五十六章
天幕に帰ると低い獣のような呻き声が響いてきて
眼前の光景に脳天を叩き割られたほどの衝撃が走る。
「――韃拓
掻き抱いた塊から突き出た、白い
「うそだ…………」
季娘もまた、幼い頃から恋い慕い憧れていた者に
泣きながら首を振り、季娘はおぼつかない手で
「韃拓兄…………」
「……眠った、だけだ……」
絞り出した声は絶望と怒りに呑まれていた。「少し、疲れただけだ。こいつはすぐ熱を出すから。起きたらまた相談しなきゃならない。
だって、と
「やっと戦が終わって、まだ、一年しか経ってない。やっと毒を
ごきりと骨の折れる音がする。締めつけられた故人の飛び出た
「……お願い、離してあげて……」
燃える双眸は制止の言葉など聞いていなかった。
「兄さん‼」
いたたまれず、力を弱めない腕を拳で叩けば遺体はやっと降ろされた。
「出ていけ」
韃拓は顔を俯け感情なく命じた。
「誰も近づけるな」
とめどない
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
泥まみれになりながらうわ言になるまで呟いていれば、ふいに、ざり、と足音がしてびくりと
「季娘さま」
思ったよりすぐ近くで気配があって跳び上がった。
「当主はまだ?」
至極平然と問うてくる男の声には聞き覚えがない。
「ええ……でも、いまは」
「あなたは皆に訃報をお知らせください」
足音は離れ天幕に向かう。
「ちょっと、でも」
目を凝らした。暗闇に慣れてきた視界に天幕内部の明かりがひらめく。人影が入口の
季娘はさらに悲鳴をあげて尻餅をつく。慌てて目を擦った。よく整った顎の線と鼻梁は分かった。しかし、その額に生えていたのは、角。さらに口の中にしまえないほどの
主は背を丸めて座っていた。
しばらく経っても無言だった。
「お前、嘘をつきやがったな」
やがてぽつりと
「なんのことでしょう」
「一泉宮の谷底に落ちたとき、お前は俺の
被った毛皮を撫でる手を感慨なく眺めた。
「――――それが?」
黒い背は振り返った。目の先にいるのは見たこともない青年、編んだ豊かな髪をもったりと肩に垂らしていた。火を映しただけのなんの感情もない瞳でひたと見つめてくる。
「ですが嘘だと叱責されるには語弊がありますね。喉歌を聞いたのは事実です。それに主どのに嘘はつけない」
どんな姿をしていようと韃拓を
「なぜあのときすぐ助けに来なかった」
「居場所は分かっても主どのがどんな状況にあるかまでは把握出来ない。……とはいえ、私はあなたと一心同体の身、ある程度の感情は測り取れる。あなたは
「毒矢を受けていた」
「死ぬならそれまでと思っていましたよ。所詮はどちらかの
韃拓は下僕を睨んだ。
「てめえは信用ならない。主が死んでもいいと思ったのか。お前らにとって契りは『
「もちろん、主どのとの関係は私にとっては心地好い。なにより安定しますから」
「
怒声に怪訝になる。「……はい」
「答えろ。お前は他の獣
問いに
「なぜそうだと?」
「舐めるな。先に俺に手を出してきたのはお前だ。それを偶然で片付けるほど俺はおめでたくねえ」
罔象は黙ったまま体を傾けた。ニタ、と笑った口には牙。
「――――それで?私に何をご所望で?」
韃拓は遺骸を寝かせた
今やそれは韃拓の思いのままに動く手足。
「教えろ」
大振りの一刀を担ぐ。
「あいつの居場所を」
「留守は頼んだぞ」
弔問の人波から外れ、目立たない木立の中で言うと本当によろしいのですか、と下僕は己と同じ瞳で群衆を見た。
「ボロが出ないとは限りませんが?」
「くだらないことを言うな。それと、分かってると思うが」
それにはくつくつと笑う。
「心配せずとも可敦さまにちょっかいを出したりはしません。人の色欲というのは概念として認知は出来ますが、私には本質として分かり得ないもの。まあ真似事をせよと言われるのでしたら」
「しなくていい。余計なことは何もするな」
主は身を
一族の弔いは長い。特に
死――物質界に存在する個の消失を
――――人とて、虫の死を哀れんだりしないではないか。
そう得心し、青い舌で舐めずった。
一族が北と南の
黎泉というのは確かにこの世に存在するが、人や馬や、鳥獣その他妖を含めて
垂直に屹立する岩山だが折り重なった石の爪に亀裂や割れめがある。そのひとつに駆け上がり、白い息を吐いた。
霧立ち昇る森を眼下に見渡す景色は
霧の中で
だがこの話はそもそもが矛盾している。霧の中で煙は見えないし、まして近くにいなければどこで火を
ふつうに考えれば、こんなことはありえない。
ならばありえないのはこの霧のほうだ。泉人には害、角族でさえこの霧に侵された水や生物を飲み食いするのは難儀する代物だ。だとすればこれは泉国の泉が水の形を取る別の何かであるのと同じく、ただの霧のようでその実別のものだ。たとえ霧は霧で水は水として人間に作用するとしても、やはりそれらは何らかによって手が加えられている、といつのまにか確信していた。――――裏側に、故意を有す存在の気配を感じる。
選定と契り。泉人と泉外人、掟と罰。血脈。瑜順の存在。彼が語ったこと。天の水門。
世界が偶然に出来上がったにしては見えない制限が多すぎた。事あるごとに関わってくる、天意という名の――――毒。
(そう、毒だ)
韃拓にとっては全ての辛苦の元凶はこの
自覚して、立ち止まる。
もし、祖母と母が同じように考えたのならば、これまでのことはつまり、その
「そういう、ことなのか……?」
辿り着いた結論に困惑したが、突拍子に的外れだとも思えなかった。
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