五十五章
領地の夏は短い。そもそも夏といっても日中の陽射しはきついが朝夕は肌寒いほどで、峰々から吹き降ろしてくる風はおおよそ
無駄撃ちなく
岩の上にどっかりと腰を降ろし、弓を張り直していれば
「おお、意外とでかかったな」
何度も頷いて矢を抜き鳥を
「族……当主!」
片手には弓、もう一方には耳を貫いた兎を連ねた矢を担ぎ、黒い毛皮を羽織った人影は少年らの姿をみとめて、おう、と頷いた。
「
「今日のはでっかいぞ!」
唖理と共に掲げて見せれば、に、と笑う。
「それは
「当主の兎とひとつ交換してくれよ。兎はなかなか難しいんだ」
賽風坊がせがんだが、悪いな、と断る。
「これは病人のだ」
「瑜順?目が覚めたのか⁉」
「久しぶりにな」
唖理が会いたい、と身振りで示したものの、これにもすげなく首を振る。
「……言ったろ。近づいたら駄目だ」
「でもいいかげん長すぎるだろ。春に倒れてから、今はもう秋だぞ」
食い下がった。「それほど悪いなら先代に
「まだ移動は始まってないがどのみち冬には帰ってくる。お前たちは今のうちに食糧を集めておけ」
そうして当主はまた森に分け入って去ってしまった。
「……なあ、唖理。当主はあんなだったか?」
訊くと、俯いて悲しげに眉を下げた。
「瑜順が伏せってから元気がねえよな」
よし、と暗い気分を打ち消すように声を上げた。
「いっぱい溜めて、冬に贅沢できるようにしようぜ!沢山食ったら病も治るだろ!」
な、と笑いかけると唖理も両手を挙げて賛同した。
人影のない
その上に取り付けたひらめく旗が見えるほどまで来て、韃拓は前方から女が歩いてくるのをみとめた。あちらも気がつき、道を譲るために脇に寄った。
それで、通り過ぎる間際に立ち止まる。
「……近づくなと言ったよな?」
低く
「どんどん弱っています。なぜ何梅さまを呼び戻して下さらない」
「
「あの子では駄目です!」
「
「このままでは
地面に爪を立てた。
「なんの病かも分からず、気休めの治療しかされていない!」
「だから
言えば悔しげに唇を噛んで俯いた。
「そもそも、泉地なんかに降りるからわけの分からないものをもらってきたんだ。あの眼はなんだ!血の色に変わって、肌はどんどん土くれのようにっ……‼」
怒りに燃える女は
「あの公主が良くないものを連れてきたんだ。だから体の弱い瑜順に巣食ったんだ」
韃拓はその胸ぐらを引き上げた。
「わきまえろ。
女は顔を歪め泣きそうになりながらも鼻で嘲笑う。
「みんな陰で噂してる。あの女は
言い切った途端平手で打たれた。女は一瞬放心したが、掴みかかって叫ぶ。
「私の瑜順を返せ!」
「あんたのじゃない‼」
「どうして……!瑜順が……!」
声にならない絶叫と
「やっと、ずっと一緒にいられると思ったのに、ずっと待っていたのに……」
韃拓は奥歯を噛み締めた。
「……とにかく、こう毎日見舞っていて、もしもあんたに何かあれば
いいな、と硬く言って腕を引き剥がす。女は座り込んだまま泣き続けていた。
暗い天幕に音もなく入り進む。狭い最奥に友が寝かされていた。隣に座り、声を掛けるとうっすらと瞼が開く。
「ああ……韃拓」
「気分はどうだ。粥ばっかりじゃ飽きるかと思って兎を持ってきたぞ。食えるか」
瑜順は弱々しげに笑って微かに首を振った。
「お前が、食べるといい……」
「水は」
言い募れども、
「……あの
「すこぶる元気だったぜ」
くすり、と笑う。「おおかた……俺のこれが、姜…恋さまの、せいだとでも、言ったんだろう」
「よく分かってる。あんなののどこがいいんだか」
言うと、愉快そうに頬をひくつかせる。しかし生気を失ったそれには
「あのひとは……他人に、決して媚びない。そこが素敵なんだ……。可哀想なことを、している。病だと、……偽って」
少し意識がはっきりしてきた。何度か瞬き、赤い眼で見つめてくる。「今日は、立秋くらいか?」
「ばか言うな。もう秋分を越えた」
「そうか……そう」
久しぶりに目覚めてすでに時の感覚もなかった。韃拓は火を強くした。茫洋とした顔に橙色の光が照る。しばらく沈黙していたが、ついと頭を向けた。
「韃拓……少し、起こしてくれ」
「どうした?」
「…………俺に、時間をくれるか」
「ああ、もちろん」
伸ばされた手を握る。もう
「裏返して」
と懇願した。「俺の
言われたままにすれば、もう一方の腕も伸びてきて同じようにする。
「分かるか?」
韃拓は凝視する。
「よく見ろ」
噛んで含めるかのごとく繰り返した。
「なんだ……?」
「
目を
瑜順は乾いた笑い声を立てた。
「お前に約束したな。俺のことを全て話すと。今なら、出来ると思う」
しばらくの沈黙の後、ゆっくりと胸に手を当て、己を示す。
「俺は――――人ではないんだ」
韃拓は言葉を反芻した。「どういうことだ?」
「そのままの意味だよ、韃拓。俺は、人の
「それは、そうだが」
「ふつうこんなことは有り得ないんだ」
「じゃあ、お前は何なんだ?」
いまだ脳内が疑問で満ちたまま問う。
「俺は呼ぶならば、
「楓氏?」
「かつて、神々の戦いを逃れ、落ち延びた神のひとり、
「天門に……」
「そう。だから俺は『選定』に挑んで
「ああ。お前が
瑜順は頷いた。
「本来ならば、獣の
「だがお前は椒図で閉めた」
「九子のなかで、唯一、椒図だけは開ける力ではなく、閉める力のみを有すると、
「俺が『選定』で九子と
「……お前は鋭いな……」
その通りだ、と言う。
「上手くいったと思ったんだが……どうやら失敗のようだ」
「待て。じゃあ今のこれはそれが原因だってのか⁉」
信じられない思いで尋ねればどこまでも
「九子片方だけでは、門へは行けない。必ず、対となるものが要る。泉主を
そして、と億劫そうに舌を動かす。
「俺が与えられた」
「何を……言って……泉主を、失くさず?」
「
か細い指が韃拓の袖を握る。
「そうなれば、二門の均衡が崩れる。一泉の水が濁る」
「は……?どうすりゃいい」
問えば黙し、ひどく痛ましそうに眉間を盛り上げた。
「一泉においては、二つの門がどちらも開いているのも、閉まっているのもそれは本来のかたちじゃない。不徳門は、本当は神意によって来たるべき時に開放されるものだ。その時必ず、徳門は閉まっている」
なら、と瞼を閉じる。
「不徳門が開いているのに、閉めた徳門が破れれば、『鍵』と『錠』の役割もまた混濁し崩れる」
「どうなるんだ」
「最も避けていた手段に出なければならない、かもしれないし、さらには、禁忌の領域を侵した我々にどんな罰が当たるやもしれない。……まあ、俺はまさにその最中なわけだが」
自分を
「……待て。待てよ。なんで、そんなこと分かるんだ。俺たちは確かに
「分かる……お前もそうじゃないか?
ゆっくりと頭を撫でられてなんだそれは、と理解の及ばないままで愕然とした。
「そもそも、人じゃないってなんだ?俺と同じように育ってきたのに?」
「初めにそれを教えてくれたのは、俺たちのお
思いもよらない話にまじまじと平然とした顔を凝視した。
「
瑜順はしばらく沈黙し、再びおもむろに口を開く。
「俺は……韃拓たちが美味だ珍味だと幸せそうに食べるもの、飲むものがすべて
俺は変なのか、なぜ皆と違うのか、どうしたら同じようになれるのか……いつも泣きたい思いを抱え、孤独に
けれど俺には課せられた役目があった。生まれた時から、それはお祖母さまと母上さまに教えられて育った。それだけが俺が俺自身を生かす意義だったんだ。一族に水を
けれど、何もかも上手く出来ても、どれだけ一族に尽くしても、俺はどうしても
受け容れたくなかった。人でないと認めてしまえば、今感じているこの気持ちも肉体に付随して
「……けれど、韃拓、お前が傍にいてくれた。お前がいるかぎり、俺にはそれがいちばんの存在理由だった」
「意義とか理由とか、そんなもん知るかよ。お前はいるだけでいい。俺にとっては」
「そういうお前だからこそ、安心して共におれた」
何者でも構わないと言う、無私の好意を
愛している、とかそけいた声でささめく。
「お前だけが俺の光だった…………」
じわり、と頬の
「もう
「……韃拓、お前は俺の唯一の味方だ。そして、俺もそうだ」
伸びてきた冷たい指の背で頬を撫でられ、喉が詰まった。握った手に額を押しつける。
「…………前に、言ったよな?俺にだって怖いものがあるって」
声の震えが抑えられない。
「それは仲間を失うこと、そんでもっていちばんはお前が居なくなることだ、瑜順!分かってんだろう⁉」
彼は笑んだままだ。しかし目の端に澄んだ涙が浮かんだ。
「韃拓……俺はいつだって、お前の
うそだ、と叫んだ。そんなもの、自分が作り出したただの虚像にすぎない。そんなのは瑜順じゃない。
「だめだ……‼」
わななく唇を噛み締める。血味がした。生まれた時から隣にいた瑜順。怒りや喜びを分かち、叱られ、褒められ、競い、時には喧嘩もしたが認め高め合った、互いに必要不可欠な存在。手を引いてくれた横顔はいつも穏やかで、それは今も変わらず。
「…………誓いを、忘れるな…………」
忘れるな。俺はいつもお前の味方だってこと。
握った手の力が失われてゆく。韃拓はただ目を
「いやだ……いやだ!瑜順‼」
渾身の叫びが空虚な
――――水の地を。
そう呟き、人ならざる美しい友は逝った。
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