楓氏ならば可能性はあると言っていたではないか!」

「だが実際に瑜順は死んだんだぞ!」

「い、いつから。どうして」

「春に倒れてそれから徐々に弱っていった。あれは由霧にあてられた奴とそっくりの死に方だった。体中にあざが浮き上がって枯れ木みたいにしぼんでいった」

 葛斎は座り込み口を覆う。

「嘘だ……何梅!では、なぜ、なぜ楓氏は死んでいない⁉あれも瞳は赤かった。ならば昇黎しょうれいしたのだろう⁉」

「それは私にも分からない。しかし、瑜順が叩扉に成功するか失敗するかは、いずれにしてもやってみなければ分からないことだった。なにせ我らが得られた楓氏など瑜順以外に過去にひとりもいないのだから」

「……全て話せ。俺に黙っていたことを全て明かせ‼」

 怒声に女二人は険しい顔をした。ようやく、何梅が向き直る。

「……韃拓、まず、ここは神聖な場所です。気をしずめなさい」

「俺はいっとう機嫌が悪い。いいからさっさと話せ」

 這うような殺気が伝わり葛斎はおののく。何梅は眉間を指で押した。

「……何から、話せば良いか。まずなぜ私が楓氏の存在を知っていたか、ですね。いいえ、それを含め、天門に関わることは全て、これは私の母の知恵にるものです」

姥姥ばあさんがどうしてそんなことを知っていた」

「お前も聞いているでしょうが、母は数百年ぶりに生まれた『祝穎ほさき』でした。祝穎というのはつまり騂髪せいはつ、赤い髪のめでたい子ということです。一族では昔から赤毛は吉祥のしるし、そして特に刹瑪シャマの力を備える聖なるもの。族霊ぞくれいは祝穎を通して我々を導き寿ことほぐという言い伝えのもと、母は生まれた時から尊ばれた。巫師ふしとしても、薬師としても、そして戦士としても逸材でした。それで彼女はますます取り分けられた者として特別視された」


 しかし、彼女の青年期は角族にとっては辛苦の時代だったのだ。長年掘っていた麦飯石ばくはんせきの鉱床が枯れ、新たな採掘地を探し当てるまでにひどい飢餓と疫病が蔓延した。水が無いために。


「幼い頃、少なからず私も経験しました。毎朝毎夜の祈祷も功を奏さず、獣の生き血をすすり、泥雪を食べた。家畜は失われ、わずかに採れる果物は死者を出すまでの奪い合いとなり、渇きに耐えられず由水ゆうすいを飲んだ者のしかばねせきがつくれたほどだったと聞き及ぶ。そして、泉地への掠奪はますます苛烈になった。戦士たちは何よりもまず泉に駆けつけて死に物狂いで水を求めた。しかしその間にも領地の老人と女は次々と干からび、子は生まれず、一族は死に絶えてしまうのではないかと危ぶまれる状況だった。なんとかその前に、新たな鉱脈を発見することが出来ましたが」


 それでも危機とは常に隣り合わせだった。石が採れるようになっても、それは真実安寧をもたらす解決方法ではない。やがてはいつかまた枯れ、この絶望は繰り返される。一族は緩やかに確実な死へと向かっているだけだと彼女は気がついた。それで、根本としてこの事態を解決する方法を求め始めた。


「その解決法として探り当てられたのが、大泉地を治める黎泉に介入すること。母は『選定』、つまり天啓てんけいにおける幻を稀有にも忘れなかったためにこの世の条理を悟った」

「前にも聞いたが、それだっておかしな話だ。なぜ姥姥が『選定』に行けた。姥姥は先々代の可敦カトンでしかなかったはずだろう」

「無断で九子を下したからにほかならない」

 韃拓は懐疑の念で呟く。「無断……?」

「そうです。母は許されて『選定』へ赴いたわけではない。なぜなら当主候補ではなく、すでに当主の妻で次代の継承者を生み出す役目の者だったから。しかし、『選定』を誰に挑戦させるかの推挙はあくまで一族の間で定めたおきてでしかない。鋼兼ハガネであれば誰でも天に試される機会を持てる」

「露見せずに『選定』に成功したってのか」

「ええ。彼女にはその力があって、本人も自分のほうが夫である当主よりも能力が高く強いと自覚していたからです。しかしながら母は当主になりたくて罪を犯したのではない。目的は簒奪さんだつではなく、一族の不条理を覆したいという思いからでした。今も昔も、一族の中で母の『選定』を知っているのは私だけ。他にはこの葛斎と、母に手を貸した九泉主のみ」

 葛斎がうずくまったまま悄然と頷いた。

「何梅と出会ったのは幼い頃。妾が入内じゅだいしてからも親交は続いた。一泉の度重なる氾濫に息壌つちを与えてくれたのもあの方と何梅じゃ」

「なんだと……楓氏という存在がいるというのも、姥姥は知っていた?」

 頷き、何梅は大木を見上げた。

「――――これは雄常樹ゆうじょうじゅ。この幹から剥がれた木の皮に包まれて産声を上げていた小さきもの、それが瑜順。そしてここは血楓林けっぷうりん。この赤い木々は兵主神いくさがみ蚩尤シユウが戦いやぶれて死に、変化したものだという。もともとこの場所を探し当てたのも母でした。領地にある数少ない歴史書は、古代文字で書かれたものは私でさえ読むのに難儀するが、母は物心つく前から祝詞のりとを聞いて育ち、古老に文字を習ったゆえそれほど苦はなかったでしょう。しかし楓氏というものが確かに存在するという絶対の確信を得たのは、おそらく九泉を訪ねてからだと思われる。あの地で九泉主と交流し、天に関する知恵を授かった」

 韃拓は拳を握り締めて二人を睨みつけた。

「初めから、角族おれたちと一泉は同盟するつもりだったってことか。わい州の大がかりな掠奪をあえてしたのも、あんたらが示し合わせてたってことだな?」

 何梅は飄々と見返し、葛斎はやはり顔を背けた。

「それでどれほどうらみを買ったと思ってる……!さらにはこの二年にも及ぶ内乱でいったいどれだけの人間が死んだと?」

 仲間と巻き込まれた民のしかばねが脳裏によみがえる。燃え上がる憤怒に震えた。


「お前たちが、全て仕組んでいやがったのか────‼」


 全部、あらかじめ計画されていた。ここまでに至る戦いも、犠牲も、偶然などではなかった。全てこの二人の女王が作為的に駒を交わらせたことによって引き起こされた。


「確かに誤算はあった。最後の掠奪で予想以上に被害を出してしまったし、私が饕餮とうてつを下せず手間取ったせいで肝心の叩扉の儀はずれ込んだ。これは己の力不足をじるばかり。…………けれどそもそもは、――――お前が兄を殺さねば事はもっと早く済んだ」

 何梅はわずかに眉をしかめたが、その内なる怒りが顔の動きに比例せず激しいことは察せられた。

灰仙はいせんならば易々と饕餮を下し、叩扉を行えた。それならば泉地に鴆鳥毒ちんちょうどくなどというけがらわしいものが持ち込まれることもなく、戦士が無駄に死にさらすこともなかったのです」

「それでもどうせ瑜順は死んだろう!」

「他にめぼしい方法がない以上、遅かれ早かれ試さねばならなかった。私とてあれが天門から帰ってきたのを見届け、閉門は成功したのだと思っていたの。しかし、ぬか喜びに終わった。それなら今後はむしろ後手に回りそれだけ状況は悪化する。全てを知って協力してくれる葛斎が死んでみなさい、我々は昇黎することさえ難しくなるのです。叩扉において葛斎の立場と力は絶対に必要なもの、それに私さえもう時は残されていない」

「試した、だと?俺は警告した。瑜順に危険なことをさせたら許さないと」

「お前はいつもあればかりを気にかける」


 私とて、と言った顔が今度ははっきりと、ようやく、韃拓が知るかぎり初めて侮蔑に歪んだ。


「好きでお前を『選定』に行かせたわけではない。あのおぞましいほど美しい人のかたちをした精魅ばけものに懐きすぎたお前にこんな重大なことを任せるつもりは毛頭なかった。だから本当は使いたくなかったのです」

 到底許容できない言葉に頭の中が焼き切れる感覚をおぼえ額を押さえる。

「使っただ……?あんたは、俺を、俺たちをなんだと思ってる。いったい、本当は何の目的のためにこんなことをした。水を得るためだと言う、確かに一泉とは同盟を結べた。だが、天門に関わるなんてことは、方法も不確かなままやることだったのか?早まったんじゃねえのか。泉主がいれば少なくとも水は腐らず、同盟は続いていく。一族が水を失う未来は回避されたはずだ。なのに」

「我々の望みは一時凌ぎのそんなもろい平和をも越えた先にある」

 何梅は葛斎を立たせて手を握った。



「全ての目的はひとつ。――――封じられた神をび覚ましこの崩れかけた八紘せかいを修復してもらう」



 言葉を発せない息子に確固として続けた。

「大泉地から由霧のけがれを取り除き、国境を無くして全地の泉を九合とういつし、泉人も泉外人も分け隔てなく水の恩恵を得られる全く新しい一宇ひとつの大地を享受する」

「な……にを言ってる。そんな夢物語、出来るわけが」

 否定を口にしながら、心の隅で自分の予想は間違っていなかったのだと愕然とした。

「お前こそなぜそれほど信じられないのです。今まで何を見て、何をしてきたのか。大泉地とはそもそもが封神ほうしんをその蘇活そかつまで庇護する為の揺籃ゆりかごだ。だがもう保てなくなってきている。黎泉に眠るままの神を天門の開闔かいこうによってお起こしし、完全に復活させれば、我々神裔こはなの窮状を知らせることが可能だ。お前とて『選定』により神秘を体験した身で、この寰宇かんうがひとりでに創成されたものとはもはや思えるはずがない。……今の世は」

 何梅の表情がさらにこれまで見たこともないほど苦渋に満ちる。

ほころんできているのだ。現に九つの泉のうち二つはすでに『涸れた』。そうして他も同じようになればどうなると思います。滅亡です。揺籃を支える九鼎きゅうていが崩れている危機だというのに天帝は一向に復活しない。おそらく目覚めの時を見失っている。ならば外からかねを鳴らしたてまつらねば大泉地は影現ようげんを迎えないまま沈む」

「途方もなく馬鹿馬鹿しい。天の九重門は九子がいなきゃ開けられない。この上俺を使ってまた天啓をけさせようってのか」

「饕餮がいればそれは必要ない。初めと終わりの九子、饕餮と椒図しょうずは他とは違う。椒図は全てを閉ざす力、そして饕餮は全てを暴く力を持つ。お前の饕餮が一頭いればそれを使って不徳門はひらけるのです」

 韃拓は舌打ちした。「ああ、そうかよ。だがたとえそうだとしても、徳門の『じょう』が足りないだろ。あんたの理想はかないっこない」

 何梅はひとつ息を吐き無感動に見つめたが、言い返さず葛斎に向きなおった。

「葛斎、瑜順が死んで失敗した今、一泉の天門は均衡が崩れ水は濁っているでしょう。かくなる上は最後の手段を使うしかない」

 だめだ、と間髪入れず叫んだ。

「もう三度目だ!これ以上泉主を使い潰さぬために骨を折ってきたのだぞ⁉」

「……どういうことだ」

「開いている徳門を閉ざす最も確実な方法は泉根を絶つこと。つまりは泉主を失わせればいい」

 韃拓は二人を見比べる。「……だが、王太子がいる」

「昇黎していないのであれば黎泉は降勅こうちょくさせることはできないのです。すでに一泉の内門はお前が開けた。開ければ我々にはもう閉められない。言ったでしょう、なぜなら天啓者と九子とは開ける力だから」


 両門が開いているこの状況はすなわち不均衡であり水は腐る。ならばどちらかを閉ざすしかない。しかし内門である不徳門を一度開けてしまえば、閉ざす為にはおそらく用いることが出来るとすれば椒図が必要だが現状不可能。しかしそもそも、徳門ならまだしも開けることで神の復活を誘発する不徳門を開いてしまった。再び閉められるのかも定かでない。

 不徳門は、本来閉める必要のないものだからだ。

 ならば外門を閉めて均衡を取り戻すしかない。――――泉主をしいすことによって。


「くそ……だましやがったな。俺には大事なことを何一つ教えずによくもいいように使ってくれたぜ」

「騙したつもりは無い。お前は瑜順さえいれば納得した。己でよく考えもせず母の願いに乗ったはお前の責です」

「いい面の皮だな‼どの口が言ってやがる、あいつを死なせたくせに‼」

 憤りで喉が詰まって語尾の呂律ろれつは回らなかった。

「ではお前ならあれを救えたとでも?」

 瑜順に真の存在意義を与えてやれたのか。何梅は超然と言い返した。

「あれはな、仲間を愛しすぎた。そして同じものが返ってくることを望んだのよ。愛すれば、きっと愛されると信じたのです。けれど、どれほど人のふりをしようと無理だった。己の身を粉にして全てを捧げれば、受け容れてもらえるのではないかと夢見て、とうとう諦められずに命までなげうった。哀れで強欲で卑しい人になりそこないの鬼」

「黙れ‼」

 韃拓は背に負った大剣を抜き放った。

「鬼だろうがなんだろうが知ったことか!瑜順は瑜順だ!俺はてめえを許さない‼」

「お前はあれの人の姿しか見ていないからそんなことが言えるのです。私が初めて見た時、あれは正視に耐えない吐き気をもよおす醜い妖でした」

 何梅は弓を取る。「天門に必要だったにせよ、あれのことで随分と皆を掻き乱した。それでも育ててやったこの私に刃を向けるのですか。韃拓、自分のやっていることが分かりますか」

 ああ、と咆哮を吐いた。


「今までになく豁然はっきりとな。――――何梅。てめえは俺がここで殺す」


 鋒先きっさきを突きつけた韃拓は首を鳴らして母親と同じ無感動なかおをしてみせた。

「ならぬ!」葛斎が声を上げたが、何梅は彼女を突き飛ばす。

「気に入らねえが瑜順が信じた道だ。あとは継いでやる。だが俺がいる限りお前は必要ない。そうだな?」

「……その通り。けれど、一泉の不徳門が開いたのならば、逆に言えばもう饕餮は絶対に必要なものではなくなった。むしろ七頭を支配下に置く私は有用です。それとも、お前はこれから残りの門を全て独りで開き、天門開闔かいこうを成し遂げられると?」

「他の国なんて知らねえよ。だが、一泉が黎泉の支配から逃れるなら、これからさき水を汚せば浄化する奇跡の力はもうアテに出来ないってことだ。それは心許ない。使える水が失くなればまた一族は締め出されるかもしれねえからな。なら、大泉地の統一はやったほうがいいってことだ」

「見ものですね」

「心配ない。母上どのは目にすることはない」


 言うやいなや間合いを詰める。振りかぶった刃を鉄の弓で受け止めた何梅は鼻でわらった。


「兄のみならず、母まで手にかけるか」

「子殺しのクソッタレに言われたくねえな!」


 何梅は風を裂く轟音を伴い横にいだ刃の上に跳躍し、すぐさま距離をとる。白矢を三本つがえた。対し韃拓は瞬時に狙いを定める。



 ――――瑜順のかたきは俺がる。おとなしく首を差し出せ。



 たけり狂った斬撃が目にも止まらぬ速さで枝を断ち切り、地を食む。赤い葉が千々に舞う。血飛沫そのものだ。


 韃拓は長剣、獲物に近寄れば断然有利であり、何梅が矢をつがえ狙いを定めるまでには一足飛びに斬りかかれる。近づき離れ、また接近する鉄が激しくぶつかり合うのを葛斎は木の根に縋ってただ見ていることしか出来ない。どうして、と鳩尾みぞおちの下がひどく痛み、黒い絶望に飲み込まれていく。結局、泉主を失わせなければ徳門が閉じられないのはどうしようもないということなのか。


 あの日、あの時、もし何梅と出会っていなければ、何かが変わったろうか。むしろ変わらなかったろうか。しかしたとえ自分たち二人が邂逅しなかったとしても、何梅がやることはひとつだった。角族が真に本気を出せば、一泉宮に乗り込み、方壇ほうだんを占拠して昇黎し、天門を開いただろう。そして王たる泉主と朝廷を支配する太后の自分を殺して真の意味で泉国への侵略を史上初めて達成させた。彼らにはその力があった。

 しかし大泉地を統合しようと目論む何梅が残りの泉国を同じようにただ力だけで蹂躙じゅうりんするのは流石に無理がある。だからこそ和解の為の道をひらいた。

 そしてあらゆる可能性を探り、吟味して試してきたのだ。今度こそと葛斎さえ思った。しかし望みはついえた。楓氏は門を閉じて一年と経たないうちに壊れた。


 ここで拾った当初から、何梅が楓氏についてどれほど知っていたのか、母親からどこまで聞いていたのか葛斎は知らない。しかし早い段階から彼女は瑜順の利用価値に気がついた。由霧に浸蝕おかされはしないが水を取り入れることも出来ない、この世とはまったく相容れない異質の存在。

 なにも葛斎とて彼を失わせたいと思っていたわけではない。むしろ貴重な『錠』として、泉主を殺さず徳門を閉じる現状唯一の方法だと考えてきたのだ。


 何が間違っていたのか。いずれにしてもおそらく無理だろうと分かっていてこちらに忠告さえ与えてくれなかった九泉主には怨みが募るが、あちらも天について全てを知っているわけではないということなのかもしれない。それに彼は特段、志を共にする仲間ではない。だから瑜順のこともぎりぎりまで隠していた。たとえ初めから知らせこちらが一方的に詳細を聞き出そうとしても、素直に肚裡はらの内を教えてくれるような者ではない。好きにやってみるといい、と小魚たちを眺め、舟の上でほくそ笑む。

 分かっていた、分かっていたはずなのに、長年の付き合いや書簡のやりとりで少しは情けをかけ協力してくれているのではないかと錯覚した。冷静になれば有り得ないことだ。こちらは天域に介入するという禁忌を犯そうと企み、そして実行したのだから。


 瑜順は指示したとおり九泉主に己が楓氏だと明かした。そして王はこちらのやろうとしていることを把握した上でそれでも請願されるまま椒図を貸し与えた。が、だ。あとは知らないということだった。



 結局は、自分の考えが浅すぎたのだ――――。



 葛斎は苦悩に打ちひしがれた。何梅はこの計画がもしかすれば失敗するのではないかという予見をすでに持っていた。自分は、全くと言っていいほどそんな憂いがなかった。完璧に完遂したと踊り上がった。なんと滑稽だったことだろう。

 かつての叩扉の儀はことごとく失敗し、葛斎は自らの意思で夫を失わせた。あまつさえ、もう一人も捧げなければ事態は収まらなくなってしまった。こうなった以上は、今は現泉主が自分の腹を痛めて産んだ子でなくて良かったというだけがわずかな慰みだ。


(もう、そんな、つまらないことしか、思い浮かばない)


 茫失して眼前の光景をただ瞳に映していれば、母子おやこは石火を撃ちつけ合い、泉民の葛斎には残像さえも目に追えないほどの瞬速で殺し合っている。


 …………もう、うんざりだ。血も、汗も、泥も、毒も。


 たとえ自ら手を汚していないとしても、もう体も魂もけがれにまみれている。両手で顔を覆った。洗ってきよくなることはもう不可能だ。もう疲れた。ならば、終わりにしたい。何もかも。死んで、楽になりたい。



「太后陛下。それはまだ駄目でしょう」



 密やかな耳語じごに弾かれ振り向き、捉えた人影に顎を落とす。なぜ、と呟こうとしたが喉は詰まって自由がきかなかった。




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