第10話 The Raven

 父はそれを見送り、ぼくたちの方を見ました。

「走るぞ」

 信号が青になり、ぼくたちは広い道路を走って彼のところへ急ぎます。

 彼は驚いた顔をしながらも、ニヤリと笑ってビルの角を曲がっていきます。

「待て!」

 クリスが叫びます。それは日本語でした。

 父は振り返ることはなく、帽子が飛ばないように手で押さえながら、スーツの裾をひらひらさせて走っていきます。

 彼も足は速いのです。

 でも負けていません。ぼくはクリスを追い越し、あっという間に父親の背後に追いつきました。ぼくは父を示すだけで、ほかにどうすればいいのか教えてもらっていません。でも、クリスが追いかけたのだから、捕まえるべきだと判断していました。

 それに本当の父なのか、確かめたかったのです。

 彼は広い駐車場へ走り込みました。

 一列に並ぶ乗用車。その中の黒いクルマに接近するとドアを開けて乗ろうとしました。

「お父さん!」

 ぼくは日本語で叫びました。

 父はドアを開けながらぼくを見て「俊か。どうしてここへ」と言いました。

「お父さん!」

 それしか言えません。ずっと感じたことのない懐かしさ。それが一度にこみあげてきたのです。

「乗るか?」

 足の悪いクリスはまだずっと後ろです。

 どうすればいいのでしょう。

 父がなにかを言い、ぼくのわき腹に指先を軽くあてました。

 もやもやが一瞬晴れて、すごくうれしくなり、「乗る!」と叫んでいました。

 これは父のタクシー。そう、タクシーの運転手。父はY市でタクシー運転手をしていた。その父がなぜダラスに?

 そのとき、正面、そして左右から二人組の男たちが現われ、ぼくたちを囲むように走ってくるのが見えました。黒いネクタイをひらひらさせています。

「悪いね。ここで彼らと話をしている暇はないんだ。また今度、ドライブしような」

 父はそう言うと、ぼくを乗せてはくれず、バタンとドアを閉じてエンジンをかけました。重々しい大きなエンジンが噴き上がり、タイヤをキュッと鳴らして走り出します。

 クリスが立ちすくんでいる大通りを目指して加速すると、ギーッと激しい音を立てて飛び出して行きました。

 男たちはぼくを無視してその方向へ走りながら、無線機でなにかを怒鳴っています。

 ああ、この人たちはどこかで会った、と感じました。あれはどこでしょう。Y市だったのではないでしょうか。懐かしい。ぼくは椅子に縛り付けられて……。

 父の指先をまだ右わき腹に感じています。

 クリスがやってくるまで、ぼくはそこに突っ立っていました。

 パレードははじまっていました。

 音楽が聞えます。遠くで歓声のようなものもこだましています。街はとっても賑やかだったのです。

「本当に俊のお父さんだったのか?」

「ぼくは壁野俊。壁紙の壁、野原の野、俊敏の俊。Y市O区M町。市立M小三年七組。電話は……電話は……。ちくしょう、電話は……」

 電話が思い出せません。

「やめろ。もういいんだ」

 クリスが抱き締めてくれました。その匂い。手の感触。

「お兄ちゃん!」

 クリス。いえ、それはぼくの兄。足の悪い探偵になりたかった兄。才能があればいいのにと嘆いていた兄。

「泣くなよ」

 ここはいったいどこなのでしょう。

 道路から音楽と喚声が波のように、ここまで伝わってきました。

 直後、パン、パンとなにかが弾ける音もしました。賑やかな音が一瞬、消えたような気もしました。そして悲鳴。わめき声。

「なんだ!」とクリス、いえ兄。

 悲鳴。怒号。

 突然、オープンカーと白バイが猛スピードで通り過ぎていきました。そのあとを何台もの黒塗りのクルマが追っていきます。

 見上げると、広告の時計は「12:32」となっていました。

「Nameless here for evermore.This it is, and nothing more.」

「なんだって?」

 と兄に聞かれました。

 ぼくは、父の指先と囁く声を思い出していたのです。

「Nameless here for evermore.This it is, and nothing more.」

 それは有名すぎるフレーズでした。

「お兄ちゃん、わからない? エドガー・アラン・ポーの……」

「The Ravenだな」と兄。「それがキーワードだったのか」

「キーワード?」

「俊の記憶を開く暗証番号だ」

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ブラッドシティ2 本間舜久(ほんまシュンジ) @honmashunji

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