五十六章



 天幕に帰ると低い獣のような呻き声が響いてきて季娘キジョウは慄然と立ちつくした。すぐ我に返り薬籠を投げ捨てて駆け込む。


 眼前の光景に脳天を叩き割られたほどの衝撃が走る。うずくまる黒い影は病人の胸に頭を埋め、喉から苦しげに引きれた叫びをあげていた。


「――韃拓にい!」


 掻き抱いた塊から突き出た、白いやがらかと見紛う腕がぶらぶらと力なく揺れる。惨景に血の気が引き、膝から力が抜けた。脈を確認するまでもなくすでに病人は死人となっていた。悟った瞬間、視界が滲み、しゃくりあげが漏れた。


「うそだ…………」


 季娘もまた、幼い頃から恋い慕い憧れていた者にすがって泣きむせぶ。冷たい――氷の四肢は今にも粉々に砕けそうだった。半分開いた瞼のなか、長い睫毛に縁取られた紅玉石はすでに輝きを失い、白蠟はくろうの頬に垂れていく生温なまぬるい水のみが、彼が確かに生きていたという残滓ざんし。韃拓が震える指で必死に拭う。まるで瞳の中に戻して生気をよみがえらせようとするかのように。


 泣きながら首を振り、季娘はおぼつかない手でめ込まれた宝玉を隠した。荒い息を繰り返し、猫が逆毛立って全てに怯えるさまと酷似した姿の韃拓をやるせなく見た。それか、肉をむさぼり喰らう飢えたはぐれ虎よろしく、獲物を捕らえて離さない。


「韃拓兄…………」

「……眠った、だけだ……」


 絞り出した声は絶望と怒りに呑まれていた。「少し、疲れただけだ。こいつはすぐ熱を出すから。起きたらまた相談しなきゃならない。胡市いちのことも、鉱脈のことも、今年の冬の祭のことも。こいつがいなきゃ、駄目なんだ」

 だって、とえる。

「やっと戦が終わって、まだ、一年しか経ってない。やっと毒をきよめ終わったんだ。俺たちはこれからなんだぞ。いないんじゃ、何も出来ない!」

 ごきりと骨の折れる音がする。締めつけられた故人の飛び出た肋骨ろっこつの先が肌の上に見え、季娘は、やめて、と力無く言った。

「……お願い、離してあげて……」

 燃える双眸は制止の言葉など聞いていなかった。鋼兼ハガネではない、あまりに弱々しい身体からだが悲しみのあまりやわい果実のごとく潰され、白い肌の黒いまだらの上にさらに赤い染みをつくっていく。

「兄さん‼」

 いたたまれず、力を弱めない腕を拳で叩けば遺体はやっと降ろされた。

「出ていけ」

 韃拓は顔を俯け感情なく命じた。

「誰も近づけるな」



 とめどない流涕りゅうていをそのままに外へ出る。濡れた肌を寒気が刺した。西には燦然と染めあがった夕陽が峰々の合間に沈もうとしており、追い込んだ藍の闇に輝く星の砂粒をばら撒かれた空は荘厳に美しい。その幻想風景がいまはひどく冷たく目に映る。たまらず地に額を叩きつけて泣いた。自分の不甲斐なさを呪い、失われた者を想う悲嘆の心はいつの間にか懺悔ざんげに変わっていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 泥まみれになりながらうわ言になるまで呟いていれば、ふいに、ざり、と足音がしてびくりとすくむ。誰かが来たら、告げなければならない。口にするのもおぞましい事実を。そう思い恐々と起き上がる。陽はすっかり落ち、あたりは山と木々の輪郭程度しか分からない。


「季娘さま」


 思ったよりすぐ近くで気配があって跳び上がった。

「当主はまだ?」

 至極平然と問うてくる男の声には聞き覚えがない。

「ええ……でも、いまは」

「あなたは皆に訃報をお知らせください」

 足音は離れ天幕に向かう。

「ちょっと、でも」

 目を凝らした。暗闇に慣れてきた視界に天幕内部の明かりがひらめく。人影が入口の帷帳とばりをめくった光だった。ちらりと照らされた顔は――――。


 季娘はさらに悲鳴をあげて尻餅をつく。慌てて目を擦った。よく整った顎の線と鼻梁は分かった。しかし、その額に生えていたのは、角。さらに口の中にしまえないほどの虎牙やえば。泣き疲れて見間違えたか、なにか仮面でも着けていたか。まさか、ともう一度見直そうとしたが、男はすでに天幕の中に入ってしまっていた。





 主は背を丸めて座っていた。

 炉端ろばたを挟みその向かいに立つ。揺らぎに合わせて照らされた物の影が伸縮する。

 しばらく経っても無言だった。おきぜる細かなかすれと幕外の風鳴りの他には何の音もなく、生きた人の気配も主をおいてはどこにもない。

「お前、嘘をつきやがったな」

 やがてぽつりとなじる声がした。

「なんのことでしょう」

「一泉宮の谷底に落ちたとき、お前は俺の喉歌うたを聞いて来たと言った。だが嘘っぱちだな?お前は俺がどこにいようと分かるはずだ。ハクがそうだったのと同じで」

 被った毛皮を撫でる手を感慨なく眺めた。

「――――それが?」


 黒い背は振り返った。目の先にいるのは見たこともない青年、編んだ豊かな髪をもったりと肩に垂らしていた。火を映しただけのなんの感情もない瞳でひたと見つめてくる。


「ですが嘘だと叱責されるには語弊がありますね。喉歌を聞いたのは事実です。それに主どのに嘘はつけない」

 どんな姿をしていようと韃拓をあざむくことは出来ない。

「なぜあのときすぐ助けに来なかった」

「居場所は分かっても主どのがどんな状況にあるかまでは把握出来ない。……とはいえ、私はあなたと一心同体の身、ある程度の感情は測り取れる。あなたは可敦カトンさまといることを快いと感じておられるようだったから、しばらく放置していたまで」

「毒矢を受けていた」

「死ぬならそれまでと思っていましたよ。所詮はどちらかの魂魄こんぱくの消滅によってこのちぎりは絶たれる」

 韃拓は下僕を睨んだ。

「てめえは信用ならない。主が死んでもいいと思ったのか。お前らにとって契りは『がれ』だと言ったのは自分だってことを忘れてやがるのか」

「もちろん、主どのとの関係は私にとっては心地好い。なにより安定しますから」

罔象もうしょう‼」

 怒声に怪訝になる。「……はい」

「答えろ。お前は他の獣きのにおいも追える。そうだな?」

 問いにひそめたものが弧を描いた。

「なぜそうだと?」

「舐めるな。先に俺に手を出してきたのはお前だ。それを偶然で片付けるほど俺はおめでたくねえ」

 罔象は黙ったまま体を傾けた。ニタ、と笑った口には牙。

「――――それで?私に何をご所望で?」

 韃拓は遺骸を寝かせた牀褥ねどこから体を反らし立ち上がった。ゆらゆらと踊る火焔ほむら、しかし挟んで座した下僕には同じように揺らぐ影は無かった。空間にどこかから切り取って貼り付けたかのような妙な違和感。本来ならば存在さえ伝説の、決して人と交わることのない異形の妖。

 今やそれは韃拓の思いのままに動く手足。

「教えろ」

 大振りの一刀を担ぐ。

「あいつの居場所を」





 むじなと水の地に残っていたごく少数の男は悽愴せいそうに頭を垂れ、女子供は一様にいている。特に大木に縋って慟哭どうこくする女の悲痛な叫び声が鼓膜ににかわのようにこびりついていく。


「留守は頼んだぞ」

 弔問の人波から外れ、目立たない木立の中で言うと本当によろしいのですか、と下僕は己と同じ瞳で群衆を見た。

「ボロが出ないとは限りませんが?」

「くだらないことを言うな。それと、分かってると思うが」

 それにはくつくつと笑う。

「心配せずとも可敦さまにちょっかいを出したりはしません。人の色欲というのは概念として認知は出来ますが、私には本質として分かり得ないもの。まあ真似事をせよと言われるのでしたら」

「しなくていい。余計なことは何もするな」

 主は身をひるがえす。見送り、視線を人々の輪の中心へ向けた。


 一族の弔いは長い。特に壮士そうしは二年から三年、遺体を入れたひつぎを樹の上に架けて安置し、その後にもう一度葬礼を行い火で送った。


 死――物質界に存在する個の消失をいたむという考え方も、認識は出来るが真には理解に至れない。たとえるなら、人が人以外の獣の意思疎通や本能的行動を、そういう動きをするものだと分かってはいるが、実際に彼らの間の言語を話したり感じ取れたりしないのと同じ。出来ない、というのは努力すれば越えられるたぐいのことではなく、根本としてへだたりのあること、異形の自分にとってはだということ。


 ――――人とて、虫の死を哀れんだりしないではないか。


 そう得心し、青い舌で舐めずった。







 一族が北と南の遷住いどうでよく使う崖道からは逸れてまっすぐ北へ北へと進む。すでに天を貫く途方もない高さの灰色の山肌が臨めた。


 黎泉というのは確かにこの世に存在するが、人や馬や、鳥獣その他妖を含めてうつつにいる全ての生物が勝手気ままに訪れたりは出来ない天の庭である。大泉地共通の認識として、人々は神が住まい九泉きゅうせん全ての国の源泉を育む場所が黎泉であると考えている。それは世界の最北にあるのであり、ゆえに各泉川せんせんの流れも北から南なのだと。そして黎泉を深きに守り外淵を囲った山、それが、神域と呼ばれる霧界の中の未踏峰だった。どのくらい大きいのか、韃拓には測り知れない。山頂の見えぬ突兀とっこつは近づけば距離感が狂うほど幅も長大な峰巒ほうらんで、ここまで来ると移動しても風景がまったく変わっていないように見えた。


 垂直に屹立する岩山だが折り重なった石の爪に亀裂や割れめがある。そのひとつに駆け上がり、白い息を吐いた。

 霧立ち昇る森を眼下に見渡す景色は沈鬱ちんうつに濃い紫と黒。天空には白灰の帷帳とばりが降りる。四不像しふぞうを下り、寒風を誘う幽玄の縦穴に足を踏み入れた。


 霧の中で日陽にちよう月陰げついんが二つや三つに見えたなら、それは不吉なものである。元に戻るまでは動くべきではない。

 だがこの話はそもそもが矛盾している。霧の中で煙は見えないし、まして近くにいなければどこで火をいているのかも分からない。そんな視界のない場所で、それなのに何故か昔から光の在処ありかは不思議と見えた。空自体が曇っていたり雨だったりする以外は、必ず紫色の紗幕を通して把握できたのである。


 ふつうに考えれば、こんなことはありえない。


 ならばありえないのはこの霧のほうだ。泉人には害、角族でさえこの霧に侵された水や生物を飲み食いするのは難儀する代物だ。だとすればこれは泉国の泉が水の形を取る別の何かであるのと同じく、ただの霧のようでその実別のものだ。たとえ霧は霧で水は水として人間に作用するとしても、やはりそれらは何らかによって手が加えられている、といつのまにか確信していた。――――裏側に、故意を有す存在の気配を感じる。



 選定と契り。泉人と泉外人、掟と罰。血脈。瑜順の存在。彼が語ったこと。天の水門。

 世界が偶然に出来上がったにしては見えない制限が多すぎた。事あるごとに関わってくる、天意という名の――――毒。


(そう、毒だ)


 韃拓にとっては全ての辛苦の元凶はこの寰宇かんうそのものなのであり、それは敬意を抱き、崇め、祈りを捧げる対象としては到底思えなくなっていた。


 自覚して、立ち止まる。



 解放救世しなければならない――――?



 もし、祖母と母が同じように考えたのならば、これまでのことはつまり、そのすべを探り、試していたということにほかならないのではないか。

「そういう、ことなのか……?」

 辿り着いた結論に困惑したが、突拍子に的外れだとも思えなかった。




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